アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

伊与久 雷電神社創建八百年(群馬県伊勢崎市)

2015年03月25日 | 名所旧跡

 

順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと、

伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記される神社である。

後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、

戦勝祈願祭を行った。

本日、創建800年でした。


鎮座地:群馬県伊勢崎市境伊与久3581


 

雷電神社古墳


詳細は、後日アップ致します。




 


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾四

2015年03月21日 | 近世の歴史の裏側

玉村宿役人の巻返しと想える事


 火札騒ぎにめげず、外堀を埋め、内堀もほぼ埋める目星がついて、ちょうど一息という四月六日、

大津屋源助店一条に支障あり、との知らせか、五目牛の徳のところへ入った。

 確かに大津屋は内諾し、三右衛門の〆の酒を受け取ってはいた。 しかし公式の承認は、

玉村宿が他の人別送りを受領するかに懸かっている。 手続上の問題とはいえ、

かつて五目牛村の千代松家に入籍するとき、徳は辛酸を舐めている。

雑務に追われる三右衛門は不安気に事実のみを簡略に記している。


「四月六日、テンキヨシ  早朝ニ五目牛村徳来り候由、新万や祐吉申来ル、借宅之事、

                                                              四丁目日野屋代次郎殿取扱ニ来ル」


 前夜にでも他の耳に不吉な情報が聞こえたのであろう。

徳は取るものも取敢えず、 真実を確かめようと、飛んで来た。借家一件の事の成り行きには、

大津屋へ贈った〆酒を買った日野屋代次郎が、立会ってくれることになった。

 

                                                                      続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾参

2015年03月18日 | 近世の歴史の裏側

渡辺三右衛門の日記には

 

「十九日テンキヨシ」

大津や江酒弐升遣わす、 日のやより取候

            但し、おとく借家之酒〆也」

 

 三右衛門は酒屋の日野屋代次郎から酒二升を取り寄せて大津屋へ贈り、

徳が旧宅を借りる契約の固めとした。お神酒媒介にして約束を交わすのは玉村宿の

儀礼であった。

 

                            続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾壱

2015年03月15日 | 初詣

火札・落文・張札について                      

 徳を名指しで「焼き払う」という火札への対応は難しい。もちろん不法であるので、犯人を捕らえて事態を究明出来れば

問題ないが、不特定多数を装う火札は、相手は特定するが、書き手自らは明かさない。              

幕末の上州では落文、張札と並んで珍しい現象ではなかった。蚕繁昌は人々の識字力の高揚をもたらし、

喜怒哀楽を文字で表す能力を身につけ始めていた。

これらは正式な小難しい訴願手続を経ずに直接要求を突きけられることから、急速に人々の間に流布した。

火札は怨みなどがある個人を狙って、放火を予告して恐喝するものであるが、落文、張札は年貢その他負担の軽減や村役人の

不正等政治的要求を貫徹しようとするものが多かった。しかし、次第に日常的、私的なトラブルを背景にした火札の類が多くなった。

在郷町桐生新町では張札、火札が乱発され、人々はとりたてて騒ぎ立てることはなくなっていた。

幕末革新の動乱只中の世直し一揆勢の張札には、「又張札と笑、今ニ見ろ」(また張札かなんて笑っていろ、今に見てろ、

必ず焼き払ってやる)と念を入れたものまで現れた。

 火札は通常名指しした家の戸口に、人眼に付かず素遠く貼りつけられる。「大札」と目立つよう

大書し、その後に詳しくその謂れ、経緯を記したものが多い。

徳を狙った「火札」は、玉村宿の公共空間、お上が宿民に触書を以て仁政を知らしめる高札場に貼られたのである。

徳という個人を指名しながら私的な火札の様式ではなく、宿民に目立つような大きなものであった。

もちろん徳は未だ玉村宿に1軒構えるに至っていないのだが。

                                            続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾

2015年03月10日 | 近世の歴史の裏側

 後見渡辺三右衛門の存在も徳には不利に働いた。

顔役三右衛門と女侠徳が玉村宿を二人で結びついたらどうなるか。玉村宿の多くは大いなる不安を

抱き、どうしたら他の進出を拒むことが出来るか、頭を悩ましていた。

 どうもこの火札は自然発生的に書かれ、貼られたのではない。書く者と貼る者と、

おそらく差図した者がいる策略の臭いがする。表立って大惣代の三右衛門と事を構えたくない宿の

人々にとっては、宿住民の総意という意味で、本来不法の火札を考え出したのではないか、

上州の冬、空っ風の中で火付けでもされたら、徳の借家だけでは済まない。

宿全体の存亡にかかわって来る。

 他により外堀から内堀まで埋められ、すっかりその気になっていた三右衛門は窮地に至った。

三右衛門は福島村の年寄で、玉村宿外二十四か村改革組合の大池代ではあるが、

玉村宿の宿政には表立っては、何ら関与出来ない立場にある。

 とは言っも、火札は不法な脅しであるこんなことで引込むようでは大惣代の顔は立たない、

徳とて世間の荒波を何回と何度となく乗り切って来たしたたかな女である。

                                     続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の壱拾九

2015年03月08日 | 近世の歴史の裏側

 徳が大惣代渡辺三右衛門を頼って玉村宿に出店しようとしている情報が宿内に洩れて、

人々の恰好の噂話になっていたのかも知れない。

徳が玉村宿の住人になることを歓迎しない者が数多くいることは、十分推測できる。

忠治傑刑を見事に演出して名を馳せたとはいえ、自らも玉村宿に収監され、押込の罪を蒙った、

いわば犯罪者である。その後も忠治の貸帳を譲り受け、国定一家の残党と貸金の取り立てに奔走している。

徳は名うての女侠であって、普通の百姓町人とは言えない。 

後見渡辺三右衛門の存在も徳には不利に働いた。顔役三右衛門と女侠徳が玉村宿を舞台に、

結託したらどうなるのか、玉村宿押込の罪を蒙った、いわば犯罪者である。

その後も忠治の貸帳を譲り受け、国定一家の残党と、貸金の取り立てに奔走している。

徳は名うての女侠であって、普通の百姓、町人にはとても感じられない。

 

                                                                         続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の壱拾八

2015年03月06日 | 近世の歴史の裏側


三右衛門は徳の後見となることが、満更でもなかったようである。

これで、三右衛門は誰に憚ることなく、堂々と妾宅ならぬ徳の大造りの赤城型民家に、

出入りするようになって行くのである。

 徳の深謀遠慮は徐々に、本音が出てくる。三右衛門が後見になる直前の正月二十五日には、

徳の実弟の田村仙岳が三右衛門を高崎千手観音参詣に招待して、一泊させ、甥の半田村利三郎を

引き合わせている。田村仙岳は、忠治傑刑直後の嘉永三年十二月三十日に、高崎観音で著名な、

清水寺(せいすいじ)に転位した。

翌二十六日には高崎扇短の二階に三右衛門を案内し、徳、母、利三郎、伊三郎の四人で。

歓待している。まさに徳の有馬村一合家の肉親との顔合わせの儀礼である。

 本丸に向かって外堀は埋まった。

 正月三十日には、三右衛門は公務の余暇を縫って玉村宿旅龍大津屋源助に酒を馳走している。

大津屋源助こそ、徳が三右衛門を介して店借りしようと企む相手先であった。

前に述べたように、徳を送り出す五目牛村の方は固まった。事は順調である。あとは玉村宿の同意を

得るだけである。

ところが事態は思わぬ展開となる。月が替わった二月十一日、徳が玉村宿に移住することを拒む

火札(火付札。放火する旨を記した札)が高札場に貼られたのである。

三右衛門日記には、その様子が残っている下記の通りである。


 嘉永五年二月十一日 風少々吹、昼前ハ東風、八ツ頃より北風二成ル、(中略)

 玉村宿六丁目高札江五目牛村とくと申人、当宿江参り候ハヽ急度(きつと)焼払申候と

火札張有之候、

 右之札建具金と申もの見付、三好や申来ル、折節本陣雅之丞殿も居合候、

亦々(またまた)とうふや亭主尚又申来ル

 

 風が少し吹く、昼前は東風だったが、午後二時頃から北風に変わった。玉村宿六丁目に

建つ高札に、何者かが「五目牛村とくと申す人が当宿に来るならば必ず焼き払うぞ」と書いた火札が

張ってあった。これを建具屋の金が見付け、三好屋が三右衛門のところへ注進して来た。

その節本陣の雅之丞も居合わせた。また更に豆腐屋の亭主も言って来た。

  続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の壱拾七

2015年03月03日 | 近世の歴史の裏側

渡辺三右衛門の詳細

 渡辺三右衛門陳好「のぶよし」は、文化四年(一八〇七)福島村に(現群馬県佐波郡玉村町福島)に生まれました。

父詮季「あきすえ」は、角渕村(現群馬県佐波郡玉村町角渕)名主小屋原佐五右衛門の弟詮勝

「あきかつ」の、二男で、三右衛門綱忠の長女に迎えられましたが、早世したので後妻を迎えました。

その長男が三右衛門陳好です。初代の三右衛門重綱は箕輪城主長野氏に仕え、

その後浪人となり福島村に帰農しました。

陳好は9代目となります。

 三右衛門は、初め南玉村(現群馬県佐波郡玉村町南玉)町田四郎右衛門の二女を妻として

迎えましたが、早世したので、角渕村高橋武左衛門の長女美紀を後妻に迎え、

天保元年(一八三〇)には長男半六好直「はんろくよしなお」が生まれました。

 父も福島村の名主役を勤め、三右衛門も若くしてその役を勤めました。日記をつけ始めた、

三十六歳時で組頭を勤めていました。弘化三年(一八四六)には玉村宿外二十四ケ村

改革組合村(文政壱拾年に幕府により関東全域に悪党の取締や防犯の強化のために編成された。

組織の大惣代となり、慶応弐年(一八六六)に罷免されるまで弐拾年間勤めました。

 玉村宿外二十四ケ村改革祖合村には福島村も属していました。福島村は、旗本の大久保氏

(二百九十五石)と、島田氏(五百九十七石)の二人の領主により支配され、家数は全体で、

参拾九軒、人数は二百二十三人で三右衛門は大久保氏の支配に属していました。(慶応弐年)

 明治二十五年(一八九二)、三右衛門は八十六歳で亡くなりました。


  戒名「厚徳院宝満仁英好翁居士」

                                         続く