前回の記載に加えて、
役人はじめ忠治などの宿割りも書かれているが、それによると、
秋汲平様本陣 上下五人 加部安左衛門
八州様四人宿 上下拾六人 丈四郎
秋葉堅治郎様 囚人、上下囚人共二拾弐人
宿新井屋善治平
外御手先衆者旅龍屋方へ申付候。比人数凡八拾人余、村々よりの
警固人足凡三百人。弾左衛門方警固百人余。見物人共元千五百人余。
というふうに記されている。
加部安左衛門の生家跡は(東吾妻町指定史跡)になっているが、
其れは、十三代加部安左衛門(嘉重)(1829~1895)の生家であり、
国定忠治が度々立ち寄ったのは、十一代加部安左衛門重義で有る。
当時、上州三大尽(一、加部、二、佐羽、三、鈴木)と言われた豪商
そして、酒造家でもあった。
又、十二代安左衛門嘉重(号を琴堂)は、安政六(1859)年に横浜が
開港されると横浜に進出し中心部の弁天通りに大きな店舗
「銅(あかがね)御殿」を構え、外国人を相手に生糸や麻・茶・呉服・
雑貨などを取扱う、しかし俳句などに執着し、経営不振となる。
元治元年(1864)に店を閉めて帰郷、その後、家督を十三代孝重に、
譲り、明治7(1874)年に家屋及び、多くの貴重な古文書なども失う、
祖先は、桓武平氏の末裔で上総(千葉県)から上野(群馬県)に
移り住み、上野吾妻で「富澤」を名乗り。大戸三河守の家臣から
真田幸隆の家臣になり、四代からは、大戸の関所の関守を代々務め、
七代加部安左衛門重実が浅間噴火の際の救済に尽力し、
十一代加部安左衛門重義は上野国の豪商で、酒造家でもあり、
嬬恋村出身の中居屋重兵衛と交友有り、
なを、中居屋重兵衛(1820~1861)は、上州中居村
(現在の吾妻郡嬬恋村三原)に生れ、本名を黒岩撰之助、幼名は武之助、
二十歳の時、日本橋の書店和泉屋に奉公し働きながら、
様々な書物で独学し、
著書には、『子供教草(こどもおしえぐさ)』また、火薬製造法を
『砲薬新書』で出版した。
続く