アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ 其の30

2015年09月19日 | 近世の歴史の裏側

しからばサンカとは果していかなる語であろうか。これについては了蓮寺伊藤祐晃師の示された泥之道という書に、

 三家者位牌事

三家ハ日本ニハ云フ二坂者ト一。取テレ音ヲ呼ブレ訓ニ故也。

 とあるのが最も面白い説と思われる。この書は寛永十一年に袋中和尚の著わしたものである。和尚はその名を良定と云い、

京都三条畷の檀王法林寺の開山で、寛永十一年の当時九十一歳の老齢であった。その書名の泥※(「さんずい+亘」、

第3水準1-86-69)とは涅槃の義で、したがってこの「泥※(「さんずい+亘」、第3水準1-86-69)之道」は、死者の葬儀や位牌の書き方等を

示したものである。王公卿相以下、所謂三家者のの徒に至るまで、それぞれにその身分に応じて位牌の書き方を例示してある。

その著者袋中は寛永十一年に九十一歳だとあってみれば、その生誕は天文十三年で、江戸時代以前の故事もかなり知って

おったであろうし、特にその長年月間扱い慣れていたところから、所謂サンカモノの何であるかくらいの事は、

よく通暁しておったに相違ない。

                                                             つづく


幻の民サンカ 其の29

2015年09月17日 | 近世の歴史の裏側

サンカ人の生活様式を端的に表わす言葉に『一所不住、一畝不耕』なるものがあ

る。言いかえれば「非定往、非所有」という思想である。国家の支配・締めつけを

拒否し、搾取と収奪から自由になるということは、同時に

身に受けることである。その恪印を焼きつけられてなお、所詮権力が作ったシバリに過ぎぬと

歯牙にもかけず、それより価値あるもの・守りものを守り通すものとして「自然

とともに生きる漂泊人・自由入」の道を選んだ。その核となる思想が「無」なの

である。ものの無いことに苦しむのではない。むしろなにも持とうとしない無なの

だ。この「無」に対しては、支配・束縛の入り込む余地はない。ゆえにすべての呪

縛からの解放がある。そしてただ自然とともに在る。

                                          つづく


幻の民サンカ 其の28 体源抄十に 

2015年09月17日 | 近世の歴史の裏側

体源抄十に、前草は始はくゞつにて、後は遊女になりて、両方の事を知りてめでたかりけり。(以上は柳田君も松屋筆記により引用せらる)前草が云ひけるは、歌は第一の句を短く歌ひて吉なりとぞ云ひける。又云ふ、今様は本体は律なり。然而呂律倶に存也。

くゞつの様は呂音に歌ふなり。比巴法師の歌又呂音也。而傀儡の体にあらで、直ぐ歌ひながら、呂音に歌うがめでたきなり。

歌女駒(人名)が歌其様なり。

  とある。すなわち歌をうたうに堪能な遊女であったのである。この頃にあっては松屋筆記に既に注意してある如く、

傀儡と遊女との間にはその別があって、両者間の歌の歌い方にも相違があり、遊女は今様を律の音に歌うが、

傀儡は呂の音に歌うという様な事であったと見える。かくて散木集の家綱の連歌の詞書は、

 

伏見に傀儡のシサムというものが来たので、遊女のサキクサに合せて歌を歌わせようと之を呼びに遣わしたところが、

前に居た宿にサキクサは居ないと云って来なかったので

  と解すべきものであろう。かく解してこそその歌も、「うから(れ)めなるサキクサはうかれて宿も定めぬか、

傀儡まわしのシサムは廻り来て居る」の意に解いてよく通ずるのである。

「くぐつ」と「くぐつまわし」とはもと必ずしも同一とは思われぬが、これは歌詞の都合上から、「廻り来て居り」と言わんが為に、

ことさらに「くぐつまわし」と云ったのかもしれぬ。しかし「くぐつ」にしても「くぐつまわし」にしても、それをその頃において

「くぐつし」と云ったとは思われぬ。これは平安朝に傀儡子と書いたのを後に人形遣いのみのこととして傀儡師と書くようになっての

後の事であろう。したがって右の連歌の詞書は、「傀儡師なるサムカ」ではなくて、「傀儡なるシサムが」と見るべきものであろう。

 果してしからば右の連歌は、まことに面白い発見ながら、未だ以て、平安朝当時からして既にサンカの語があったという証拠にも、

また傀儡を一にサンカと云ったらしい証拠にもならぬ様である。

                                                                       続く

 


幻の民サンカ 其の27 サンカ者名義考 

2015年09月11日 | 近世の歴史の裏側

サンカモノは坂の者

喜田貞吉は、京都あたりでは一種の浮浪民を、サンカまたはサンカモノと呼んでいる。東山や鴨川堤などに臨時の小屋を構えて住んでいるものは、そのやや土着的性状を具えて来たものと思われるが、それでもやはり戸籍帳外のものとしてしばしば警察官から追い立てを喰って他に浮浪せねばならぬ運命を免れない。その或るものは数年前から警察や役場のお世話になって、今は在来の或る「特殊」に接した地に借屋住まいをなし、別に一つのをなして戸籍にも編入せられ、日雇その他の労働者として立派に一人前の帝国臣民たる資格を具えることになっているが、それでもなお「旧民」からは、「あれはサンカじゃ」と云って、その仲間扱いにはなっていないらしい。

 京都あたりではサンカという類のものを、自分の郷国阿波などでは、オゲ或いはオゲヘンドという。尾張・三河あたりではポンとかポンスケ・ポンツクなど云っているそうである。かの四国・九州あたりで勧進・禅門西国など呼ばれる仲間にも、この徒が少くないらしい。現に竹細工などをして漂泊しているものに対しては、その職業によって、箕直し或いは竹細工などと呼ぶ地方もある。柳田君によれば、ノアイとも、川原乞食とも呼ぶことがあるという。またその種類によって、セブリ・ジリョウジ・ブリウチ・アガリなど呼んでいることもあるという(人類学雑誌「イタカ及びサンカ」)。

 各地方により種類によって、種々の名前があるにしても、近来はサンカという名称で、広く彼らを総括する様な風潮になっているかの如くみえる。そしてその文字には、普通に「山窩」と書く様になっている。これは大正三年頃の大阪朝日の日曜附録に、鷹野弥三郎氏の「山窩の生活」と題する面白い読物が連載せられたのが、余程影響を与えているものらしい、それ以来地方の新聞などでも、浮浪漂泊もしくは山住まいの凶漢悪徒の記事などの場合には、往々「山窩」の文字を用うることになっている様に見受けられる。しかし彼らが山の穴住まいをなすことは、むしろ稀な場合であって、柳田君も既に言われた如く、勿論この宛字は意義をなさぬ。芦や穴住まいをしているものについての称呼だとしても、それをむつかしく「山窩」など書いて、それが俗称になったとは思われない。

 サンカのことの学界において論議せられたのは、自分の見た限りでは柳田君の「イタカ及びサンカ」(人類学雑誌明治四十四年九月、十一月、同四十五年二月)が初めであるらしい。同君は職人尽歌合にあるイタカとこのサンカとを併せ叙して、彼らと売春婦との関係に及び、一種の娼婦をヨタカと云いソウカと云うは、イタカ及びサンカの語と関係があるらしいと説いておられる。そしてそのサンカの語そのものについては、「本義不明なり」というのみにて、その説明を試みておられぬが、その名称の由来はすこぶる古いものと解しておられるらしい。すなわち平安朝末期の散木奇歌集に、

 

伏見にくゞつしさむががまうで来りけるに、さきくさに合せて歌うたはせんとて、呼びに遣はしたりけるに、もと宿りたりける家にはなしとて、まうで来ざりけれは[#「けれは」はママ]、

 うからめは、うかれて宿も定めぬか  つくくゝつまはしは廻り来て居り

 

 という連歌を引証して、サンカという語の古く見ゆる例とされているのである。さすがに博学なる柳田君だけあって、うまいものを見付け出されたとひたすら敬服の外はない。しかしながらこれは柳田君も既に言われた如く、「ただ一つの証なれば誤字等も計り難い」という以外に、実は本来「くゞつし(傀儡師)なるサンカ」と読むのではなくて、「くゞつなるシサムという名の者がもうで来りけるに」と読むべきものではなかろうかとの疑いがある。柳田君は右の連歌の詞書の中なる「さきくさ」を「人形芝居の一曲なるか」と解しておられるが、これは曲名ではなくて遊女の名であった。

                                          つづく


幻の民サンカ 其の26 山窩物語

2015年09月06日 | 近世の歴史の裏側

 「もののけ姫」という映画で、宮崎駿はサンカをはじめとする人々を描いたようである。

サンカとタタラ族との深い繋がり、もののけ姫の名前がサンという事とアシタカという名から連想される先住民、彼らがハンセン病患者達を助けたという事実がそれを考えさせるのである。作家の椋鳩十は、自然に生きる漂泊民として詩情豊かに描き、自由に生きる人間の原風景を呼び起こした。「戒厳令の夜」「風の王国」など五木寛之の作品では、国家の規制を超えて独自の文化をもち、管理社会の下で閉塞した状況に風穴を開ける集団として登場している。中島貞夫監督の映画「瀬降り物語」(85年)では、山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が好演した。

 

 サンカと呼ばれる人々はハンセン病や色んな事情があって山に逃げてきた人たちをとても良く面倒みたりもした。今の破壊された地球において、自然を愛し共生する自発的貧困とも言える質素、簡素、素朴な生活を送り、真の豊かさを知り、自由で矜持高く、弱きものを愛する事のできるサンカこそが、今の日本に一筋の光を差す、真の生活を送っているのかもしれない。

つづく


幻の民サンカ 其の25 昭和の山窩

2015年09月03日 | 近世の歴史の裏側

昭和の山窩

かつて、山で生活し自分たちの独自の文化と社会を形成していたサンカが存在したのは確かな事だが、昭和40年代にとなると、「いる」「いない」で意見が別れている。『サンカと説教強盗』を書いた礫川全次は、トケコミしきって、消滅したという説だ。現代日本では山に行ってもセブリをしているサンカはいない。小説や物語の中でのみ、彼らに会う事が出来るというところであろう。

 しかし、その一方で、サンカの独自の結束を生かして金を集め、そのサンカ資金でエリートを育て上げ、サンカ資金の運用で裏側から中枢を動かしているという説もある。三角寛の『サンカ社会の研究』の第4章15は秘密結社という見出しでシノガラを紹介している。セブリから離れてトケコミをすると三代限りでサンカから絶縁する。しかし、形の上ではトケコミだが、絶縁しないで秘密のつながりを持ち続けるのがシノガラなのだと言う。セブリがなくなった後、サンカはシノガラとして存続しているのかもしれない。元々、明治以降、戸籍を取らせるため、また犯罪捜査のためとして警察から過酷な手入れをされるなど差別にさらされたサンカが自衛のため、法律家、政治家を育て対抗しようとした事からはじまるサンカ基金がシノガラと結びつき、秘密裏に育てた人材を、サンカの代表として権力の中枢に送り込んでいるのだろうか。民俗学者の赤松啓介は「サンカも殆んど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう」「こうした人たちの正体を調べようなどと、バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界にはウラのオキテがある」と述べた上に「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある」とまで言っている。(民俗境界論序説)

 『マージナル』1号では西垣内堅佑弁護士がサンカと土建・建築業界はつながりが深いと言われることをふまえながら、田中角栄元首相と政商小佐野賢治の協力関係がサンカの秘密組織シノガラと重なると指摘している。矢切止夫も「原日本人の系譜をひくサンカにはシノガラという相互扶助組織があり、その組織の元締たるオーモト(アーモト)様はスイスに存在していた」「アメリカ政府はオーモト様と連携し戦後の日本の政体について、天皇制を廃止し、日系アメリカ人を母体としたオーモト様指揮下のサンカ政権を作ることを計画していた。しかし、占領後、天皇の力が強いことを知ったフリーメーソン(33階位)のマッカーサーは、サンカ政権の約束を反古にし、天皇制を利用してフリーメーソンの影響下にある政権を作り出してしまった」という説を紹介している。また、田中角栄が拘置所から出た時に「ユダヤにやられた」と口にしたという話もあったという。現代日本の裏側でサンカが活躍しているというのだ。

これは、五木寛之の作品『風の王国』ともつながる説だ。サンカは銀行も持っていて、これがサンカ基金を運用しているという噂もある。