アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

上州 八木節はいつ、何所から? 其の3

2013年08月13日 | 江戸から明治へ

 

八木節へ

 何百年、哀調に冨んだ唄い方でうたわれた口説きは、

明治末年になって消えることになる。

それは下野の堀込源太という、口説さの名人によって唄い変えられたのである。

 堀込源太、本名を渡辺源太郎「明治五年一月二九日生まれ」といい、

例幣使街道八木宿在の堀込村の生まれである。

若いころ四方へ日雇い稼ぎに出ていたが、明治三十年ごろ、

境町在中島の桶職だった柿沼庄平が、

商売でしきりに八木宿方面に出ていて源太を知り、

庄平の世話で中島村の尾島長松の家に百姓番頭に来た。

養蚕の日雇い稼ぎが主で、毎年夏場半年ぐらいは、中島村に働いていたが、

それから十年ほど、源太の中島時代があったわけである、

 源太は。一時馬方などやっていたといわれ 生来の唄好きで、

よく馬子唄などをうたっていが、

中島に来てからは、その唄好きによって当時、口説きの名人と言われた

池田高次郎の弟子になり、口説きを唄いだしたが、もって生まれた美声と、

抑揚に富んだ節調の上手は

抜群で、毎晩のように村々の盆踊りに出かけたり、喚ばれて唄って歩いたが、

中島の囃子連中と出場すると必ず入賞で一反流しを手にし、「中島の源太」

として大いに名を上げたのである。源太三〇歳から三五歳ごろで、

源太の口説きは大変な評判になった。

ところが源太は、間延びした口説きのうたい方を、自分で創意工夫して、

調子のよいうたい方に変えた、こそれは軽いリズムこ乗った調子のよいもので、

その調子のよさは一度に、聞くものを圧倒させたのである。

その軽い節調は、上州人特有の好奇心を見事にとらえて、

大いに評判になり「源太節」と呼ばれ盛行することになる。

しかし、源太節の初めは、囃子方がなかった。

源太と一緒にいた小林半七さんの話では、はじめはただ一人で、

囃子なしで唄ったのであるが、暫くたって中島の連中が工夫して、

樽やカネ、笛をこれに合わせて囃子方をつくると、

源太節は一世を風靡することになる。

いわゆるチャカポコ、チャカポコという軽いリズムの囃子方は

中島の連中がつくったわけである

                     続く

中島村

 

旧群馬県佐波郡剛志村大字中島

名が示すとおり昔は利根川と広瀬川の間にあった中の島で、

古くは朝日の里の一部で、小此木村に属していた。

天正九年小此木村から分れて中島村は独立し、

江戸時代のはじめ慶長六年に稲垣平左衛門の領地となり、

元和二年前橋酒井雅楽頭領、寛永十四年酒井忠能が分家領有して伊勢崎領、

寛文二年三月また前橋領、天和二年ふたたび伊勢崎酒井忠寛が領有して、

明治にいたるまで伊勢崎藩が領有していた。明治元年四月明治政府のもとに

伊勢崎藩となり、翌二年伊勢崎県の支配、同四年十月伊勢崎県を廃して

群馬県の支配となった。ついで熊谷県となり、明治九年また群馬県となった。

中島は大名領一給地で、古くから柿沼弥右衛門が名主を世襲していた。

今の柿沼十二家だが、寛政六年に名主年番制を定めた。

村役人は名主が一人、組頭二人で、三人の村役人が、

その以後は一年交替で名主と組頭を勤めるわけである。

村役人源右衛門は柿沼了三家である。

 天和二年のときの家数は四十二軒、人数は二百十七人で、

慶応元年には家数六十七軒、人数三百四十四人、昔から農業も盛んだったが、

舟頭稼業が多かった。また中島河岸から伊勢崎へ通じる道を駄賃馬道と呼んでいる。

男が舟頭渡世だったので、馬子には女が多く、姉さんかぶりの女馬子がいい声で

馬子唄をうたいながら馬を曳いたと古老が伝えている。

 明治八年村内薬師堂に中島小学校が開校され、町田金十郎が初代校長となった。

はじめ児童は六歳から十三歳までである。

明治十二年四月中島、小此木、境の聯合戸長役場となる。

そして二十二年四月の剛志村合併となり、昭和三十年境町と合併となる。

 

 村に伝わる話によると、中島の村名は川の中の島という義ではなく、

南北朝時代に足利方面から落ちのびた豪族中島修理がはじめてここに土着し、

姓を柿沼と改め、本姓の中島を村名としたといわれる。

中島氏が足利の出自であることはよくわからないが、

修理の墓塔が残されていて延文の年号がある。

これも、八木節と足利のなにかの縁かもしれない

                      つづく


上州 八木節はいつ、何所から? 其の2

2013年08月12日 | 江戸から明治へ


 

 上州の口説き節が、越後から伝わったのは聞違いなく、明治初年、

前橋民政局の達しに「古来より盆踊りと申事、当国に於ては右様賎敷き

風俗無之筈の処、近来越後辺より。。。。云々」とある。

ここにある近来は、このころ口説きが盛んになったことを言うのであろう。

決して近来でなく、元禄ごろからは行なわれていたと考えられ、

近来は一層盛んであった。

 また全国的にうたわれていた、阿波の鳴戸や鈴木主人、

白石口説きというような口説きもお涙ものであり、元禄前からうたわれていた

「八百屋お七」などもお涙物である。このような口説きや芝居などは、

当時の庶民の第一の楽しみで、年を経るとともに盛んになってくる。

 そしてだんだん年を経ると、新しい口説きが作られるようになる。その一番の

代表的なものは「国定忠次口説き」である。

これは嘉永三年に忠次がお仕置きになると、

すぐさま江戸で作られ刷り物にされて、上州方面に売りにきたのである。

その心覚えを。

 今度珍らし お仕置きばなし

  国は上州国定村よ 百姓忠兵衛の二男が忠次

 

    殿の御威光で 無宿となりて

    近所近辺 悪事をつくし

 

      聞くもおそろし 悪党でござる

 

   子分子方も そのかず知れず

 

     一の子分は 日光円蔵

 

     つづく子分は 三ツ本の文蔵  やんれい

 

このような刷り物が出回ることになる。口説きの一節ごとに「やんれい」という

文句が入る ので、口説きは「やんれい節」とも呼ばれた。

江戸後期になってからは、何か事件があると、

 たちまちこの口説きが作られ、売り出された.とくに飯盛女にはまリ込んでの

心中話しなどは 面白い題材で、高崎心中くどき、沼田心中口説きなどいろいろある。

さらに「上州村づくしやんれい」などというのもあるが、

こんなものは盆踊り用にはならなかったであろう.しかし国定忠次口説きは、

盛んにうたわれたようで、忠次お仕置きのあと、明治にいたるまで、

蒲原口 説きとともに、大いにうたわれたのである、とくに束毛地方の地元に

おいては、次第に蒲原口説きより、忠次口説きの方が多くうたわれるようになる.

むかし盆踊りというと、口説きの連中が四方から押しかけて、

自慢の咽喉を競ったものである、そこには一反流しなどという、

長い布地を竹竿につけた賞品があって、審査優等とされて

 この一反流しを持ち帰るのを争うのである。

いずれも聞の抜けた用い方の口説きであった。

この用い方は同じであったが、その名は異なっていて、木崎には木崎節、

境町では「赤わん節」と呼ばれ、玉村には「横音頭」などと呼ばれた、

いずれも同じ口説きの用い方であるが、赤わん節は、うたい出しが、

  赤い顔して 黄色い声で

  またも出ました 赤わんが野郎

  国はどこよと たずねたなればーー

 

 というたい出しにはじまるので、赤わん節とよばれた。

幕末から明治のころ、ここには池田高次郎という人がいて、口説きの名人といわれた。

そのため大勢の弟子がいて、つぎには「わたしや武士(たけし)の赤わんが弟子よ」と

いううたい出しになった。口説きには太鼓を立ててはやすが、

玉村は太鼓を横にして叩いたので、横樽音頭といわれた。

横樽というが、口説きにはかっては使われず、かならず太鼓である。

いずれにしてもうたい方は同じであった。

口説きは曲調をいうわけで、文句はどんなものでもよかったが、

口説きの唄い方の初めに必ず、

 

国はどこよと おたずねなれば

 国は上州 国定村よ

 と唄うと、チャンカポンのポンと、カネとタイコと笛の拍子が入る、

そしてつぎに前の一章の

  国は上州 国定村よ

    百姓忠蔵の 二男が忠次

 と唄うと、またチャンカポンという拍子が入る。したがって一段唄うのに

大変時聞かかる。しかも間の抜けた唄い方である。囃子方は笛、太鼓、鉦で、

うたう人は開いた扇で口元をおおい、頭をふりふり唄うわけである。


                               つづく

 武士(たけし)

 語源は

 旧群馬県佐波郡境町に、大字 下武士「しもだけし」上武士「かみだけし」の両方を

通称武士と呼んでいるが、戦国時代末期城山の城主根岸三河守が没落、

三河守の家来が土着帰農した

武士「ぶし」の集団土着により、それまでの竹石村を武士村と称するようになり

慶長のはじめ武士村を二つに分け武士「しもだけし」上武士「かみだけし」とした。

なを、武士「しもだけし」村社、三社神社の南側の一部を陣場と呼んでいるが

三社神社に祈願し、この調練の場を陣場と呼んだとされている。

これ以前に、平安末期に上野の守護だった、安藤藤九郎景盛がこの地で、武を練ったので、

この地を、武士(たけし)という地名が生まれたという説もある。

一部、郷土史家の方々が、江戸時代例幣使街道の柴宿から次の、

境宿の手前の広瀬川の渡しを「竹石の渡し」と読んでいて

その竹石が、訛って武士になったという説を唱えるがこれは明らかに

年代的に誤りであり、竹石の渡しと、武士は併存していたのである。

江戸時代の絵画に、竹石の渡しがあるが、この時すでに

武士「しもだけし」上武士「かみだけし」村は、古文書に記載が有るので

実在しており、「竹石の渡し」の竹石が、訛って武士になったという根拠は

覆ることになる。






上州 八木節はいつ、何所から?

2013年08月11日 | 江戸から明治へ

 

越後蒲原 ドス蒲原で 雨が三年 旱りが四年

     出入り七年 困窮となりて 新発田様には御上納がならぬ

   田地売ろかや 子供を売ろか 田地は小作で 手がつけられぬ

     あねはジャンカで 金にはならぬ

   妹売ろうと相談きまる 妾しや上州に 行てくるほどに

     さらばさらばよ お父さんさらば

    さらばさらばよ お母さんさらば

    またもさらばよ 皆さんさらば

   越後女衒(ぜげん)に お手ヽをひかれ 三国峠の あの山の中 

     雨はしょぼしょぼ 雄るん鳥は啼くし やっと着いたが 木崎の宿よ

   木崎宿にて その名も高き 青木女郎やと いうその内で

      五年五ヵ月 五五二十五両 永の年季を一枚紙に 

   封じられたは くやしはないが

     知らぬ他国の ぺいぺい野郎に 二朱や五百で 抱き寝をされて

   五尺からだの 真ん中ほどに 鍬も持たずに 掘られた くやしいなあ

 

 これが上州口説きの、原型のように思われる。いわゆる「蒲原口説き」で、

元禄のころから上州地方にも、次第に飯盛旅籠屋があらわれるようになると、

かような遊女は、近所近辺では雇い難い。そのため貧乏百姓の多かった、

              越後方向の娘どもを買ったのであろう。

この早い時期のことはよくわからないが、

後年には「娘ぜげん」を頼っていたのでは間にあわず、飯盛旅籠の女主人なども

                          越後方面に娘狩りに行っている。

蒲原地方では出産のとき、「男出来たら踏んずぶせ、女が出来てら取り上げろ」と

初めから女は金になるとされていたようで、

妙齢になると売られてしまう、というのうは宿命であった。

飯盛旅籠屋に売られてきた娘たちが、身の不運を嘆いたのは当然で、

その不運を嘆いた口説きを、唄っていたがやがて上州東毛地区に

根づくことになる。

昔は小説物にしても唄にしても、お涙頂戴ものは、庶民に大変好まれたので、

情けない蒲原口説きは、一度に盛行して、どこの盆踊りでも唄われる様になる。

 

 

女衒(ぜげん)

[ 日本大百科全書(小学館) ]引用


芸妓(げいぎ)・娼妓(しょうぎ)周旋人の東日本での通称。身売り証文に請人(うけにん)

(保証人)として連判したので判人(はんにん)ともいう。「衒」は売るの意で、女衒は、

商売上女を見ることから女見(じょけん)の転訛(てんか)したものと考えられるが、確証はない。

元禄(げんろく)年間(16881704)から使われ始め大正時代に及んだ。

職業周旋人のうちでとくに女衒が区別されたのは、特殊な営業感覚を要することのほかに、

中世の人買い以来の誘拐、詐欺(さぎ)などの犯罪に結び付きやすく、周旋料のほかに水金(みずきん)

(就業までの滞在費など)や鞍替(くらが)え(就業先変更)による仲介料などで不当な利益をあげるのを例としたからである。

遊女屋と関係をもつのはもちろん、地方にも手先を置いて組織的に活動した。


                                                  つづく