アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の六拾九 忠治処刑の詳細の弐拾

2013年12月09日 | 近世の歴史の裏側

 

 前回の記載に加えて、

     

役人はじめ忠治などの宿割りも書かれているが、それによると、

   秋汲平様本陣 上下五人     加部安左衛門

   八州様四人宿 上下拾六人    丈四郎

秋葉堅治郎様 囚人、上下囚人共二拾弐人

                   宿新井屋善治平

外御手先衆者旅龍屋方へ申付候。比人数凡八拾人余、村々よりの

警固人足凡三百人。弾左衛門方警固百人余。見物人共元千五百人余。

というふうに記されている。

 

加部安左衛門の生家跡は(東吾妻町指定史跡)になっているが、

其れは、十三代加部安左衛門(嘉重)(18291895)の生家であり、

国定忠治が度々立ち寄ったのは、十一代加部安左衛門重義で有る。

当時、上州三大尽(一、加部、二、佐羽、三、鈴木)と言われた豪商

そして、酒造家でもあった。

又、十二代安左衛門嘉重(号を琴堂)は、安政六(1859)年に横浜が

開港されると横浜に進出し中心部の弁天通りに大きな店舗

「銅(あかがね)御殿」を構え、外国人を相手に生糸や麻・茶・呉服・

雑貨などを取扱う、しかし俳句などに執着し、経営不振となる。

元治元年(1864)に店を閉めて帰郷、その後、家督を十三代孝重に、

譲り、明治7(1874)年に家屋及び、多くの貴重な古文書なども失う、


祖先は、桓武平氏の末裔で上総(千葉県)から上野(群馬県)に

移り住み、上野吾妻で「富澤」を名乗り。大戸三河守の家臣から

真田幸隆の家臣になり、四代からは、大戸の関所の関守を代々務め、

七代加部安左衛門重実が浅間噴火の際の救済に尽力し、

十一代加部安左衛門重義は上野国の豪商で、酒造家でもあり、

嬬恋村出身の中居屋重兵衛と交友有り、

なを、中居屋重兵衛(18201861)は、上州中居村

(現在の吾妻郡嬬恋村三原)に生れ、本名を黒岩撰之助、幼名は武之助、

二十歳の時、日本橋の書店和泉屋に奉公し働きながら、

様々な書物で独学し、

著書には、『子供教草(こどもおしえぐさ)』また、火薬製造法を

『砲薬新書』で出版した。 

                     続く