アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の其壱

2013年12月21日 | 近世の歴史の裏側

 


 嘉永十二月二十一日早朝、冬の底冷えする寒風の中で、

仕置場に向かって忠治最後の行列が組まれたのである。

此処からの儀式は、支配代官の管轄を離れ、

護送警固役人の手から鎌倉幕府より続く、

浅草弾左衛門、車善七配下のものに委ねられた。

行列の先頭を務めるのは大戸村の惣右衛門、三ノ倉村の

源助の二人。続くは、板鼻の助蔵、半三郎の両名である。

帯刀の機多が前後を警固する中で、捨て札をもった人足が続く。

そして傑を行う鑓持帯刀の二人が忠治を取り囲む様に付いている。

そのあとに関係役人が続き、召集された村々役人・人足が従う。

この最後の行列も、時の幕府が十分に衆目を意識した。

見せしめ)の為のものではあるが、忠治にとっては最後の

見せ場であった。

仕置場に一行は到着する。このとき山間の大戸宿は、忠治の傑を

見ようと集まった「見物人共凡千五百人余」であふれていた。

 

『劇盗忠二小伝』では、下記の様に綴れている。

刑場ニ(まい)リ又一椀ヲ乞ヒテ曰、本州ノ酒ヲ飲ミ本州ノ土ニ為ル、

ナルカナト、更ニ一椀ヲ勧メド笑ヒテ曰、刑二臨ミテ沈酔スルハ

死ヲ(おそ)ル事也、従容(しょうよう)トシテ刑二(つ)

槍ヲ受夕ルコト十四、始メテ(めい)ス、時ニ年四十一ナリ・

刑場についた時、また一椀を乞うて、生まれ故郷の上州酒を飲んで

上州の土に帰るのが爽快であるといった。もう一杯どうかと勧めると

笑って’死に臨んで酔ってしまっては、死を恐れたことに

なってしまうと断り、従容(しょうよう)として刑に服する。

一四度槍を受けてようやく瞑目した。時に四十一歳であった。

 


                        続く