嘉永十二月二十一日早朝、冬の底冷えする寒風の中で、
仕置場に向かって忠治最後の行列が組まれたのである。
此処からの儀式は、支配代官の管轄を離れ、
護送警固役人の手から鎌倉幕府より続く、
浅草弾左衛門、車善七配下のものに委ねられた。
行列の先頭を務めるのは大戸村の惣右衛門、三ノ倉村の
源助の二人。続くは、板鼻の助蔵、半三郎の両名である。
帯刀の機多が前後を警固する中で、捨て札をもった人足が続く。
そして傑を行う鑓持帯刀の二人が忠治を取り囲む様に付いている。
そのあとに関係役人が続き、召集された村々役人・人足が従う。
この最後の行列も、時の幕府が十分に衆目を意識した。
(見せしめ)の為のものではあるが、忠治にとっては最後の
見せ場であった。
仕置場に一行は到着する。このとき山間の大戸宿は、忠治の傑を
見ようと集まった「見物人共凡千五百人余」であふれていた。
『劇盗忠二小伝』では、下記の様に綴れている。
刑場ニ詣(まい)リ又一椀ヲ乞ヒテ曰、本州ノ酒ヲ飲ミ本州ノ土ニ為ル、
ナルカナト、更ニ一椀ヲ勧メド笑ヒテ曰、刑二臨ミテ沈酔スルハ
死ヲ畏(おそ)ルル事也、従容(しょうよう)トシテ刑二就(つ)ク、
槍ヲ受夕ルコト十四、始メテ瞑(めい)ス、時ニ年四十一ナリ・
刑場についた時、また一椀を乞うて、生まれ故郷の上州酒を飲んで
上州の土に帰るのが爽快であるといった。もう一杯どうかと勧めると
笑って’死に臨んで酔ってしまっては、死を恐れたことに
なってしまうと断り、従容(しょうよう)として刑に服する。
一四度槍を受けてようやく瞑目した。時に四十一歳であった。
続く
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