アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ 其の12 三角寛とは其の4 虚構

2015年07月31日 | 近世の歴史の裏側

三角寛のサンカの真実と虚構」

 「サンカ社会の研究」など三角寛の著作の虚構性を暴き、三角によるサンカ像を粉砕。とくに、

三角の著作に多数収められている写真の演出を明るみにしたことは衝撃が大きい。

三角の描くサンカ像はミステリアスで、おもしろいので、著作を読んだことのない我々でも、

それとなく伝わっている。長く武家権力に統治され、天皇を権威とする「日本人」とは別の「サンカ」と

いう人たちが日本列島に住んでいて、あたかも国土を同じくする別の国民のように、秘密の権力体系に

組織されている、というファンタジーは魅力的だ。

 

そんなことはないだろう、と思いながらも、平凡な日常のすぐ裏側に未知の大陸が広がっているような

ロマンを感じて、つい肯定したくなる。そんな思いの根拠が、三角が示した膨大な写真だ。著作の

真実性を疑われながらも、百科事典にまで影響を及ぼしたというパワーは、「文章は、想像を交えて

かなりオーバーに書いているかもしれないが、写真があるのだから、まったくのデタラメではないだろう」という素朴な気持ちからだろう。

 

しかし、その写真自体がまったくの演出で、撮影場所、日時はデタラメ。状況及び状態は演出。

はては、衣装まで用意されたものだったら、これは完全に「虚構」というほかはない。

 

筒井のこの本は、主に写真に的を絞って、三角のサンカ論を粉砕している。たとえば、写真に撮影

された人物を特定し、本人にインタビューしている。元新聞記者ならではの著者の取材力である。

特に、細部を検証して、別々に撮影されたとする写真が実は同一場所・日時のものだと、

鑑定するくだりは説得力がある。今まで誰も試みなかったのが不思議なぐらいだ。

 後半では三角の人物像なども描かれるが、掘り下げはいまひとつ。また、では実際のサンカは

どんな人たちなのか、という部分もほんの少ししか書いていない。           続く

 


幻の民サンカ 其の11 三角寛とは其の3

2015年07月29日 | 近世の歴史の裏側

写真のモデルの人達

 三角寛は『サンカ社会の研究』につづいて『サンカの社会資料編』を公刊している(昭和四十六年、

母念寺出版。平成十三年に現代書館から復刻版)。

 資料編には「全国サンカ分布図」と銘打った祈り込みの多色刷り地図や、「サンカ用語解説集」「サンカ薬用・

食用植物一覧」というのが付されているが、あとは殆ど前者で触れている事ばかりで、内容は意外に乏しい。

ただ『研究』にはないものも含めて写真百二枚(ほかに「サンカ文字」の写真が八枚)が冒頭に、

一括して載せられ、それぞれに番号付きの見出しと、『研究』より詳細な説明を加えている。

 『資料編』の「三角寛撮影並解説 サンカの生態記録写真集」の序には次のように記されている。

  サンカは、三角寛学位論文『サンカ社会の研究』に縷述せるごとく、自分たちの生活慣行を絶

対秘密にし、外部に洩れることを極度にきらっている。したがって、写真撮影などは以ての外の

禁忌として拒絶する。

 しかしながら、現在の時点において、これを記録印象しておかねば永久消滅となるので、説得

に説得、ようやく承諾を得て、ここに十四年間機会のあるたびに撮り溜めた全十五巻「四季のサ

ンカ」の三十五ミリ記録映画を得た。この写真は、その三角寛撮影の映画よりコマ撮りしたものである。

 

 ただし、その中には、三角も記しているように一枚撮りの写真も含まれている。

これらの写真で被写体となっている人たちが、だれなのかということである。

わたしは主要な登場人物については、凡そ名前を特定できたが、

その作業が可能になったのは斎藤登(仮名)との邂迢によるところが大きい。斎藤は、松島ヒロの死を

慈眼寺の住職夫人に伝えた菊恵(故人)の夫である。

                                        続く


幻の民サンカ 其の10 三角寛とは其の2

2015年07月27日 | 近世の歴史の裏側

暫く記者と作家の二足の草鞋を履いていたが、やがて依頼原稿に応じきれないほど多忙となって

昭和八年、朝日新聞社を退社した。それからの七、八年は「山窩もの」と呼ばれる小説を書きまくった時期であった。

三角は、このころ屈指の流行作家で、『父・三角寛』によると、多いときで十人を超す出版社の編集者が東京・雑司ヶ谷の

三角宅に集まり、依頼した原稿ができ上がるのを待っていたという。一作を書き上げると、すぐ次へ移る、

できた原稿は印刷所へ直行といったことの繰り返しで、だから締切りはあってないようなものだった。編集者の中には、

いく晩も三角宅に居続ける者も有り、その数は月の終わりが近づくにつれ増えてくるのだった。三角は、のちに次のように

書いている(『サンカ社会の研究』)。

 「私の作品は山窩に関する綺談・物語は二百数十篇、探偵捕物に関する実話百数十篇、毒婦妖婦

と称せられるもの、実話数十篇、併せて実に四百数十篇の多きに達する。」

 

 三角は太平洋戦争が始まる昭和十六年以降は、戦後も含めて、ほとんど小説を書いていないから、

これは十年ちょっとのあいだに発表された作品数だということになる。その膨大な作品群にえがかれた「山窩」なる集団が

、どのようなものであったかは『腕斬りお小夜』『山姫お美代』『山娘お千代』『山窩血笑記』『愛欲の瀬降』『揺れる山の灯』

などの題名から、おおよそは想像できるだろう。

ただし、これらの小説は、いわれるほど「猟奇的」でも「荒唐無稽」なばかりでもない、とわたしは思っている。が、実像には

ほど遠いことに変わりはなく、それが文藝春秋社の『オール読物號』とか講談社の『キング』といった巨大な発行部数を

もつ雑誌に毎月のように掲載された影響は、

七十年ほどだった今日まだ、なお消えていない。

 

 「三角寛といえば山窩小説、山窩小説といえば三角寛」の評言がちっとも大袈裟ではない

かつての流行作家が『サンカ社会の研究』を公刊したのは、戦後二十年ほどをへた昭和四十年のことである。

しかもそれは、先に触れたように学位論文を要約したものだった。ざっと四半世紀をはさんで、

山窩小説家からサンカ研究者への転身であった。その冒頭で三角は述べている。

 

前人未踏のサンカについては、尋念すべき文献は全くなく、ただ現存するセブリ生活者を求め

て、その実生活を探究し、その実態を知る以外に、研究の方法がなかった。しかもそれを、探究す

るには、危険の伴う事が多々であった。

参考になるような文献はIつとしてなく、もっぱら自分のフィールドワークによる成果だと揚言し

ているのである。研究は「昭和三年から同三十六年まで」三十三年間に及んだとも言っている。

写真や付表を含めて三百三十ページほどのこの著書は、サンカの生態と民俗について体系的、網羅

的に言及したサンカ研究の決定版ともいえる体裁をそなえていた。その記述は精密をきわめ、挙げられた数字は詳細に

すぎるほど詳細であった。

 

 『サンカ社会の研究』は、柳田國男(一八七五-一九六二年)の『「イタカ」及び「サンカ」、喜田貞吉(一八七一―

一九三九年)の『サンカ者名義考』、鷹野弥三郎(一八八六-一九四三年)の『山窩の生活』、後藤興善(一九〇〇-

一九八六年)の『又鬼と山窩』など先行研究者の著述とは、質量ともに比較にならないくらい内容豊で、彼らの業績が

児戯にひとしく感じられるほど壮大な構成になっていたのである。もし、ここに書かれたことが事実であったなら,

(本来、当然そうあるべきなのだが)、サンカ研究の少なくとも生態談に関しては、一応の終結を見ているとしてもよく、

あとには、その生態談を基にした系譜談が残されているだけといっても過言にはなるまい。 

しかし『サンカ社会の研究』は、そのごく一部を除いて、事実に基づく報告ではなかった。はっきり言えば、ほとんどが,

作り事であり、空想の所産であった。この立場からの三角寛批判、『サンカ社会の研究』否定論は、この本が出版されて

間もないころからすでにあり、それはいまもつづいている。純然たる研究書に多量の虚構が含まれているとなれば、

その書物は当然、書物としての生命を失っていておかしくないはずなのだが、じっさいには必ずしもそうはならなかった。

現に現代書館から復刻版が出て、なかなかの売れゆきだと伝えられているのである。

理由は二つほどありそうだ。まず、この本には、たとえ作り事が含まれているにしても、ほかの研究者たちが究明は,

しえなかったサンカ民俗が豊富に紹介されているらしいということがある。

それを支えているのが、迫力とリアリティーに満ちた六十全校の鮮明な写真である。

こんな資料は前例がないのみならず、今日もう、どんな徹底した調査をしてみても撮影も収集も不可能であろう。

同書へ強い疑念を表明している著作者たちでも、これらの写真を借用している例が少なくないのである。

もし写真がなかったとしたら、この著書がいまほど問題にされることはなかったに違いない。

もう一つは、三角が残した記述のあれこれについて「うそに違いない」とする指摘は少なくないの

だが、その根拠を具体的に示した人は、殆んどいなかったということがある。つまり、どの部分が事実で、どこが

フィクションなのかの腑分けがなされておらず、三角への思い入れが強い人たちには「批判には証拠がない」と、

いうことになりがちであり、「おおかたは本当のこと」との立場が可能だという事情があると思う。

 

私見では、『サンカ社会の研究』は、小説を書くような手法で吉かれている。それも綿密な取材を

必要とするタイプの小説だ。取材で得た膨大な知見を、いったんばらばらにして、自分がえがいた構想の各所に

はめ込んでいくやり方である。そこでは虚実がしがらみのようにからみ合い、一つの人格が複数の人物に投影され、

複数の人格が一人の人物に集約されたりしている。それは「論文小説」とでも名づけるべき、たぶんほかには全く類例の

ない不思議なジャンルの作品であった。だから、これが事実、これが虚構といったふるい分けには、もともとなじみにくい。

この書物の性格をうんぬんするには、三角がいつごろ、どこで、どんな人たちに接したのかを調べる方が本当のことを

見通しやすいのである。

                                 続く


幻の民サンカ 其の9 三角寛とは、

2015年07月26日 | 近世の歴史の裏側

三角寛(1903―1971年)は小説家であり、また著名なサンカ研究者であった。

三角の著書『サンカの社会』(昭和四十年、朝日新聞社)の末尾に、おそらく著者白身の手になる略歴が記されている。

 本名三浦守。明治三十六年大分県生れ。大正三年(十一歳)三月出家、(本派本願寺)得道、

憎名、釈法幢。同十五年三月日大法科在学中、東京朝日新聞社入社。社会部記者として活躍の

かたわら三角寛の筆名で書いた『昭和毒婦伝』以下の諸作でサンカ小説を開拓。昭和八年から作家

生活に入り現在映画館「人世坐」社長。孝養山母念寺管長住職。昭和三十七年『サンカ社会の研究』により

文学博士の学位を得た。

著書 昭和妖婦伝(新潮社)昭和毒婦伝(春陽堂)山窩は生きている(四季社)ほか六十八冊。

住所 東京都豊島区雑司ケ谷一の三六六

 

『サンカの社会』は、略歴中に見える博士論文(東洋大学へ提出)の骨子版として出版されたもの

である。これと全く同じ内容、同じ体裁の本が三角の設立した母念寺出版という会社から同時期に

発行されており、こちらの方は表題が『サンカ社会の研究』となっている。ともに長く絶版になっていて、

たしか昭和六十年ごろのことだったと思うが、わたしは東京・神田の古書店で、かなりくたびれた

『サンカの社会』に五万何千円かの値段がついていたのを目にした記憶がある。

しかし平成十三年に現代書館から母念寺版を底本とした復刻版(中味は朝日新聞社版と寸分違わない)が出たので、表題を含め復刻版によって話を進めて行く事にしたい。

 ただ、その前にもう少し、三角について触れておく必要がある。

 三角と妻よしいとのあいだの1人娘であった三浦寛子が書いた『父・三角寛 サンカ小説家の素顔』に

よると、三角が生まれたのは現在の大分県竹田市郊外(旧直入郡馬龍村)で、阿蘇山が真っ正面に、

見える山また山の中だった。十二歳のとき近村の最乗寺に預けられ、寺から高等小学校へ通った。

住職の大原寂雲に四書五経や経典の教義を学んだというから、この時代の僻村の子供としては、

たいへん恵まれた文字教育を受けたと言って良いだろう。

最乗寺で五年ほど過ごした三角は、十七歳のある日、突然、無断で寺を飛び出してしまう。

それから大正十五年二月に朝日新聞へ入社するまでの五年前後については、どこで何をしていたのか

「まったくと言っていいほど解らない」らしい。したがって三角があちこちに記している

「日本大学法科卒」の学歴も「どうも可笑しい」という事になる。

 三角寛は朝日新聞在職中に小説を書きはじめる。『山窩物語』(昭和四十一年、読売新聞社)の著者

紹介欄によれば、文語音杖柱の永井龍男のすすめで小説の執筆に手をそめ、同社の『婦人サロン』

に連載した「昭和毒婦伝」で文壇にデビューしたとなっている。   つづく


幻の民サンカ 其の8 引用及び参考文献

2015年07月25日 | 近世の歴史の裏側

幻の民サンカ

此れまでの

引用・参考文献

『マージナル』1~10(現代書館)

矢切止夫の諸作品(日本シェル出版)

『サンカ社会の研究]』三角寛(絶版、現代書館より復刊)

『サンカ研究』田中勝也(新泉社)

『山窩の生活』鷹野弥三郎(明石書店)

『義経と山の民(サンカ)の陰謀』佐治芳彦(KKベストセラーズ)

『又鬼と山窩』後藤興善(批評社)

『サンカと説教強盗―闇と漂泊の民俗史』礫川全次(批評社)

『柳田国男全集〈4〉「イタカ」及び「サンカ」』柳田国男(柳田国男全集〈4〉ちくま文庫)

『遠野物語・山の人生』柳田国男(岩波文庫)

『サンカの社会資料編』三角寛(現代書館)

『非常民の性民俗』赤松啓介(明石書店)

『非常民の民俗境界―村落社会の民俗と差別』赤松啓介(明石書店)

「山窩物語」井上清一「舫船」(同人誌)その他

 

小説

『風の王国』五木寛之(新潮文庫)

『戒厳令の夜 上 下』五木寛之(新潮文庫)

『鬼麿斬人剣』隆慶一郎(新潮文庫)他


                                    今後とも、宜しくお願い致します。


幻の民サンカ 其の7 その歴史

2015年07月23日 | 近世の歴史の裏側

サンカ文字古史古伝のひとつである上記(ウエツフミ)は古事記、日本書紀以前の伝書(ツタヘフミ)で

あり、 神話、伝承の他に、民俗、習俗、度量衞、地理、言語、暦制、天文、教育、医薬、医学など

多岐にわたり記されており、古代の百科事典ともいえる文献である。そして、それらは豊国文字という

古代和字によって記されていたとされています。鎌倉幕府を開いた征夷大将軍源頼朝の子で豊後の

国守大友能直が、学識のある家臣達を諸国に派遣し古代資料を集めさせたものに、領内の老人から

古代伝承を聴きとらせたものを加えて上記を編纂したとされています。

また、サンカに伝わる伝承として、豊後の大友能直には、仲間を1600人も殺され、

神代からの書物一切を奪われてしまい、その後、自分達の文字は一切秘密となり、

仲間以外には見せなくなったとあります。                    つづく      


幻の民サンカ 其の6

2015年07月19日 | 近世の歴史の裏側

サンカには独自の言葉と文字があったとされています。

その言葉には古事記、日本書紀などの古い言葉にきわめて近い言葉が多数あり、

また逆さ言葉など一部の業界や世界で使われている言葉に近いものもがあります。

この事からサンカの起源を上古に求めることができるのではと思っています。

さらに文字にしても古史古伝として伝わっている豊国文字と類似していることから、

私達が教えられてきた歴史以外の別 の歴史を密かに守り伝えてきたのではないかと思われます。

しかし学術的には何の確証もなされていませんし、また積極的に研究対象としてアプローチした

様にも思えません。そして、それらの研究家の殆どは学術的には無視されているのが現状の

ようです。以前、僕の住む近くの村に、何処かの大学教授と生徒達がサンカに関する研究に来て、

役場へ住民に協力するように放送を頼みに来たそうですが、結果 は芳しくなかったようです。

非常民を研究した民俗学者の赤松啓介氏の本によると「大学教師の中にはサンカの研究をして、

論文を書いて博士、教授に成りたがっている者も多く、サンカを紹介せんかと頼まれるが、

紹介すれば何でも喋ってくれると思っているのだから極楽なものである」と研究姿勢を非難したとも、

とれる記述があります。また「サンカも殆ど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、

地下の組織は生きているだろう・・・裏の世界には裏の掟がある。仲間にになって生涯を埋めるなら

よいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を

見るのはやめておくがよい。絶対に死体の上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ 林の中に白骨が

横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。」と研究の難しいことを言っています。

サンカ自身も、自らの真相を世間に知られることを極度に嫌ったようです。瀬降り生活者が多かった。

時代なら、その気持ちは理解できますが、現在にあっても頑に真相を明かさないのは如何なる

理由によるものなのか、聞けるものなら聞いてみたいです。

                               つづく


幻の民サンカ 其の5

2015年07月17日 | 近世の歴史の裏側

サンカ起源については定かな資料も研究も全くなされていません。

幕末から近代にかけて困窮した人達が山に逃れたのが始まりとする見解もありますが、

むしろ逆に幕末から近代にかけて多くのサンカと思われる人達が瀬降りを捨て町や村のなかに、

居着いた可能性が高いと思います。私としては縄文から弥生時代、さらに大和中央集権国家へと、

推移する中、監理、統制され、支配されることを拒んだ原住民、先住民が源流ではないかと、

考えています。そこに大陸からの渡来人(ユダヤ人の可能性もあると思う)で中央集権国家を形成したグループとは、

違うグループ(価値観、信仰が違ったのか、それとも政治的、軍事的敗者なのかはわかりません)と混じり合ったのが

大体の起源ではないかと思っています。

本来、敗者や異民族に対して包容力がある縄文の流れを汲む集団は、それらの人々を内包し、

闇に潜むことで神代の魂を近代まで守り続けたのではないかと、日本特有の文化の担い手になる

事で、そして時折時代の節目に出てきては、日本の方向性を変えていた形跡を感じさせる言もあります。

民俗学の大家である柳田国男氏は、若い頃の主要な関心はサンカをはじめ被差別 などに向けられていて、

彼等、被差別民の民俗は、日本列島の文化の古層に属する重要な残留物を、

表示していると明確に指摘しています。                     つづく


御断り

現在の社会に於いて、表現に不適切な部分が御座いましが、サンカの真実を伝える為には、必要不可欠であり

私は、特定の人物、宗教及び思想を指している事は、御座いません、


幻の民サンカ 其の4

2015年07月16日 | 近世の歴史の裏側

サンカの特徴は男は凛々しい顔をしていて眼光が鋭く、それでいて穏やかで物静かな感じであり、

手先が器用で一途で律儀な人が多かったようです。独自の言葉を使い、やはり一般 の人達とは、

雰囲気が違ったようです。そして美人が多かったなんてのは、本当に心ひかれたりしてたまりません。

それと文献からと直接接した人の話しから、僕が一番好きな部分ですが、弱者に対してのいたわりの

精神です。戦前の話では見捨てられた癩病者の面倒をみたりして、

何かの理由で山に逃げたりして困窮した人をかくまい助けたと云う話しもよくある話しです。  

                                                        続く


幻の民サンカ 其の3

2015年07月15日 | 近世の歴史の裏側

サンカに関する正確な資料、書物は数が少なく、また何人かの研究者(三角寛氏、柳田国男氏、

宮本常一氏、後藤興善氏、清水清一氏、喜田貞吉氏、荒井貢次郎氏、菊池山哉氏、八切止夫氏など)

サンカのことを研究発表した書物がありますが、手に入れるのが困難な本も多いです。

手に入れやすいところとして田中勝也氏の[サンカ研究]や佐治芳彦氏の著作にサンカに関するものが、

何冊かあります。個人的な意見ですが、五木寛之氏の小説[風の王国][戒厳令の夜]は、

サンカを題材にしたもので、資料としてだけでなく、小説として大変素晴らしく、

サンカと呼ばれていた人達の感性や魂が伝わってきます。

また[鳥の歌]は山窩の子孫とも思える主人公のひとりが、現在の中に自らのアイデンティティの確立を

模索する姿を感じたりします。また山窩を題材にした映画[瀬降り物語]にもサンカの姿をイメージすることが

できます。山窩のことに興味を持ち始めた頃に、一通り、目ぼしい文献に目を通しましたが、

何か物足りないなと思っていました。そんな時に知人から[風の王国]を、

教えられて読みましたが、小説の中に自分の求めていたものを、あまりにも感じ過ぎました。、

魂が震えるような感動を覚えました。

                                            続く