アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾六午年 其の六 大戸関所の詳細の五

2014年03月15日 | 近世の歴史の裏側


大戸関所の逸話

 大戸関所が出来た頃、村の百姓が関所の向こう側にある田畑の農業に、

そのたびに手形を貰って行くのは煩わしい。その為関所の裏道をして農業に出ていたが、

其れが分かって忽ちの内に七人が処罰された。裏道した者を密告すると、褒美が与えられたが、

村の百姓は仕事にならない。そのため関所廃止の猛烈な運動が始まったのである。

関所を廃止しては幕府の面目丸潰れで、其れからは農業の為の、裏道通りは黙認される様に

成ったが、多分上州の諸所に有った関所も、善良な人たちの裏道通りは咎めなかったらしい。

大戸関所も此の後、国定忠治の処刑の他には記録は少ない。

 さて、下仁田の奥の黒滝山は、かの潮音道海禅師のいた有名な霊場である。

目の前には信濃の山波であるが道はここで途絶えてしまう。信濃に往くには黒滝山の北に、

下仁田から西牧関所に通じる道がある。その関所の近くの本宿村に、神戸さんという

旧家があった、古文書が沢山保存されていて、関所資料なども色々ある。

 その中に寛文十二年(一六七二)に、新田郡太田宿の女連れ三十人が、善光寺参リした

ときの関所通行手形が有る。太田宿から善光寺へは、碓氷の関所を通る方が多少近道であるし、

中山道の方が便もよかったように考えられるが、どうして遠回りして、不便な西牧関所を

通ったのであろう。

 下仁田から本宿を経て、信州へ通じる道を姫街道と呼ぶ人もあって、それは碓氷より西牧の

関所の方ほとんど簡単に通してくれたからだという。何れにしても江戸時代の初めに、

ほとんど連れ三十人の善光寺参りは壮観だったに違いない。

またこの寛文年間の関所手形は上州においても比較的早いもので珍らしい。

 ところでいま街道の端に西牧関所跡というのが残されている。村の古老に聴くと、

本当はその場所より下へ下りた川辺りにあったそうで、その川伝いに古道が残っている。

その古道は関所の手前で二またに岐れたので、いま関所跡となっている場所より、

少し高台の方にも番所があったそうである。

つまり西牧の関所は近くに二つの番所があったわけで、これは神戸家の絵図面にも

歴然と示してある。

 安永五年の「関所通改日記」という帳面があって、毎日この関所を通った人が

一人一人記入されている。大体、一日の通行人は二十人から三十人ぐらいである。

それには四月十六日「弐人、越後国間瀬村佐右衛門、源五郎、下仁田町大工宇兵衛方より

追分宿大和服迄」というようにある。あるいは信州佐久郡より出てきて藤岡に奉公、

または「西国其外国々参詣に罷出侯帰り」などとある。出所や行先などこのように

一人一人厳しく取り締まっており、帳面の記入は、全て二人の連名である。

 

                             つづく