アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の其弐

2013年12月22日 | 近世の歴史の裏側

 

 

関東取締出役手先の岩槻宿の嘉十郎は、

「往生も立派ニ御座候当日御出役様方江傑柱之上ニ而御礼申上、

 大丈夫二御座候」と、簡潔にして要を得た所感を記している。

 

一方、惣左衛門が語ったと言われる伝聞は、

最期の忠治への描写は下記の通りです。


磔の場所ニてハ、御公儀様より御掛り御役人様壱人、

八州御取締御手代様御三人、右御役人様方之前ニ、弾左衛門手代壱人

是刀持を連、しょうぎ掛り下知有之(げちこれあり)たるよし、

磔の仕方、小塚原などニて致し候とハ余程違候由、

弥突時(いよいよつくとき)二相成、忠治申ニ、先待てと申て、

御役方へ御礼申ニ、私儀悪党(つかまつり)、国之みせしめのため、

御せいばいに披仰付、難有仕合奉存候(ありがたしそうろう)

御牢内(ごろうない)(に)(て)身持(みもち)大切仕居候て、

斯御法二被仰付(かくごごほうにおおせつけられ)候事、存念叶い、

いか斗り大慶仕(たいけいたてまつり)と申終て、又鑓持ニ向ひて、

さあ突けと申目を閉、一鑓突鑓抜(ひとやりつきやりぬけ)バ目を開、

諸人見物之方ヲ見廻し、又目を閉、又後鑓も右之(ごとし)

如斯(かくのごとく)する

十二度突迄目開候由、十三度ニて(ようやく)死候由、

いかにも大丈夫之もの之(これあり


読み下しは、次回に

                    続く



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