アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

何故、山崎製パンKKの運転手がトラックのパンを無料で?

2014年02月18日 | Weblog

 

 山崎製パン株式会社の運転手が、トラックのパンを無料で提供できたのは、

それは、山崎製パン株式会社の車両は、全て白ナンバーか、

又は、直系子会社の株式会社ヤマザキ物流です。

他の、製パン会社の運転手は、下請けの運輸会社ですから、

パンを、輸送するだけですが、山崎製パン株式会社又は株式会社ヤマザキ物流

全て社員が運輸手です。

直属上司の判断で、実行が出来たと思います。

また、今日現在、コンビニ、スーパーで店頭並んでいるパンは、

山崎製パン株式会社以外は、少ないと思います。

山崎製パン株式会社は、業界最大手で、而桁外れの自己資金が有りますので、

番重も、多く持っています。

ですから、明日以降は、コンビニ、スーパー店頭に並べる事が可能です。

また、損益に関係なく、うぐいす餡パンを製造している製パン会社は、

山崎製パン株式会社以外では、ありません。

輙、日本古来の香り風味、色彩、感触を守っている事になります。

 


真説 国定忠治 前回の、奴に対する解釈について

2014年02月11日 | 近世の歴史の裏側

 

先ず、之までの記載及び、今後の記載についてご理解を賜りたい。

 

記載内容に於いて現代の観点から差別的表現が御座いますが、当時の時代的背景及び、

庶民の真実を求めて江戸末期の古文書を其の儘に記載致しましたが、己は差別的表現を

助長する意図は無く原典に忠実に記載して居ります又、特定の個人及び団体を示して

おりませんので、予めご了承戴き今後共、閲覧の程、宜しくお願い申し上げます。

 

 

奴に対する解釈は


一例として、現在では、コトバンクでは、説明していますが、私は前回の奴の解釈は、

拉致及び、自ら同行を意図しないで同行した、女性を指していると解釈しております。


                                  つづく


真説 国定忠治 平成弐拾六午年 其の五 大戸関所の詳細の四

2014年02月09日 | 近世の歴史の裏側

 

 

○ 関所破りと処刑


江戸時代は、暴力または欺まんして関門を通過又は、入門し、あるいは間道より迂回する等は

法の最も禁ずるところであった。

 

 御定書百ケ条には、


 一、関所通り難き類山越等致し候者其所に於いて傑 但し男に誘引され山越致候女は奴

 一、同じく案内致し候者其所に於て傑

 一、同じく忍び通り候者重追放 但し女は奴

 一、口留番所を女をつれ忍び通り候者中追放但し、女は領主へ引き渡すべしと

                                規定されている。


抜け道や集団で強引に関所を通過又は、入門した時は、「関所破り」などと言われ、

捕らえられた場合は関所破りをした場所で傑になっている。

嘉永三年に、国定忠治も処刑された一人である。


   

  大戸村誌によると、大戸関所破りの罪で処刑されたものは八件十一人に、及び、

           傑になったもの四人である。その内訳は下記の通りである。

 

 一、寛永十四年男一人女一人関所破りにつき江戸へ送付の上、大戸村に於たり。

一、同十七年男一人関所破りにつき江戸へ送付の上、大戸村に於いて獄門に相成りたり。

一、同廿年里見村の女一人関所破りにて江戸への送付の上、大戸村に於いて獄門に処せられたり。

一、慶安三年七月森内記家来中間男二人同上付江戸へ送付す。

一、同四年三月溝口金十郎家来中間男二人同上に付江戸へ送付の上、大戸村に於いて獄門に

                                  処せられたり。

一、寛文九年六月久世大和守家来中間男一人同上に付江戸へ送付の上、大戸村に於て傑に

                                     処せられたり。

一、宝水七年八月越後国大崎郡三俣村左平次と申者一人同上に付江戸へ送付江戸にて

                    打首の上、大戸村に於て獄門にかけられたり。

一、嘉永三年十二月博徒国定忠治同上に付江戸へ付、大戸村に於いて傑の刑に処せられる。

 

                                   つづく


真説 国定忠治 平成弐拾六午年 其の四 大戸関所の詳細の参

2014年02月06日 | 近世の歴史の裏側

 

通行規則

 

  関所を通過するためには、各村ならば名主か檀那寺の住職が証明した手形を発行して

貰って持参する。関門は午前六時に開き、午後六時に閉めたが、村人民は特別あつかいを

されていた様である。

 だが、関所の規則は、手きびしいものがあった。

 

一、此関所を通り後輩は当所の前にて、笠頭巾をぬぐべし。

  乗物にて通る面々は、乗物の戸を開くべし 但女乗物は番の輩指図にて女に見せ通すべし事。

 

  関所を通行するときは、何人たりとも関所手形がなければならない。特に女手形には、

発行者の印が押され女が手形を関所に提出すること。関所ではあらかじめ備え付けた印鑑と

引き合わせて、相違ないのを確かめたえで通行をみとめた。その手形の発行は武士ならば、

国許の留守居役、町人、百姓ならば郷村の名主である。 

 

大戸関通行の手形の一例

 

 

        差上申一礼之事

一、此者六人 内前髪壱人 川原湯迄罷越申候、御関所無相違御通被為

  遊可下置候為後日一札依如件

     安中城下谷津町

         名主  喜 兵 衛 

    万延元申年七月十六日

  大戸御関所

     御番衆中様

 

此三人従上州高崎同国草津湯元差出申候、大戸御関所無相違

御通可被下候 以上

   松平右京亮内 田 中 肋 之 進

  弘化四末年三月廿九日

大戸御関所

 

     御番衆中様

 

 

狩宿関所の場合、江戸より、草津川原湯へ入湯の女は、碓氷御関所の書替を以て相通し

申候所の女は、名主親類証文を以て相通す

                          つづく


真説 国定忠治 平成弐拾六午年 其の参 大戸関所の詳細の弐

2014年02月04日 | 近世の歴史の裏側

 

○ 南門       但屋根長一丈六尺   壱ケ所

  同南袖      但屋根長九尺     壱ケ所

  外御門は、内御門の板葺或いは、瓦葺であるのに対して萱葺である。

 御門の扉は二枚で、その大きさは竪八尺七寸、横四尺五寸の格子戸である。縦格子は七挺で長さは、

 八尺七寸、巾三寸、厚さ六分、また横は六挺で長さ四尺五寸、巾三寸五分、厚さ六分である。

○ 高札場

 石垣の上に建つ。文政三年(一八二〇)の修復帳によれば屋根の長さは九尺、高さ三尺五寸、巾壱尺、

 厚さ六分の栗板四三枚の屋根を必要とする板葺であった。

○ 牢屋

  牢屋は間口三間、奥行二間の茅葺きであった。

○ 柵

 享保九年(一七二四)の絵図面によれば番屋の周囲は柵である。しかし延享元年の関所修復帳や

 絵図面によれば柵は北側のみとなり、東側、西側は塀となる。

   これら建物の材料と普請に必要な人足は坂上五ケ村、坂下五ケ村の負担とされていた。

 

  大戸御関所之儀者、大戸村・本宿村・大柏木村・須賀尾村・萩生村・川浦村・岩氷村・三の倉村・

  権田村右拾ヶ村ニテ御用並普請その外御修覆之節者人足並竹木等ニ至差出御路諸々役相勤仕来申候。

 

一、高崎御屋敷より御家老御印鑑さし遣され候。

一、明け六つより暮れ六まで通し、夜分は御門を閉じ一切通申さず候。若急御公用御飛

  脚委細承居申候。

一、農業の女日返り行通は其訳相見申候につき吟味仕り手形これなく通来り申候

                                 下略

 

  

                                                 つづく


真説 国定忠治 平成弐拾六午年 其の参 大戸関所の詳細の壱

2014年02月02日 | 近世の歴史の裏側

 


元和九亥年御上洛之砺、御国安中城主井伊兵部少舗吉戸村御国右之家中、

迎山久兵衛殿数人二面御国被成候。其節拙者先規四人二被仰付(中略)

其以後寛永七午年御間為御見立、  小幡孫次郎様 

塚原治左衛門様御吟味御大戸村に御関所之場所御見立、翌来年御関所御立番人之儀

右を筋目、御吟味之上先規四人二被仰付云々

 

    関所番人 大戸関所の定番は、次の四名である。

        大戸村   一場五郎左衛門

              加部 小右衛門

 

        本宿村   堀口 利右衛門

              萩生村   田中四郎左衛門

○ 関所の構造

 大戸関所は、掘の内川にかかる板橋から北の御門までの敷地内に番屋、内御門、

 外御門、御高札、牢屋、塀、柵の建造物があった。

○ 番屋

 番屋は、間口六間、奥行三間の平屋造りの茅葺で、間取は、入側・面番所・休息所の三

個所に区切られており、三方は板縁である。畳の部屋は、上の間四畳・中の間ハ畳は近江表

縁付、下の間拾畳は琉球表縁なしの畳合二十二畳である。

 関所は寛永八年(一六三一)創設され、明治二年(一八六九)の廃関までの約弐百四拾年間

修復された資料からみると、正徳元年(一七一一)、寛政二年(一七九〇)の二回建替えを

している。また二回の建替のほか、茅葺のため破損が多く、延享二年(一七四五)、宝暦十二年

(一七六二)、安永四年(一七七五)、文政三年(一八二〇)、弘化四年二八四七)、

文久三年(一八六三)の六回の屋根葺替がなされている。屋根坪は四拾弐坪。

○ 門

 大戸宿から橋を渡った(以前)ところの門は内御門、品川に面した北側を外御門という。

内御門は、屋根の長さ二間の板葺であったが、天保十一年(一八四〇)に藤岡瓦千枚を

買い入れて、瓦屋根にした。おそらく当地に大戸村は初めての瓦屋根であった。

  瓦千枚

     此永四貫文  但百枚二付永四百文

     右瓦十五駄  此賃永二貫六百三十二文五分

    是は藤岡町より大戸迄里数十三里

    壱駄二付賃永十三文五分宛之積

 瓦代金は百枚につき四百文であるから、千枚で四貫文、また藤岡町より大戸までの道のり

およそ十三里という遠方と品物が破損するもの割高につき瓦十五駄、ニ貫六三〇文分となる。

瓦屋根にしてみたが西側に山があり、そのために冬期間は特に日照時間が少なく、

その上,川風が吹き上げ寒気厳しく、折角取寄せた瓦が凍割れしてしまう状態になった。

それ故に弘化四年再び板葺に戻ってしまう。

 

                             つづく