アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

信州への旅 其の1

2015年05月31日 | Weblog

 

久し振りに、信州への旅に行きました。

松本は、私の名付の親が居りましたので、もう50年ほど前からの

懐かしい街です。

まず、早朝に近くのICからスタートしました。

最初に、横川SAで休憩

 

それから、次は東部湯の丸で休憩後、一般道に下りて254号で三才山トンネルで松本市に向かいました。

松本城の管理事務所の「研究専門員」方とお会いした後、近くの蕎麦屋で昼食を致しました。

群馬県と違い、箸も粋な品でやはり文化、伝統の違いが解かりました。

もり蕎麦を、注文しましたがその前の、一品が上品で

蕎麦はやはり信州は一番で、味も香りも喉越しも最高!

ご主人も、気さくな方で三〇分ほど、地元の事を教えて頂き感謝です。

食事後、近くを散策まず明治一三年創建の四柱神社を参拝後

縄手通りを、散策骨董店のご主人と一時間ほど骨董品と世間話

この店です。

こんな、懐かしい店も有りました。

縄手通りは、こんな感じ

これもそうです。


その後、また四柱神社に、戻り

参拝

その後、あがたの森公園へ移動して、学芸員の方からお伝授して戴き

第五十二回 あがた美術会展に立ち寄り偶々作品「赤城山」が有りました。

 

                             続く


上野国伊勢崎藩と、米沢藩の関係 其の六

2015年05月26日 | 近世の歴史の裏側

ああ公の鴻業偉績万世といえども滅せずして遺愛のかくあるは、朝誦暮歌久しくして

弥新たなり。

 是に於いて市民相謀り碑を故城の址に建て以て追慕の誠を表わさんと来りて文を

予に謁む。金不才にして公の盛徳の万分の一も褒揚する能わず。

唯公と交り素あるを以て誼辞すべからず、いささか公の履歴についてその顛末を救す。

 

   明治二十四年九月                

                                     勝 安 房 撰

                                           つづく


  

 


上野国伊勢崎藩と、米沢藩の関係 其の五

2015年05月25日 | 近世の歴史の裏側


公断じて疑わず、在藩の日、幕府を奉じ、士民を撫するを以て己の任となす。

おもえらく幕府を奉ずるは即ち天朝を奉ずるゆえんなり。辺海多事、朝幕不協の際に当り

鞠躬朝廷に畫力す。ついにその忠を諒とし、天下皆其の義を称す。

他に一誠の格す所なき也。公学術を重んじ、暇には即ち国枝に到り、儒臣に経を講ずるを命じ

専ら実学を主とす。傍ら詩及び国歌を善くす。武技に於いてはあまねく通ぜざるはなく、

尤も騎法及び剣術・銃術に精し、常々剛強を以て華族をひきい、撃剣を学習院子弟に教授す、

天子吹上禁宛に競馬を観る。特に公に命じて旧式を用う。公くつわをとり絶駆し

衆よく及ぶものなし。時に年六十をこゆ。其の健かくの如し、性は至孝、晶寿夫人に仕え

少より老に至るも色養衰えず疾病には躬ら湯薬を進じ衣帯を解かず、

既に葬るも毎晨墓を拜し風雨を以ても廃せず、事叡聞に達し面褒嘉し物を賜う、

旧藩士族禄を夫い自ら存する能わざるを憂え製糸場を館山に設け、

大いに産業を興し以て生活に資す、

                                                                                     

                                                                続く


ズボラ菜園は、現在は順調です、お蔭様で

2015年05月24日 | 家庭菜園

今のところ、ズボラ菜園は、順調です。

茄子も.順調に生育しています。

勿論、ズボラですから無農薬

キュウリも、勿論、ズボラですから無農薬

ネギも順調、勿論、ズボラですから無農薬

玉ねぎは、収穫開始致しました。

これで、夏は野菜は、全て自給できそうです。

                    自然の恵みにアリガトウ、来てください暇の方は


上野国伊勢崎藩と、米沢藩の関係 其の四

2015年05月23日 | 近世の歴史の裏側

寿筳を開き大いに賓客を招く、親王大臣公侯爵より親族旧藩士等に至る饗燕四月亘驩を

盡して罷む。五月十九日公晨に大森射的に赴き俄かに手指の麻輝を覚え、左右扶接

して帰る。翌日寅の刻薨ず、越えて五日白銀興禅寺に葬る。遺命により神式を用う、

元山内氏土佐守豊資の女を配す。継いで松平氏、鈴木氏を娶る。長子茂憲嗣ぎ元老院

議官となる。次に男女若干人なり。公人となり英亘毅、難に臨み動かず、人を知り能く

任す、容貌は厳正にて語言は寡(黙)なり、夙に心を海防に畫し時勢を洞察し諸藩に

先んじて砲煩を鋳(造)す更に軍政を革め、専ら洋式繰練を行う。衆謗りて泪碍す。


                                              つづく


上野国伊勢崎藩と、米沢藩の関係 其の参

2015年05月22日 | 近世の歴史の裏側

未だ幾ばくならずして京師騒擾九門戒厳公に鎮撫を命ず、公兵をひきい闕におもむき措置宜しきを

得て即平らぐ、賞して絹及び御扇、金万両を賜い左近衛中将に累進す尋いで請暇し江戸に到る。

将軍公を待すること極めて渥く親佩刀を解き之を賜う、日く「方に今諸藩郷に非ざれば依頼に

足るなし」と。明年従四位の上に敍す。時に西南鉅藩漸く異図を懐き会同の期を践まず。

幕府公を樓き援となさんと欲す。公時勢なすべからざるを知りしばしば老を、幕府に請うも

許さず仍って屋代郷三万七千余石の封を益す。

既にして将軍大阪に薨ず天子亦諒間天下の形成愈々急なり。

将軍慶喜閫職を辞し大阪に在り諸藩に概を伝え兵を徴す。


明治元年正月師を帥いて米沢を発す。初め朝廷幕府共に公を召す。

公諸臣と議し先ず大阪に在り将軍に(拝)謁し而るのち上京す。

境を出るに及び上国の変を聞き乃ち還る。

王師東下し伊達慶邦に命じて松平容保を討たしむ。公のため応援す、

公仙台に抵り慶邦とともに鎮撫総督九条道孝と岩沼に(会)見し、

容保のために哀を請うも許さず尋いで公亦王師に抗せしを以て官位を停む。

詔あり公を東京に召す。公身を以て奥羽越諸藩の罪に代わるを請う。

時に朝廷公に退老を命じ四万石を削地す。世子封を嗣ぐ、仍って公に命じ藩務を視さしむ、

禄制を定め学校を興し規面する所あり。

藩廃するに及び、東京に移住す。十四年車駕奥羽に巡(幸)す、

公馳して米沢に赴むき天子を奉迎す。製糸場に臨幸し、公を召して慰労す。

公伝家の武器を行在所に陳列し覧に供す。依って先世伝うる所の守家、国宗の二刀を献ず。

還幸に及び菊章鋼花瓶二銀盃三を賜う。

二十二年特に従三位に敍す。公おもえらく祖宗以来三位に陞るは唯覚上公あるのみ、

今予此の隆寵を荷うは家門の栄えというべし。此の年公寿七十。

 

                             つづく

 


上野国伊勢崎藩と、米沢藩の関係 其の弐

2015年05月19日 | 近世の歴史の裏側

 上杉斉憲の顕彰碑の裏面の碑文です。

 

下の画像は、上部分の拡大です。

 

下の画像は、中部分の拡大です。

とても、長い漢文と、漢詩ですので、数回に分けて読み下しを致しますが、

現在では、使用されていない文字が有りますので、一部は現在の文字に

変更しておりますので、ご了承下さい。

 

 

 

 公の諒は斉憲磯山と号す。上杉氏世々米沢藩主たり。考の諱は斉定従四位下左少将。

妣は畠山氏。文政三年五月十七日米沢城に生れる。後江戸にうつる。年十七首服を加え

従四位下に敍し侍従に任ず。天保十年四月襲封し、弾正大弼(ひつ)と称す。初め封に就き節倹を

崇び奢侈を戒むを申令、士風を振嶋し老窮を賑恤(じゅつ)す。安政三年左近衛少将に任ず。

幕府しばしば政治の優異を褒し、時服鞍鎧等を賜う。是に先だち米艦浦賀に来り海内騒然たり。

公首大砲を鋳、兵馬操練一に泰西の法に倣い弓槍を廃し代えるに砲銃を以てす。

文久三年徳川将平家茂京師に朝す。公をして先発入京せしむ、会 攘夷の詔出され公武の間

互いに得央を持す。公深く之を憂い斡旋甚だ力む。朝廷勅して京師の警護を倚頼す。

一日公に詔し禁宛内に於いて銃隊を繰練するを天子日崒門に御し之を覧ず、公は馬上部を

指揮し陳べて斉しく銃砲を整え雷発す、上大いに嘉奨す、此の時にあたり将に大和に

行幸せんとし、公を召し詔して可否を諮る、公之を諌止す。

 

                                    つづく

 

 


上野国伊勢崎藩と、米沢藩の関係 其の壱

2015年05月17日 | 近世の歴史の裏側

米沢藩第壱拾弐代藩主

      上杉斉憲の顕彰碑

 

「曦山」は、上杉斉憲の号です。

斉憲は、天保壱拾年(壱千八百参拾九)に弐拾歳で第壱弐代米沢藩主となりました。

幕末の動乱期には将軍家茂に従って上洛して、京都警備賜って米沢藩は壱拾八万石となりました。

ところが、戊辰戦争では、会津藩との深い縁などから新政府軍と敵対する側となり官位は停止、

降伏後の処分で隠居と四万石の召上げか命じられました。

明治維新後、旧米沢藩士たちが中心となって、卓越した旧藩主の汚名を雪ぐ活動が行われ、

明治壱拾参年には、従四位に復帰を果たしました。

更に明治弐拾年に正四位、明治弐拾弐年四月に従三位に昇進しました。

斉憲は、従三位昇進間もない5月弐拾日に死去、享年七拾歳でした。

そして明治弐拾四年、旧藩士たちによって、斉憲の遺徳をしのぶ巨碑か米沢城本丸跡に、

建立されたのです。

一流の 学者・書家・石工の名が、 正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた。

有栖川宮熾仁親王の筆です。

裏の斉憲の経歴は勝安房(海舟)、明治の三書家として名高い金井之恭が書し、江戸の名石工、

宮亀年が、刻んでいます。また清国公使の李経方が、斉憲の功績を讃えた銘(四言の韻文)も

添えられるなど、当代きっての名士・名工の名が見られます。

 但し、経歴は実質的には旧米沢藩士で昇進運動の中心となった宮島誠一郎が起草したことが知られています。

巨石は横川から市民の協力で運搬石碑は高さ約3050㎝、幅約1630㎝、厚さ98㎝で、

土台の石だけでも高さ約1600㎝と、とても大きなものです。

中でも碑文を刻む棹石は、東李山の横川(大平集落の奥)で見つかった巨石で、

予算書には総予算四千円のうち、棹石運送料が千円計上されています。

この巨石を山奥から運び出すのは難航したようで、南原住民のお手伝い、米沢中学や興譲学校の生徒の応援など、市民の協力を得てようやく運搬されました。(市立米沢図書館蔵・竹俣文書)。

 

今回の、引用文献、参考文献は、「広報よねざわ」2015年5月1日号

 

なを、画像及び石碑の読下しは次回以降に致します。

 


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾九

2015年05月12日 | 近世の歴史の裏側

私の不行届の為、貴方に迚心配を掛けました。こうなったのも前世の宿縁と互いに納得して別れるからは、

以後誰のお世話になろうが、心配の筋は毛頭ありません。

 三右衛門の決断の早さと、これを受け入れる他の冷淡さに驚かされる。

玉村宿出店という他の利害で結びついた「後見」という男女の関係は解消された。

しかも文書を介してである。一見私的な男女関係が、文書によって「契約」という公の意味を帯びて来る。

                                                                                                                続く


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾八

2015年05月11日 | 近世の歴史の裏側

四月十一日

北風(かっら風)ツヨク吹

 おとく江一札遺ス、左之通

   一札之事

一我等不行届故、其許ニモ別而心配相懸ケ何事も前世之宿縁と互ニ及示談ニ相分候上は、

向後誰人之世話ニ相成候とも、故障之筋毛頭無御座候、巳上

        福島村

嘉永五子年四月十一日 三右衛門

     五目牛村

       お徳殿

                      続く