アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

庶民は、いつも税金との闘い

2016年12月30日 | 大正から昭和へ

庶民はいつの世も、税金との闘いですね。

荷車にも税金が掛けられていました。

一台ごとに役所に届けて鑑札を受けていました。

焼印の場合も有りますが。

鑑札外したりや焼印を消すと罪に問われました。


フォードA型 円タク

2013年12月28日 | 大正から昭和へ

 

 円タクの語源は、フォード社が1925年(大正14年)から、

横浜の組立工場で製造した。

 日本製フォードA型で、右ハンドル4ドア車を、タクシーとして使用、東京市内を

一円の均一料金で運行したと言われているが、正確には、東京市内15区

「麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、

 牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区」であった。

現存する、日本製フォードA型は、少なく多くは博物館でしか観られない

今回、米国製フォードA型の極めて保存状態が良い現車を観られた。

特に、スポークは、一切製造当時の状態で之は極めて貴重です。

私自身は、オリジナルと信じている。

また、実際にナンバー付きで走行できる車両は、おそらく国内では1桁でしょう。

今回の画像の車は、亀井自動車でレストアの後、ナンバーを取得販売予定です。

余談ですが、当時の購入価格は、米換算では、現在の8,000万円前後ですが

所有台数の人口比では、現在の個人所有ヘリコプター位で極めて僅かの方のみが

所有する事しか出来ませんでした。


上州 八木節はいつ、何所から? 最終回

2013年08月15日 | 大正から昭和へ

 


 昔は「やんれい節」などと呼ばれた、口説きの刷り物などをときどき見ることがある。

それは簡単な四・五枚綴りの小さいもので、はなはだ粗末なもののために、

今日の人はほとんど注意しないが、上州にはこのような刷り物が

たくさん伝えられており、それがたちまち新作物として、

盆踊りなどに唄いつがれたわけで、忠次物は別として、大体は心中物などの、

哀れな物語りをつづった物が多い。刷り物は江戸で作られるものが多いが、

そのため上州方面の物語りは、本当とウソの混じりで、忠次くどきにしても、

史実に合うところは少しもなく、江戸の机の上のいいかげんな作り話であるが、

面白いことには間違いない。

本来口説きは我が身の哀れをなげいたのがはじまりで、

いま調子のよい八木節盛行のとき、

まだ木崎節や赤わん節という口説きは、今日もうたい継がれていて、

拍子抜けのした唄い方はまだ無くなっていない。古くからうたい継がれたものを、

大事にしようという立派な人が、まだひそかに郷土芸能伝承として行なっているが、

この古い口説きは、さらに後世に伝えたいものである。

口説きから八木節へ、それは昔から三百五十年の歴史があるからである。

 

 

追記

今回、盆踊りの季節でもあり、あえて八木節発祥の地について、記載させて頂いた。

約半年間、のべ30人ほどの方々に直接会い、一つ一つ検証して

数冊の八木節に関する著書も参考に纏めてみたが、今回の記載内容が、

墓石、関係者方々の話を総合してみて私の今回の記載は真実に近い

八木節の発祥の地を、実証できたと思います。

また、初代堀込源太のその後については、諸説があり史実に合う、

検証が出来ませんので、今回で最終といたします。

今まで、八木節の発祥について諸説があり民謡、郷土史研究家の

諸先生が異なる見解を述べておられますが、私のこの記載内容で、

その終止符が打たれれる事を、切に望みます。

そして、現在も日夜、八木節に打ち込まれて精進されている方々の

増々のご発展を心より望むものであります。

今回の、この記載内容についてコメントが御座いましたら遠慮なく

コメントを頂ければ幸いです。

                        完結


上州 八木節はいつ、何所から? 其の4

2013年08月14日 | 大正から昭和へ

 

それは明始末年ごろからであった。この堀込村の源太節は隣りが、

八木宿だったので、大正三年日本蓄音機商会でレコーディングされる際

「八木節」と名称を変えて盛行した。

源太は堀込村の人で、世に堀込源太と呼ばれたが、

本姓は渡辺である。

 源太一座はしきりに境町方面に興行にきていた。

百姓家をかりて簡単な寸劇と、八木節をうたい歩いたが、

木戸銭は二銭、三銭だったといわれ、

節まわしの良さで評判はよかった。

そのため何とか源太一座はやってゆけたらしい。

もともと源太は、いわゆる粋な男で、源太一座の髪床師で一緒に興行して

あるいた、桜井さんという老婆の話には、とても男前のいい芸人肌だったので、

どこへ行っても女がつきまとったそうである。

 

 やがてこの一座は日本中の評判になって、

八木節は全国的に広まることになる。

堀込源太のあと、二代目、三代目の源太があらわれて、

いわゆる芸能プロとして、興行したわけである。

八木節はますます盛んになったが、その八木節の発祥は境町在中島村である。

その囃子方も中島村人によって創意工夫され、ここで十年間ほどうたわれた

「源太節」がもとになったわけで八木節は上州に生まれたのであるが、

八木節の名称によって、発祥の地がわからなくなってしまったのである。

その元流は口説き節で、元禄のころからの遺物である。

 源太一座は戦争中まであったが、源太の死「昭和18128日死去。72歳」に

よって解散したが、その間大正五年には東京浅草に進出し

「国定忠治」などの物語を節にのせて威勢よく唄う。

これが八木節として全国にひろまった。

そして戦後になり、源太とともに歩いていた中島村の連中も、

みな村に帰ってきたが、いずれも笛吹きの名人などである。

いずれも明治末年ごろから、源太とともにしきりに口説きを唄い歩いた

人たちで、口説きから八木節への移り変わりをよく知る人だったので、

この人たちから八木節の生まれを尋ねたわけで、

天下に広く伝えられた八木節が、

中島村に発祥したことを聞いたのである。

そしてその母体は口説きだったのである。

 今日、八木節というと、ただでかい声をあげて威勢よくうたうのが多い。

バンセイ(蛮声)とでもいうのであろうが、源太の直弟子に、

島村の橋本悦さんが、昭和40年代まで健在で、この橋本さんの八本節は、

どなり立てるものではなく、

静かに、しかも非常に抑揚のある曲調で、落ちついて間くと、

本当にほれぼれとする感じで、これも芸だなという思いがする。

これが源大の本当の唄い方だったわけである。

                                つづく


ここで、逸話がある、旧佐波郡境町島村字北向の橋本悦さんのご先祖は、

元は越後生まれの方で大工として島村に移り住んだ、悦さんには、

お子さんが10人ほどおられて、その御一人の息子さんが私の高校時代の

同窓生で、その彼から聞いた話では、一時 源太師匠が弟子の橋本悦さんの

敷地に内に住んでおられて、

本妻さんと、木崎の飯盛女と同居していたが、何時も内輪喧嘩が絶えず、

橋本悦さんが、困り果てたとのことでした。

なを、橋本悦さんは、昭和30年代にNHKのど自慢に出場されたが、

何時も、鐘が 二つだったが、島村舟唄の最後の伝承者であったことは、

知られていない、その舟唄がどんな唄かも今は判らないので残念です。

なを、旧佐波郡境町中島の柿沼さんは、NHKのど自慢で優勝されている。


橋本悦さんは、現在は、伊勢崎市境島村通称北向で、静かに眠られ

今日は、お盆で現在の当主の御孫さんお宅で、八木節や島村舟唄を

当時を偲んで口ずさんで 居られる事と思います。