アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の参拾五 ○連累者への判決

2013年09月29日 | 近世の歴史の裏側

 

   差上申一札之事

 国定村無宿忠次郎、所々悪事いたし申付一件、再応御吟味 之上、

 左之通り被仰付候。

一、次郎左(右)衛門、七兵衛儀は、次郎右衛門沢は、同国境

  町地内外ニケ村、同国神谷封地内外三ケ所、其外銘々野山、

  山林等に於て無宿忠次郎並に国定村清五郎外三人貸元と

  成り、賽賭博催候節に、名住所不存之者共一同手合加り、

  其外次郎右衛門者、忠次郎儀召捕方厳敷、関内立廻り候を

  遠慮し、奥州応へ立退候積存立、元居付近辺に於て右

  路用才覚中、御手配御見逃賈含以て、世良田幸助頼み

  申し、関東取締御出役道案内等相心得候木埼町佐三郎へ

  差送り代金子入用書状、忠次郎申付を受、幸他方支持参り

  忠次郎儀病気付候節に於ては、清五郎え任中、私共申合品々

  世話致し渋沢始末方不屈に付、両人共追放校似付沢。

  

 

                  つづく

 

 

 


小父さん同様、だいぶ遅れて、

2013年09月28日 | 家庭菜園

毎年恒例で、周りの専業農家の方の畑の

作業を見てから作業開始で、泥縄ですね。

ですから、我ミニ農園はいつも半月遅れです。

半年以上寝かせた熟成堆肥をと、有機で副作用の少ない。

貝化石をたっぷり入れて、メートルほどのマルチを二列完成!

片方には、早生の白菜と、ステックセニョールを取敢えず植え付け

あとは、同窓生で、今でも同級生?のTWさんの漬物用の苗を

貰い受けて植える予定のですが

ついでに、秋植え付けの九条ネギを植えるので溝切りをしておきました。

あとは、小松菜、ホーレン草を播種予定ですが、いつになるやら。。。。。

 

 

 


真説 国定忠治 年譜 其の参

2013年09月27日 | 近世の歴史の裏側

 

○年譜 其の参

 

天保9月18     幕府、農民に倹約を命じ、余業従事を禁止する。

9月25   車坂峠で堀口村の定吉(28)、室村の孫蔵、保泉村の

      宇之吉、他一名捕まる。

11月初旬  日光の円蔵(41)、召し捕られ伊勢崎柴宿の本陣で取り調べを受ける。

       子分、多数召し捕られる。浅次郎(27)、お辰(27)、茂八、鹿安、角、牧、

       吉、豊、桐長。

14年(1843     

2月9日    関東に大地震起こる。

3月26   幕府、諸国の人別を改め、在府農民に帰村を命じる。

4月        13代将軍家慶の日光社参に際し、三国街道杢ケ橋関所では

       要害地域内の警戒が

        厳重となり、沼田街道八崎村では旅人の通行改めが行われる。

9月        忠次郎(34)、赤城山に帰るが、危険を感じ、五町田嘉四郎(30)のもとにより、

        野沢温泉村に向かう。

9月13   水野忠邦、老中を罷免される。

               この年に関東取締出役、農村の諸営業調査を行う。大前田栄五郎(51)

       五町田嘉四郎(30)と大久保栄作(23)との紛争を仲裁する。

               日光の円蔵、牢死す。新川の秀吉(29)捕まり、牢死す。

               上総屋源七、木崎宿の旅籠屋を閉め、梁田宿に移る。

弘化   元年(1844

5月10   江戸城本丸焼失する。

6月21   水野忠邦、再度老中筆頭となる。

                この年お貞、忠次郎(35)の長男を産む。

同2年(1845) 1月 幕府、浦賀に砲台を築く。

2月14   伊勢崎藩主酒井忠恒、財政困窮だが、江戸城本丸普請に1千両もの

         上納を願い出る。

2月22   水野忠邦、病気を理由に老中を辞職。

5月14   忠次郎(36)の母いよ(53)、死す。

5月        五目牛の千代松、捕まる。

9月        忠次郎、再度赤城山に帰る。

同3年(1846      

2月19   五目牛の千代松(37)、牢死する。

3年    赤城山に隠れる。

6月         諸国、長雨となる。

6月半ば    忠次郎(37)、五目牛村のお徳(1816)を妾にする。

            お徳は元玉村女郎で子分五目牛の千代松の妻。

        千代松の牢死後、妾にする。

秋    木崎宿の川橋屋左三郎、新築祝いを盛大に行う。

                木崎宿(新田町)の岡っ引川橋屋左三郎(吉十郎)は左五郎の

        息子を養子に迎えて勢力を広げる。

             忠次郎、子分を浦賀に派遣して世情を探る。

            大前田栄五郎、赤城山の忠次郎を訪ねる。

                白銀屋銀次郎、栄五郎を御用弁にする。

                京屋元蔵、銀次郎を斬り、栄五郎釈放となる。

弘化4年(1847  

3月24日 善光寺大地震。善光寺から稲荷山まで死人が山のように出る。

9月      関東取締出役、豊年手踊りなどを禁止する。

           この年疱瘡、流行する。

 嘉永   元年(1848

2月      お徳、家宅捜査の木島の大谷助右衛門を叱り付ける。

6月      助右衛門(58)、自害する。

6月      諸国、旱魃となる。

同 2年(1849    

11      忠次郎(40)、境川の安五郎に跡目を譲る。

             この年 関東取締出役が増員され、3地域分担制が拡大される。

同 3年(1850    

7月21日 忠次郎(41)、お町の兄、庄八の家で倒れる(脳溢血)。

             その後、栄五郎、忠次郎に自決を勧める手紙を与える。

8月24日 忠次郎、田部井村名主西野目宇右衛門方の土蔵の中にて召し捕られる。

         お縄となった忠次郎は近くの伊勢崎藩の中島牢に一時留置される。

                 この日、関東取締出役の中山誠一郎、廻村中、木崎宿に立ち寄る。角万佐重郎、

         誠一郎のもとへ挨拶に行く。


                              つづく


真説 国定忠治 其の参拾四 ○理由書を判例や準拠法文に基いて

2013年09月26日 | 近世の歴史の裏側

 

 今回は、処刑地大戸村に建てられた捨札を、須賀尾村民の

雪渓と号する人物が写しておいもので、この伺書と言う点は、

終りの「…上州大戸御関所近辺におゐて傑可申候成」が

「…傑ニ行ふもの也」となっていて「戌十二月」と追記されている。

とにかく、この決裁伺が、出されて判決は傑と決定した。

処刑捨て札の記載文、この文に続いて同じく「徳川禁令今後」に

収録されたものは、なぜ忠治を傑に行うという理由書を判例や

準拠法文に基いて述べたものであり、上州大戸村はじめ、

忠治が悪事を働いた村々へ報せるため彼の罪状と処罰を明記し

科書(とがかき)の捨札(すてふだ)を建てる事の上申書の様である。

 

    御仕置之儀          国定村忠治

 

                     忠次郎

 右文蔵惧々、伊三郎を及殺害、叉者文蔵召捕相成代砺、同人を

可取戻と取締出役旅宿近辺迄押参り、或は、佐与松より首代と

唱金手為追出、其外博奕等いたし候儀礼有之候得共、浅次郎疑惑を含、

同人心底可見届と、伯父勘肋首級を携参、申被可致抔申罵より、

浅次郎儀終ニ勘肋を及殺害仕儀ニ相候成段ハ、指図および為殺候も

同様之儀ニ御座候間、指図致し人を殺させ候もの下手人之御定江寄、

伯父を為殺候儀ニ付、舅伯父伯母兄姉を殺候もの之本罪に而、

引廻之上獄門程ニも相当り可申、

大戸御関所を除山越いたし候代方重之犯行ニ御座代間、関所難通類、

山越いたし候もの於其所磔と有之御定並天保元午年曾我丹後守

御勘定奉行勤役之節伺之上

御仕置申付候鴛宮村(註、碓氷郡内)無宿彦太郎儀、

上川鷺宮村啓蔵外六人

表人口建寄有之候戸を明開立入、鉄胞脇差衣類其外品々盗取、

殊右鉄砲を持、碓氷御関所を除山越いたし候始末

重々不屈至極ニ付塩詰之死骸御関所近辺ニおいて磔申付候例も見会、

磔ニ相当。

然処年来長脇差等帯、悪事いたし候ものニ付、文政九戍年の御書付をも

見合、御関所近辺おゐて傑と御仕置附仕、上州大戸村並悪事之村々江

科書捨札為建候ハ当然之取計にハ御座候得共、右躰犯付重畳之もの、

悪事之村々江科書捨札為建候先例ニ御座候間本文之通申上候。

 

此処で、改めって下線の文面を確認して頂きたい、

従来から関所破りの罪で、処刑された事実は明かですが、

二度の関所破りは、何れも堂々と通り抜けたのではなく

初回は、関所手前から抜け道して山越えした。

二度目は、関所の門を強引に開き鉄胞脇差衣類其外品々を

強奪後、其鉄砲を持って、碓氷御関所をも除山越した事は

明かでこの際も、記載内容から表門から逃げ山越した。

仮に、通り抜けたとすれば、関所を罷通と記載される。

従来の子分を引連れて、槍、鉄胞で武装して関所の役人が、

逃げたなどの事柄は全て作り話であった。

なを、表門から逃げたと、判るのは次の点が根拠で、

表門から強奪後に裏門を強引に開き通ると更に罪は重く為る

また、そうした成らば、判決書及び理由書に明記されるが、

その記載は一切無いであるから断定できる。


 科言(罪状書)を高札に書いて公衆に公示しだのが所謂捨札で、

重罪人の処刑には見せしめの為しばしば用いられた。             

                       続く



真説 国定忠治 文字説明

2013年09月25日 | 近世の歴史の裏側

 

 毎日、100人前後の方に訪問、200回前後の閲覧を頂き有難うございます。

複数の知人より、読み下しに文字が解らないとの指摘が有りましたが、私自身は、資料を

忠実に記載して、閲覧戴いた方になるべく読み下し戴く事が最良と考えましたので、

遭えて、私の読み下しを、記載致しませんでした。


下記の一覧が、参考になれば幸いです。

 

遺=のこす

乍=ながら

之=ゆく、の

被=こうむる

科=しな

砌=みぎり

襷=たすき

乍=さく=州と同意語

迚=とても

襛=さかん

如=ごとし

褧=ひとえ

惣=そうじて

仰=おおせ

抔=など

〆=しめ、して

且=かつ

罵=ののしる

尤=もっとも

贄=にえ

舅=しゅうと

而=しかも

趣=おもむき

附=ふ

 今後共、ご訪問頂き、閲覧のほど宜しくお願い致します。


真説 国定忠治 其の参拾参 ○判決文Ⅱ 磔の趣旨説明

2013年09月24日 | 近世の歴史の裏側

 

 此忠次郎儀無宿之身分ニ而長脇差を帯又ハ合口等所持、博徒共を

数多子分ニいたし、上州田部井村たつ宅其外最寄国々所々、野田、

山林等、又は右村宇右衛門申合、溜井浚ニ事寄、横行ニ小屋場取立、

同類多人数手合ニいたし、筒取貸元ニ成、賽賭博相催、元居村清五郎、

無宿安五郎等江代貸元をも為致、其々てら、口之子、或ハ上ケ銭と

名付金銭受取、其上博徒渡世、頭取或は差配と唱、此もの江無沙汰ニ

博徒共寄合博徒相催候節ハ長脇差を帯踏込、其場ニ有之金銭奪取、

安五郎江ハ右差配差免、所持之駒札一ト通呉遣、又ハ佐与松儀手目博徒

(註、いかさま博奕、インチキ博奕)いたし、村々百姓共を欺、多分之金銭

掠取候趣及承、賭博渡世風儀ニ拘り収杯申聞、首代と名付金子為差出

殊ニ子分之内無宿文蔵(註、三木文蔵)儀、博奕賭銭取引之儀ニ什無宿

伊三郎(註、島村の伊三郎)と口論之上打擲ニ逢、残念之申咄聞候を承り、

子分之もの右様打擲交候を打捨置候ハゝ、伊三郎之強気臆しニ候坏他嘲を

受候も口惜敷儀と心得、右憤りを可為晴と文蔵江助力およひ、同国

境村地内おゐて同人倶々伊三郎を及殺害、迫而右文蔵儀関東取締役

(註、八州取締のこと)之ものに被召捕候節ハ文蔵を可取戻と.多人数申合、

得物等拘心出役旅裕同国木埼宿近辺三ツ木迄押参り、又は右田部井村又八宅

借受、同類其他呼集、博徒相催候砌、兼而此もの兄弟之契約致し置候無宿

浅次郎並同人子分之もの共不相越、不審之儀と存居候折柄、取締役為捕方

立越候趣、右右衛門為知越候ニ驚逃去候共、其節右浅次郎伯父同国ハ寸村

勘助儀、右出没道案内ニ成罷越候由追而承込、右ハ浅次郎及変心勘助内通

いたし候より、同人差口ニ而右躰手配相成候儀と相疑い浅次郎を呼寄、

右次第を以相咎、其分ニ難差置、若存命罷存度ハゝ、勘助首級を携参、

中披可致抔強勢ニ申掛候故、浅次郎儀終ニ伯父勘助を及殺害候仕儀に相成、

剰無宿長兵衛儀信州路おゐて、同国中野村忠兵衛伜原七に被及殺害候処承込、

仇計可致と子分之もの共数多引連、鑓・鉄砲等携押参候砌、右道筋大戸

御関所有之、往来差支候迚、右御関所を除山越いたし候段、不恐公儀いたし方、

殊右躰品々及悪事候身分、召捕方探索可遁ため、取締出役道案内等心得居

候もの共金子相送(註、道案内という手代の下に付く者に賄賂を送ったこと)、

追而病気附、右宇右衛門方江罷越養生中、兼而密通いたし居候同国五目牛村

仲右衛門 養母とく(註、忠治の妾お徳のこと)、其外妾同様ニいたし置候まちを

呼寄、看病為致、立隠れ罷在候始末、旁重々不届至極ニ付、上州大戸御関所

近辺におゐて傑可申付候哉。


                     

 但上州大戸村、其外悪事之村々ニおゐて、科書捨札為建候可仕候。

というもので、主な忠治の罪状をあげて、大戸関所の近くで、

「右御関所を除山越いたし候段

関所を除けて技け道をしたが、これも関所破りの一つである規定であった、

其の所(破って通った関所のこと)において傑の条項に、

照らして傑の極刑となったことが明白にわかりますね。

輙、子分を引連れて強行突破した事実はなく、俗に言われている関所破りは、

脚色による作文で広まり、今日に至る事になってしまった訳である。

読み物では、槍、長筒(火縄銃)などで武装して強行に突破したと言う記載もありますが、

国定忠治の本、劇、映画などには、判決、処刑等については従来殆ど無いので、

私は真説として、判決、刑の執行及び其の他を、出来るだけ詳細かつ

当時の古文書状を基に続けたいので、今後は暫くの間は、文章中心です。

なを、判決文は約2万5千文字以上ですので、掲載規定により、

あと数回になり、当方入力に手間取り今後は、隔日以上の掲載に

なりますが、宜しくお願い致します。

                       
                              つづく


お彼岸にあたり 墓参り 国定忠次郎の墓

2013年09月23日 | 近世の歴史の裏側

 

 昨日は、妻の実家の菩提寺でもある養寿寺の長岡家の墓を訪ねて観ました。

 

本堂は、平成になり新しくなりました。

 

個人的には、こんな佇まい好きなんです。

忠治の墓は、勝負師の宝物として削り取られて、弐基めです。

長岡家のつたえでは、嫡男と記載されていましたが、これは長男ではなく

忠次郎からして、私は跡継ぎと思いました。

以下。、画像はご参考に

 

ご住職が、1930年代と思われる車を所有され、車検も受け走行可能です。

タイヤが、貴重な当時のままで、驚きでした。

USA製

車内は、綺麗にレストアされています。

どなたか、この車の情報を教えてください。

宜しくお願い致します。

 

 

 


お彼岸にあたり 墓参り 壱

2013年09月22日 | 系譜に(ついて

 

私の家系一族は、神葬祭なので本来彼岸は仏教徒の習わしですが、

やはり江戸時代は、家系一族は仏教徒でしたが、

昨日、墓参り致しました際に、先祖を確かめて視ました。

権大僧都の墓石が有りましたので間違いなく仏教徒でありました。

 

明治2年に全て神葬祭になりました。

なを、現在確認できる限りでは、孫右衛門「長太郎」が

寛永19年(1640)6月に没しており、「盛林道基居士」

その後は承応4/明暦元年(1655)から天明3(1783)4

次右衛門「初代勝平」正徳院権大僧都居士までが仏教徒でありました。

 

なを、私の祖父勝平は明治生まれで襲名ではなく本名が勝平でした。

 

また、一族で長寿の祖先は与右衛門が天保2(1831)2月に107歳で没しておりますが、

私の父は102歳で帰幽、母は、現在102歳で健在です。

 

 家系一族の喜右衛門「芝侶」俳号「池澄」が、

鈴木廣(こうせん)先生び、栗庵似鳩(りつあんじきゅう)先生の弟子でした。

ある日のこと、先生が池澄小宅を訪問した際に留守で、

             先生に下記の歌を詠んで戴いております。

 

池澄子をたずるぬるに、主人は農に出してあらず、

                   涼をとらんと坐に上りて

 

私の推測では、当日先生はその後、隣の伊与久村の、

忠治引を書かれた、町北荘を、尋ねたと思いますが、

それはロマンですね。


池澄の句では、

元旦や開きそめたる福寿草」などを、残しております。

また、池澄「天保4(1833)11月没」の墓碑銘は、

        嬉しい事に、鈴木広川先生に、撰して戴いております。

                                     つづく

なを、栗庵似鳩先生ほか伊勢崎市の著名な方の詳細は此方をご参考に、


真説 国定忠治 其の参拾弐 ○判決文Ⅰ

2013年09月21日 | 近世の歴史の裏側

 

○判決文など

 

忠治は十月十九日に江戸に到着し、徳川禁令考所で取り調べを受け

忠治および連累者に判決を言い渡されたが、判決文にも資料により様々の

違いが有りそれを見ると、引用したものにも勝手に字句や配字を変えて

別にその改筆を断らないものがあり、同一でないようである。

 忠治の判決文として知られる次ぎのものは、「徳川禁令考後聚」 (第三帙)に

収録されているもので、以下は勘定奉行池田薩摩守からの伺書である。

寛永三戌年十一月

   国定村無宿忠次朗御仕置之事

 国定村無宿忠次朗、品々悪事いたし候一件吟味仕候趣申上候付

                     池田薩摩守

 国定村無宿忠次朗儀、長脇差を帯合口等を所持、子分之もの

共をも引連歩行(あるぎ)品々悪事いたし候趣相聞、去ル夘年(註、天保十四年)

水野越前守殿御勤中召召し居捕方之儀御沙汰之趣も有之、兼而関東為在々取締差出

御代官手附手代共江厳重手配申渡置候二付、関内立廻り候節ハ右出没

井おゐても精々穿鑿仕候得共、是迄同類又は子分之もの共

而已召捕、忠次郎ハ其時々関外江逃去行衛不相知候二付、

猶探索罷在候処、上州田部井村宇右衛門方二立隠罷在収趣を以、

今般御代官青山録平、勝田次郎、竹垣三右衛門、林部善太左衛門手附手代共、

右宇右衛門一同召捕差出収二付右二引合収もの典之内重立候分ハ猶夫々為召捕、

其余差紙を以呼出、一同打合吟味仕候趣左二申上候。

 戌十月十九日入牢        国定村無宿

                    忠次郎

                     戌四十一才


                     つづく


真説 国定忠治 其の参拾壱 江戸へ移送

2013年09月20日 | 近世の歴史の裏側

 

◎忠治 江戸へ移送

 

逮捕された一味は、九月二十八日に一たん玉村宿に着き、

一応の取調べの上、十月十五日に同類八人とともに、

取調べのために江戸の勘定奉行所評定所に送られたが、波志江村の

昌楽寺のハルジという女性から、大正時代に開き出した資料によると、

唐丸籠七挺に七人を入れ、一番前が右衛門、次ぎの籠が境川安五郎

、三番目が、山王氏五朗だといっていたが、これはどうも怪しい。

二人は逃亡したはずである。四番目が不明、五番目が忠治、

六番目がお徳、七番目がお町だったそうだ。

お徳、お町は、龍の籠の隙間から、天保銭を撒きながら行ったという。

罪人が唐丸籠で送られる時に、施しと罪滅びしに沿道の者に散財する

風習のあったことは、小林一茶が草津温泉紀行に、目撃した話を

書いているのでもわかる。唐丸籠の両脇には、仲間の奪還を警戒して、

数十人の捕手が堅くまもり、鉄砲を持つ者もいたという。

ハルジさんの話によると、七名の唐丸籠を見送る時にみな泪を流して

別れを借しんだという。十九日に江戸に到着し、一応牢に入れられた。


                   つづく