アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

私の高校時代と、今

2013年12月31日 | 歩んで来た道

 

  私の高校生時代には、

今では、とても考えられない逸話があります。

ある時、体育系の部室で、小火が有りました。

其の発火原因は、消防署長、同窓会長、校長、教頭他で

協議の結果は下記の通りの結論になりました。

「部室では、部員が腹を空かし、弁当、パンなどを、食べて、

その残飯を鼠が頻繁に食べるので出入り口の穴が、

         鼠との摩擦熱で発火したという結論でした」

上記の様な結論では、今では迚許されませんが、当時の諸先生は

実にユーモアと、誰にも細障りのない様にしたんですね。

おそらくこんな会話だったでしょう。

「生徒の煙草が原因じゃ―チョト、どうですか鼠が出入りして

  熱くなって出火したことじゃ―、どうだい校長、よかんべー

       そうすりゃ―、生徒の懲罰も無いし丸く収まるし」

其れで、誰も異論なく丸く収まりました。

 

私は、常日頃母親から、頭が悪いから休まず行けば、情けで卒業出来ると

言われて、3年間無遅刻、無欠席でしたが、下校は一番早く校門を

出て帰宅するのは殆ど深夜でしたが、でも母は倚門の望だっただろう。

 

先生から、職員室に呼ばれるのは何時も「団長、今日は補導で廻るから、

 校章を付けて、パチンコや、喫茶店に居るな!」と、

苦笑しながら、言われ早速各クラスの頭に、

「お―い今日は、いんきょ(教員)が廻るぞ」そうすると

大体「今日は、違う道廻るベ―な」で、事は済んだ、

 

その連中が、今は、市議会委員、税理士、金融機関理事長、

中堅企業経営者などの社会、経済的にも中の上に付いて居る者が多く

                尊敬されているのが不思議である。

そして、学年で、ベストテン以内の学力優秀な同級生は何故か、

音信不通か、自ら人生の終焉を選んだ者もいた。

 

何故だろうと考えると、芸能人、スポーツ其の外、20歳前後で

マスコミで騒がれた方は、数年で消え去り、残る方は数少ないし、

多くは、その後は苦難の人生を送る場合が多く屠所の歩みで終わる。

例え国内有数の難関試験の司法試験をパスしても、現代は厳しい、

逆に、若い時に苦難に耐え、世の中の裏を知った者は強いし、

                  晩年も桐一葉を事成す。

 

こんな傍若無人馬耳東風の私を、浩然の気にして優しく温かくして戴いた

奥津先生、そして、人生の濫觴を導いて下さった。

竹田先生は、故人になられた。

 

本年も、痴人夢を説くブログを訪ね戴き深く感謝申上げます。

 

なを、私の生業で一般の方がお休みの時は、多忙を極めるので、

誠に勝手乍、七草粥を食する頃まで、暫時休みを頂戴致します。

又、本年母帰幽至り年末年始の、ご挨拶は差控えます事ご承知戴きたい。


江戸時代の通貨単位の追記、

2013年12月29日 | Weblog

 

 前回の江戸時代の通貨単位、計算が、解り難いとの指摘あり

 簡単に現代風に言い換えれば

 PCの基本の、二進法で考えれば解り易いと思います。

 

二進法では、2―4―8―16―32―64―128―

256-512―1024バイトとなります。

これを、基本単位の、

1024バイト×1000=キロバイト

キロバイト(kB)×1000=メガバイト、103

メガバイト(MB)×1000=ギガバイト、106

ギガバイト(GB)×1000=テラバイト、1030  

通貨単位と置き換えると解りやすいと思います。

つまり、テラバイトは1,099,511,627,776(概算1990億)バイトで

10進法では、割切る事が出来ませんが、現在便宜上は、

USBメモリー他全て端数を切捨て、表示は○GBと表示されています。

なを、今後は、HDの容量はより多くなりますので、

テラバイト (TB) 1.099兆バイトは、1兆バイトと表現されることもあり、

統一性に欠けることから1,024の累乗倍に対しては二進接頭辞をつけ、

240バイトはテビバイト(tebibyte)とする事に今後はなると思いますが

御断り  上記の説明は、私個人の解釈で参考程度にして下さい。

 


フォードA型 円タク

2013年12月28日 | 大正から昭和へ

 

 円タクの語源は、フォード社が1925年(大正14年)から、

横浜の組立工場で製造した。

 日本製フォードA型で、右ハンドル4ドア車を、タクシーとして使用、東京市内を

一円の均一料金で運行したと言われているが、正確には、東京市内15区

「麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、

 牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区」であった。

現存する、日本製フォードA型は、少なく多くは博物館でしか観られない

今回、米国製フォードA型の極めて保存状態が良い現車を観られた。

特に、スポークは、一切製造当時の状態で之は極めて貴重です。

私自身は、オリジナルと信じている。

また、実際にナンバー付きで走行できる車両は、おそらく国内では1桁でしょう。

今回の画像の車は、亀井自動車でレストアの後、ナンバーを取得販売予定です。

余談ですが、当時の購入価格は、米換算では、現在の8,000万円前後ですが

所有台数の人口比では、現在の個人所有ヘリコプター位で極めて僅かの方のみが

所有する事しか出来ませんでした。


忠治の時代 1

2013年12月26日 | Weblog


国定忠治遺品館に行くと、忠治関係資料が有りますが、

全て、撮影禁止です。

その中に、下記の上の様な算盤が付いた。

たばこ入れが、有ります、実物は携帯電話位の大きさです。

5珠の上に天珠が2つあるのが特徴ですが、理由は下記の事情です。

 

江戸時代の乗算や除算の方法では、一時的に1桁に10以上溜まる場合もあったので、

江戸時代まではこの五珠に天弐つの形式が多く使われていた。

明治時代になって、銭、円の十進法になり

不要な天珠を1つ減らした天1珠・地5珠の五つ珠(いつつだま)になった。

江戸時代は、

金1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)ですので、

(当時の金貨、銀貨、銭貨の三貨は変動相場制であり、江戸と大坂で毎日相場がたち、

             取引が行われていた。現在の円・ドル相場と同様)

1両=銭4000文(4貫文)

1分=銭1000文(1貫文)

1朱=銭250文(0.25貫文)

 

銀貨(秤量貨幣、丁銀、豆板銀など、重さで取引するもの)

1両=銀60匁

1分=銀15匁

1朱=銀3匁7分5厘

銀1貫=銀1000匁=約17両

銀1匁=約67文

 

ちなみに「疋(ひき)」という単位も使っており

1疋=銭10文

1朱=25疋

1分=100疋

1両=400疋

 

ただ1両=4貫文は変動しており、例えば天保13年(1842)には

1両=6貫500文(6500文)まで下落しました。

 

また1000文(1貫文)を960文、100文を96文とする

「九六勘定」については諸説あります。

一文銭96枚(江戸時代以前は97枚とか、地域によっては 80枚とか色々・・・)を

麻や藁(わら)などの紐で括ったもので、これを百文として 使用していました

(このことを省百(しょうひゃく)、省銭(しょうせん)、九六百 (くろくびゃく)

、九六銭(くろくせん・くろくぜに)とか云います)。

 何故、このような使われ方をしていたかというと、当時は、

金(両)、 銀、銭と三種類の通貨があり、それぞれの公定相場は

 金一両 = 銀60匁(もんめ) = 銭4000

 また、金の下の単位はそれぞれ四分割して計算され

一両 = 四分

一分 = 四朱でした。

このため、商いの際、金と銀の交換の際にでる端数の計算が

スムーズに行えるよう、 四と六で割り切れる百以内の最大数をとり、

96枚を百文としていたようです。

江戸時代に銭100文持っていたとして、1 16 文の

蕎麦そばを何杯食べられるか、そして、手元に何文残るかわかりますか?

普通に考えれば 100÷16 を計算して、「6 杯食べて 4 文あまる」という結論に

至ると思われますが、実は、ちょうど蕎麦 6 杯の値段となり手元には 1

も残りません。

「えっ?!」と思われるかもしれませんが、これが江戸時代の銭勘定かんじょうです。

そもそも、江戸時代には「九六銭」といって、銭 96 枚の穴に紙縒を通し(

これを「銭さし」といいます)、100 文とする慣例がありました。

すなわち銭 100 文といっても、実際には 1 文銭96 枚なのです。

どうしてこんな慣例が出来上がったのか、現在でも定かではありませんが、

96 2 3、4、6、8など多くの数で割り切れることから、

計算の便利さを理由に成立したとも考えられています。ですので、

16 文の蕎麦が 6 杯で 1文銭96 枚、即ち 100 文なのです。

では、全ての場合において 1 文銭 96 枚で 100 文として通用したかと言えば、

そうではありません「丁銭」という計算方法もありました。

丁銭とは、銭 100 枚を 100 文として通用させる計算方法で「丁百」とも

いいます。例えば、金子借用しゃくよう証文しょうもんなど、

金銭貸借にかかわる古文書などで、「銭○貫かん△△文、但し丁銭」と

記したものが数多く見受けられますが、この場合、銭貨は 100

100 文と数える計算方法であることを示しています。

もし、丁銭と記していなかったら九六銭で計算することになります。

 


真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の矛盾

2013年12月25日 | 近世の歴史の裏側

 


前回の、疑問の根拠は以前の記載に羽倉簡堂は寛永三年には、

満六十歳を過ぎ要職を離れており

『赤城録』と『劇盗忠二小伝』は、翌年書かれたもので実際に、

大戸村には行ってないので、かつて部下だった、関東御取締出役の、

中山誠一郎などからの、伝聞を綴ったと思われ、

羽倉簡堂の経歴からして、幕府及び後の事を十分考慮した文面が

伺える。

其れは、特に赤城録の鷺歩斉進、霜鍔鰹爾と、鋒右肋出ヅルコト数尺である、

鋒が数尺とは、1m前後が出たことになるしかし、

槍刃は、30㎝前後で、槍全体の長さは、戦国時代は二十尺位は

有ったが、江戸時代は戦いもなく、長くても十二尺前後であり、

鷺歩斉進して出ヅルコト数尺では、矛盾する、如何に処刑を重ねた鑓持でも、

引き抜く事は困難で其れを、一人当り六回繰り返すことは考えられない。

何故なら、骨に当らずに鋒右肋出ヅルコト数尺は極めて困難と

考えるからです。逆に骨に当れば槍は折れるでしょう。

旋剌と記載が有るから鑓持が捩じりながら刺すのでより困難で

有ると思う。

上記の文面は、儒学者としてより難しく表現し羽倉自身の

学識を示そうとした、儒学者の驕りに見えてならない。

                  

                   続く


 追伸

年末を控え、国定忠治シリーズは、冬休みとさせて戴きます。

来春からは、処刑後の事柄を検証してみたいと思います。



真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の有る疑問、

2013年12月24日 | 近世の歴史の裏側

 


地元の源助と惣右衛門の二人は、刑場の人目の警護役で、

六尺棒を両人で×宇に立てて不審の者は入れない様にする警固

する立場で、此れを観たとすれば、処刑の様子を始終後ろ向きで

観ていた事に成るが、其れは別として岩槻宿の嘉十郎の記載と、

惣右衛門の、伝聞が的を射ていると思う。

但し、磔の仕方、小塚原などニて致し候とハ余程違候由

惣右衛門は、過去に小塚原の処刑作法を観ていたのだろうか?

 

                     続く


真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の其三

2013年12月23日 | 近世の歴史の裏側

 

前回の惣左衛門が語った伝聞を、浅学の私が読み下しすると

傑の場所には幕府から派遣された検使役人一名、立会い、

刀持を従えた執行人の浅草弾左衛門の手代が床机に座って指示を出した。

処刑の仕方は、江戸小塚原の刑場などとは違っているようだ。     

いよいよ槍で突こうという時、忠治が待てと言いい、

「まず待ってくれ、御役人方へお礼申上げなければ」と制止した。

そして「私は、悪党を致しましたが、国のみせしめになって

御成敗と決まり大変うれしく思います。

お蔭様で小伝馬町牢内でも我身を大切に取扱い戴き、

このように天下の御法に叶うことで、」と、

感謝を言い終ると、鑓特に向かって、さあ突けと目を閉じた。

一槍突いては引きぬくごとに、かっと目を見開き、

千五百人余りといわれた見物人を見まわした。

また目を閉じて突く抜くの後槍も同様であった。

かくすること一二度まで目を開いたという。

一三度目にしてようやく死に至った。

いかにも大丈夫の豪の者である。

 

床机


しょうぎ

                              続く


真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の其弐

2013年12月22日 | 近世の歴史の裏側

 

 

関東取締出役手先の岩槻宿の嘉十郎は、

「往生も立派ニ御座候当日御出役様方江傑柱之上ニ而御礼申上、

 大丈夫二御座候」と、簡潔にして要を得た所感を記している。

 

一方、惣左衛門が語ったと言われる伝聞は、

最期の忠治への描写は下記の通りです。


磔の場所ニてハ、御公儀様より御掛り御役人様壱人、

八州御取締御手代様御三人、右御役人様方之前ニ、弾左衛門手代壱人

是刀持を連、しょうぎ掛り下知有之(げちこれあり)たるよし、

磔の仕方、小塚原などニて致し候とハ余程違候由、

弥突時(いよいよつくとき)二相成、忠治申ニ、先待てと申て、

御役方へ御礼申ニ、私儀悪党(つかまつり)、国之みせしめのため、

御せいばいに披仰付、難有仕合奉存候(ありがたしそうろう)

御牢内(ごろうない)(に)(て)身持(みもち)大切仕居候て、

斯御法二被仰付(かくごごほうにおおせつけられ)候事、存念叶い、

いか斗り大慶仕(たいけいたてまつり)と申終て、又鑓持ニ向ひて、

さあ突けと申目を閉、一鑓突鑓抜(ひとやりつきやりぬけ)バ目を開、

諸人見物之方ヲ見廻し、又目を閉、又後鑓も右之(ごとし)

如斯(かくのごとく)する

十二度突迄目開候由、十三度ニて(ようやく)死候由、

いかにも大丈夫之もの之(これあり


読み下しは、次回に

                    続く


真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の其壱

2013年12月21日 | 近世の歴史の裏側

 


 嘉永十二月二十一日早朝、冬の底冷えする寒風の中で、

仕置場に向かって忠治最後の行列が組まれたのである。

此処からの儀式は、支配代官の管轄を離れ、

護送警固役人の手から鎌倉幕府より続く、

浅草弾左衛門、車善七配下のものに委ねられた。

行列の先頭を務めるのは大戸村の惣右衛門、三ノ倉村の

源助の二人。続くは、板鼻の助蔵、半三郎の両名である。

帯刀の機多が前後を警固する中で、捨て札をもった人足が続く。

そして傑を行う鑓持帯刀の二人が忠治を取り囲む様に付いている。

そのあとに関係役人が続き、召集された村々役人・人足が従う。

この最後の行列も、時の幕府が十分に衆目を意識した。

見せしめ)の為のものではあるが、忠治にとっては最後の

見せ場であった。

仕置場に一行は到着する。このとき山間の大戸宿は、忠治の傑を

見ようと集まった「見物人共凡千五百人余」であふれていた。

 

『劇盗忠二小伝』では、下記の様に綴れている。

刑場ニ(まい)リ又一椀ヲ乞ヒテ曰、本州ノ酒ヲ飲ミ本州ノ土ニ為ル、

ナルカナト、更ニ一椀ヲ勧メド笑ヒテ曰、刑二臨ミテ沈酔スルハ

死ヲ(おそ)ル事也、従容(しょうよう)トシテ刑二(つ)

槍ヲ受夕ルコト十四、始メテ(めい)ス、時ニ年四十一ナリ・

刑場についた時、また一椀を乞うて、生まれ故郷の上州酒を飲んで

上州の土に帰るのが爽快であるといった。もう一杯どうかと勧めると

笑って’死に臨んで酔ってしまっては、死を恐れたことに

なってしまうと断り、従容(しょうよう)として刑に服する。

一四度槍を受けてようやく瞑目した。時に四十一歳であった。

 


                        続く


明朝、国定忠治処刑

2013年12月20日 | 近世の歴史の裏側

 

明朝、嘉永参年十二月二十一日大戸の処刑場にて、

磔已、刑場廻りの竹矢来の前には、見物人が我先にと陣取り、

小雪も交じり寒風の中、現地は騒がしく候


なを、昨日は初めて順位が四桁になり感謝のただ一言です、

今後共、宜しくお願い申し上げます。

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