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世界の覚書

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「トプチュ兵舎」再建の野望と真意

2013年07月01日 | 歴史・伝統
日本も他人事ではない!? トルコ反政府デモの根深い原因【テレンス・リーのニュースを斬る!】
長期政権の宿命とでも言うべきか、貧困層の味方であったエルドアン氏自ら富裕層となり、富裕層と結託して私利私欲を貪るようになったのだ。(中略)エルドアンは実に保守的なイスラム主義を掲げながら、教義に反する不正を働いていることになるのだ。国民の怒りの根源はここにこそある。

例えば、今回の大規模デモのきっかけとなったイスタンブール中心部タクシム広場にあるゲジ公園の再開発だが、オスマン帝国時代の兵舎を模した多目的ビルを建設する計画だと政府は発表した。問題はそれに関わる企業や資本家の顔ぶれだ。エルドアンと親密なものがずらりと揃い、エルドアンと一族郎党が莫大な利益を得られるようになっている。
不満を逸らすために、世俗主義と反対方向のイスラム回帰で支持を得ようとしているようだ。

> オスマン帝国時代の兵舎を模した多目的ビル

「トプチュ兵舎」と言う。これがくせ者。なんと、ケマルアタチュルクに代表される世俗主義に真っ向からカウンターを当てようとしているシンボリックな話なのだ。

2013年06月13日付 Milliyet紙:トプチュ兵舎とは何か?
1909年4月13日)に、そこに暮らしていた教育を受けていないたたき上げの兵卒や将校が、兵舎の外に出て、士官学校出の将校たちを狙い撃ちに、大殺戮を行った場所だ。(中略)この反乱を受けて、ムスタファ・ケマルが参謀を勤めた行動軍は、1909年、エディルネからイスタンブルに向かった。そしてアタテュルクはこのトプチュ兵舎を大砲でもって壊滅させ、一掃した。(中略)兵舎の再建の目的はこれだ。いわばこの反動の中心地を再び盛り上げることなのだ。アタテュルクに対し当時の報復をすることなのだ…。(中略)軍は近代教育によって育成されるべきであるという改革運動が行われようとしていた時代だった。(中略)当時の反動的な言説を持っていた者たちは、学校出の将校に対し民衆やたたき上げの将校を扇動する文章を書いている。彼らは、女性たちがもはやベールを脱ぎはじめ、道徳が破壊され、宗教が失われていることに言及し、スルタンに再びシャリーアの統治を実行するよう呼びかけていた。このような状況において、アブデュルハミトは、トプチュ兵舎にたたき上げの砲兵将校と砲兵を配置させ、それによって自身の安全を実感しようとした。(中略)イスタンブルを制圧した行動軍は、事件の中心地であったトプチュ兵舎に集中砲火を加え、壊滅させた。(中略)兵舎は、この砲火の後ついに瓦礫の山と化し(中略)30年間にもわたってそのままの状態で残された。(中略)1940年代、再開発された地区に、人々が気軽に観光できるよう、緑の公園を作ることが求められた。
構図としては、アブデュルハミト2世をエルドアン大統領に置き換える理解が可能だ。それにしても、シャリーア回帰と世俗主義の100年変わらぬ対立の構図がなんともはやである。

現在トルコは、シリアの反政府勢力を支援する拠点となっている。これでは、シリア政府にとってはトルコと戦争状態にあるも同然である。ヒズボラ(およびその支援勢力であるイラン)は、事実上シリア政府側を支援する動きを見せている(シリア政府もヒズボラのサポーターか)。それなら、トルコとイランも非友好的な関係かというと、そうではない。シリア政府-イラン-ヒズボラはシーア派つながりで、他はスンニー派と理解すれば単純だが、まあよく分からん世界である。

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