アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の七

2015年01月30日 | 近世の歴史の裏側

善応寺を、訪ねて情深墳を確認したので、ご覧下さい。

前回の情深墳の側面の銘文は、私は下記の様に考えておりますので、参考にして下さい。 

以念仏感得   衆皐悉除滅     

 念仏を極めれば、罪障は全て消滅する

 甚深修行者      決定生安養

 尋常ならざる修行者は、極楽往生は決められる

 

                                                           続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の六

2015年01月22日 | 近世の歴史の裏側

その後、お徳は国定忠治の処刑後はどんな行動をとったのか調べてみた。

処刑後の国定忠治の腕を貰い受けた。 そして、情深墳(じしんづか)を建立した、

戒名は「遊道花楽居士」と刻まてている。 また、裏面には「念佛百万遍供養」と刻まれている。

また銘文には  「以念仏感得 衆皐悉除滅 甚深修行者 決定生安養」 情深墳は、

かつては五目牛の菊池家の墓地にあったが、幾多の変遷があり、

現在は伊勢崎市 善応寺「群馬県伊勢崎市曲輪町10-11」に移築されている。

忠治に生前から、お徳は逃亡資金を調達するなど、金銭感覚の鋭い、

いわば上州特有の気質の 持ち主の女であった。忠治刑死後も情深墳を建立するなど、

隠れては、あるが惜し気もなく 財力を使っている。この経済力はどこから来たものなのだろか。

お徳の家産運用と蓄財のしくみを次回からは、探ってみたいと思いますが、その前に

実際の情深墳(じしんづか)訪ねてみたので、次回にその画像を公開したい。

           

                                                                                   続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の五

2015年01月20日 | 近世の歴史の裏側

前回の判決文では、「夫千代松懇意二致候」とあり(子分とは書いてない)忠次郎に、また夫の死後「蜜通」

(妾の表現ではない)し中風に罹った忠次郎の潜伏・逃亡に力を貸し、八州道案内人への見逃方の

賄賂の送り金の才覚をして十両を用立てヽ田部井村名主宇右衛門方へ隠れ療養中には親身になって

看病したというのである。

忠次郎刑死後のお徳の忠次郎に対する思い入れの深さを考えると、悪逆非道の忠次郎の生前の魅力は、

男女間の愛憎を超えてよほど強烈であったと考えられる。

 この点、弟友蔵方に入籍させられ、経済的にも身分的にも忠次郎に隷属した妾のお町とは対照的

である。かつての勢威が衰え、八州廻りに追い詰められ、再起不能となった中風の忠治郎を物心両

面から支える悍婦お徳の面目躍如ある。

 有馬村の農民の娘に生まれ、二十一歳で五目牛村千代松の月雇の奉公人に就職し、

種々の難局を越えて二五歳で正妻になったものの、三一歳のとき夫を失い、三五歳の生涯の

半ばに忠次郎一件に遭遇するという、波乱の連続であった。こうしたお徳の生き様は、

夫病死後の「蜜通」「後宏之身分不情之至」というお上の評価に顕著現れ、

以後の女性観からすれば悪女・毒婦なったのであった。


                                      続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の四

2015年01月19日 | 近世の歴史の裏側

お徳が忠治郎と知り合ったのは弘化三年(一八四六)、夫千代松の病死以後で あったと云われる。

そして、嘉永三年(一八五〇)忠治郎一件に巻込まれ、後世、 巷説忠治伝の名脇役を務めさせられることになった。

幕府による公式のお徳の罪状と、それにともなう判決を見ておこう。

一、とく義無宿忠治郎者品々悪事いたし、風聞不宜段乍弁居、夫千代松懇意二致候ものニ候迚、

  同人病死後忠治郎罷越候を其儘ニいたし置ヽ却而同人任申蜜「まゝ」通およひ度々村方山林等

  圧被連行蜜会いたし候段、後家之身分不情之至、又者忠治郎病気附居候所二差候趣を以

  同人弟同国国定村友蔵等忠治郎を荷ひ参り候を、右友蔵方二罷在候まち差図之由承り、

  同人者忠治郎妾同様ニ成、恩儀受居候身分ニ而看病も不致私方江送越候者不実之仕成方二付、

   早々友蔵方江連参りまち江可引渡旨申聞、忠治郎を差返候後同人義急速全快之程も無覚束、

  右躰之節御逃召捕御手配有之候而者可避様無之、御探索方御見逃貰度旨忠治郎申聞候由を以、

  御取締御出役道御案内之もの江送り金才覚之義国定村清五郎ゟ談受候節如何之義与乍存、

  及断供ハヽ不実之筋二可相成与金手貸渡、忠治郎義田部井村宇右衛門方ニおゐて養生いたし

  居候節も罷越看病等いたし遣候始末不埓二付押込被仰付候                   

                           (「嘉永三成年十二月 無宿忠治郎御裁許写」養寿寺蔵)

                       罪状と、それにともなう判決文の読下しと私の解釈は次回に続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の参

2015年01月17日 | 近世の歴史の裏側

差出人が有馬村名主でなく、親類の、前のお徳の請人中里村名主であるのは不自然である。

四年の奉公中何があったかは不明であるが、妻子のあった千代松の正式の女房に成ったので

あるから、驚悍ぶりには驚かされる。相当の遣り手である事は確かである。

まず五目牛村と菊池千代松家について概述しておきたい。

五目牛村は、村高二四七石九斗三升六合の中規模の村落である。

田方が十二町四反五畝二十歩、畑方が十八町ハ反七畝九歩、田畑比四対六で構成され、

畑方優位の上州村落らしさを有している。

明治四年(一八七一家数六四、平均持反別四反九畝で、

小農の再生産可能の水準規模に適合している。

千代松家は菊池の姓を私称し、平均の三倍強の一町六反一敏二九歩

(畑九反七畝二十四歩・田六反四畝五歩)を

保有して、村内上層に位置する。拡大生産の余力を秘めた経営規模である。

 五目牛村は小給旗本平岡四郎兵衛の知行所、御多分にもれず借財に追われる台所事情のため、

年貢を担保に肩代りしては江戸への送金を行っている。

これも上州村落の治安の悪さの要因の一つである。

領主は完全に村落支配の実権を失っている。

                         続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐

2015年01月15日 | 近世の歴史の裏側

前回の一件は九月に落着したらしく、千代松から名主宛に内済の一札か出された。

 

   差出申一札之事

一、私月雇之女徳義二付、当三月中高井但馬守様御役入御出役被遊候処、各々様方御苦難ニ預

  り候得共此度右一件内済ニ相成り熟談仕候、然上ハ以来右一条二付、双方より御願ケ間鋪義毛

  頭致間敷候、依之御済口一章差出申処如件

当人  千代松

親類  安五郎 

      

天保八酉年

   九月日

   当村

   御名主 菊池勝五郎殿

        御役人衆中

                          (五目牛区有文書)

 

では、実際の両家の田畑は、どの位持っていたのか、

千代松 16反前後  佐兵衛  2反前後

 

お徳は、千代松月雇奉公の一件を彼女一流の強引さで鎮静化させただと考える。

 三年後の天保壱拾壱年(一八四拾)四月お徳は千代松女房に変身する。

みごとな転身であり、計画的所業と見なされる。

このときの送籍は次のようである。

 

   送手形之事

一、此方佐兵衛娘とく当子ノ廿五才、其御村千代松女房ニ同村半次郎仲立ヲ以致縁組差遣申候、

  然上者此方人別帳相除可申候、已来御村方人別御帳面御書加可被成候、為後日送手形差出申

  処仍而如件

                         酒井与右衛門知行所

                            西上州群馬郡中里村

 

  天保拾壱子年四月                      名主 利兵衛

    平岡四郎兵衛様御知行所

     東上州佐位郡五目牛村

         御名主 直右衛門                  (五目牛区有文書)

 

 


                                                                                              つづく


真説 国定忠治 平成二十七未年 其の壱

2015年01月14日 | 近世の歴史の裏側

暫く真説 国定忠治シリーズは休ませて頂きましたが、

今回からは、お徳の生涯について詳細に記載したいと思いますので

宜しくお願い致します。


お徳は、群馬郡有馬村「現、渋川市有馬」百姓佐兵衛の娘で親類中里村

「現、高崎市中里町」利兵衛を請人として天保七年三月から千代松の下の

月雇奉公人となっていた。 ところが、この雇傭について何らかの問題が生じ、

旗本高井但馬守の役人の出役、取り調べが行われ、 村役人から事実に

相違なしとの一札が差し出されたのである。

原因は不明であるが、この時千代松に妻子があり、 家族内のいざこざか、

またお徳の身分、雇傭にかかわることであったのかもしれない。

お徳の実家有島村の佐兵衛は天保五年(一八三四)の

「有馬村五人組帳」(『渋川市史』)によれば、 反別一反四畝二九歩を

保有しいて、村内では下層に属する。

お徳が奉公人となって村外へ出ることは、自然であるが、

しかし苗字は「一倉」を名乗り、親類の利兵衛が名主であり、

由緒ある農家と考えられる。                     つづく