関東取締出役手先の岩槻宿の嘉十郎は、
「往生も立派ニ御座候当日御出役様方江傑柱之上ニ而御礼申上、
大丈夫二御座候」と、簡潔にして要を得た所感を記している。
一方、惣左衛門が語ったと言われる伝聞は、
最期の忠治への描写は下記の通りです。
磔の場所ニてハ、御公儀様より御掛り御役人様壱人、
八州御取締御手代様御三人、右御役人様方之前ニ、弾左衛門手代壱人
是刀持を連、しょうぎ掛り下知有之(げちこれあり)たるよし、
磔の仕方、小塚原などニて致し候とハ余程違候由、
弥突時(いよいよつくとき)二相成、忠治申ニ、先待てと申て、
御役方へ御礼申ニ、私儀悪党仕(つかまつり)、国之みせしめのため、
御せいばいに披仰付、難有仕合奉存候(ありがたしそうろう)、
御牢内(ごろうない)ニ(に)而(て)身持(みもち)大切仕居候て、
斯御法二被仰付(かくごごほうにおおせつけられ)候事、存念叶い、
いか斗り大慶仕(たいけいたてまつり)候と申終て、又鑓持ニ向ひて、
さあ突けと申目を閉、一鑓突鑓抜(ひとやりつきやりぬけ)バ目を開、
諸人見物之方ヲ見廻し、又目を閉、又後鑓も右之如(ごとし)、
如斯(かくのごとく)する
十二度突迄目開候由、十三度ニて漸(ようやく)死候由、
いかにも大丈夫之ものニ而有之(これあり)
読み下しは、次回に
続く
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