アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

赤城の山に、雪が降る

2013年11月30日 | Weblog

 今日は、赤城の山に、雪が見えた。

初冬の訪れは、静かに澄んだ空気の中で、

赤城の山は、

心を清らかにしてくれる。

自然とは、こんな安らぎをも与えてくれる。

与謝野晶子は、

雲のぼる西の方かな雨上がり赤城平は百合白うして

冬きたる大き赤城の山腹の雪はおひおとす木がらしの風

                  『常夏』明治四十一年七月より

 

其れも、もう無理かもしれない、人間自ら犯した罪の為

からすとて 大空舞うは 生きる為

 

 


真説 国定忠治 其の五拾九 忠治処刑の詳細の壱拾

2013年11月30日 | 近世の歴史の裏側

 

 前回の内容は高崎から大戸への忠治護送の行列の順序である。

先頭に棒(六尺棒)を持ち、刀をさした者が二列に並び、

その次ぎに道案内として地元の三の倉村と大戸村惣右衛門がゆき、

続いて沿道の小頭役が続き、次ぎに関八州取締出役、その家来が

続き、処刑の支配役車善七の手下が続いた。その次ぎが、

忠治を所罰することを高札に認めて一般に公示する捨札がゆき、

手伝人足のあとに囚人すなわち忠治の龍が続いている。

最後に岩鼻代官の手代がゆき、手代のあとに下級の武士などが

数知れないほど従っている。

万一途中において、忠治を奪還する者かあるかも知れないので、

警護十分の備えで、あったことがわかる。

                     続く


真説 国定忠治 其の五拾八 忠治処刑の詳細の九

2013年11月29日 | 近世の歴史の裏側

 


 惣右衛門の手記には、別に半紙二つ折りで表紙共十枚の記録で、

表書に、寛永三年十二月廿一日「 御仕置ニ付御出役扣」とある。

忠治を江戸から大戸に送る際の道中の行列順から記載されている。

御場所迄行列之次第

 捧持帯刀一人 三ノ倉村源肋

              板鼻宿 助 蔵 帯刀 

 先

              同 宿 半三郎 帯刀

捧持帯刀一人 大戸村惣右衛門

 

高崎戸左衛門帯刀    箕輪喜左衛門帯刀

長岡久兵衛帯刀     磯部三右衛門帯

 

東上芝 三十郎              帯刀壱人      

        高崎 味右衛門 帯刀 

        草津 三右衛門 帯刀

西上芝 滝右衛門             帯刀壱人 

        帯刀壱人       同断

御出役           共方

    藤次郎            同断 宰領善七方

御出役           共方

        帯刀壱人       同断

捨  槍持帯刀 手替壱人 棒持壱拾五人  帯刀壱人

  手伝人足 囚人

札  槍持帯刀 手替壱人 棒持壱拾五人  帯刀壱人

          手替壱人     村人足数多略之

 帯刀壱人     手替壱人 先払ひ 御代官様手代

          手替壱人    諸人足数多故略之

小者御供廻不数知、略之

               続く

以上の説明については、次回に致します、。

 


聖護院大根の、初収穫です。

2013年11月28日 | 家庭菜園

 

頭も弱く、歯も弱い小父さんには、

聖護院大根は、軟らかく風味豊かで

お腹まで、ホカホカになり大好きです。

少し遅れた播種でしたが、立派に生育してくれました。

感謝して、今夜戴きました。


真説 国定忠治 其の五拾七 忠治処刑の詳細の八

2013年11月28日 | 近世の歴史の裏側

  

 

御罪日廿一目早朝、相揃御裁許場所え参る。

次第、右は源助左の方惣右衛門、先払ひ入口固メ

御代官御手代御御出の節は土下座ニテ相勤る。

右源助惣右衛門両人ニて左右ニ立入口の角々相詰め、

棒を筋違に突て裁許相済迄左右方二突ている。

 

 地元の源助と惣右衛門の二人は、刑場の人目の警護役で、

六尺棒を両人で×宇に立てて不審の者は入れなかった。

代官手代が入場する時は土下座したとある。

           

                 続く


真説 国定忠治 其の五拾六 忠治処刑の詳細の七

2013年11月27日 | 近世の歴史の裏側

 

 

 右帯刀壱拾人、組合棒人三十人は、十九日晩いしづ泊り

ニて参る。廿日朝四ツ時不残祖語ル。集る人数大かた百七拾人

人程集まる。居処なくして、御役元様へ御頼申上、上宿与五

兵衛様宅を借請、帯刀人四十人程遣しおく。跡人足は御罪

場へ三十人程遣し置。跡人跡は弐軒へ入置、其時の料理人は

下組の小屋しらいわ料理方はしんにて致ス。あとはかね原小屋、

中室田小屋此者共ニていたす。食焚は組合の者いたす。

処刑の役にあたる弾左衛門、善七の関係者は、帯刀十人、棒付

三十人が十二月十九日の夜いしづ泊りで到着し、二十日朝は

それぞれ部署についた。総計百七十人も集まり、

居るところがなく、村役人に話して大戸上宿の与五兵衛の家に

帯刀者を四十人ほどやり、あとは刑場などへやった。

食事のことまで記してある。こうして、いよいよ刑の執行当日となった。


                        続く


真説 国定忠治 其の五拾五 忠治処刑の詳細の六

2013年11月26日 | 近世の歴史の裏側

 

 組合の者人足追々被参、同十九日より御場所小屋懸始る。

是は小屋掛は善七(註、車善七)鑓付の者致ス。組合当番

小頭手伝致ス。杉丸太五十本の義は廻りめ郷山ニて御役元

ニて貰ひ伐る。本は唐松ニて致す。御罪場入用の品々、莚は

大谷沢ニて買取る。尤組合人足ニテ引取る。篝火の木は

槙ニて稲田良作様ニて才蔵買取るる。山刀の儀は同稲田嘉兵

衛様より買とる。鋸は天狗平伝次郎様よりかひとる。右の

品は才蔵方ニて買求める。尤小頭下知ニていたす。

是は小屋人足ニて御罪場へ参り、材木、鋤、鍬、銃把(註、熊手)

竹九拾本、是は三ノ倉ニて出来いたす。十九日組合人足ニて参る。

十九日晩御地方より四ッ時御役元様より浅草出役様へ、酒剣菱五升、

雉子二羽、同善七出役の方へも剣菱五升、雉子二羽くださる。

 

 刑場工事の経過を説明しているのがこのくだりであるが、

諸材料を近くで集めたことが詳しく記されている。十二月十九日

より小屋掛けが始まり、唐松の丸太、ムシロ、カガリ火の槇(まき)、

山刀、鋸、竹というように品々を集めてつくった。刑場のことに

当る弥左衛門と車善七の処刑役へは、十九日の夜に名酒剣菱五升と、

キジニ羽、が村役人から贈られた。

 

                    続く


真説 国定忠治 其の五拾四 忠治処刑の詳細の五

2013年11月25日 | 近世の歴史の裏側

  前回の記載は、処刑に立会い、あるいは支配するために大戸に

向う御出役(註、関東取締出没のこと)の日程がまず記されている。

十二月十四日高崎泊、十五日板鼻泊、十六日は草津街道に入り

三ノ倉泊。この三ノ倉から、獄多小頭の手紙が十六日夜十時大戸に届き、

それによると十七日の昼食から大戸の宿で出すことが認めてあった。

早速に買物に使を出して待つうち、十七日に到着した。

惣右衛門が才蔵を供にし、羽織を着て脇差をさして大沢の

土橋の所まで出迎えた。

岩鼻代官林部善太左衛門手代安木波平(別書には秋汲平)、

浅草の頭も到着し処刑場を検分した。八州取締出役から

代官手代の宿に案内せよというので、加部安左衛門の書院に

案内した。また頭の出没が大戸の関所へ参るというので

案内し手代は才蔵方へ案内した。こうして立会いの役人は全て

宿に落着いた。其れから処刑場各所の設備に取り係った。

 

                   続く


真説 国定忠治 其の五拾参 忠治処刑の詳細の四

2013年11月24日 | 近世の歴史の裏側

 

 組下小屋の者追々跡より参り、百姓人足相交わりて場所を拵へ、

場所の義も百姓人足にて出来上り、其故下小屋の者内々掃除等相頼、

とあり、村民の出勤をもって刑場はできあがり、人足は掃除などを

する余裕ぶりであった。

                      

 御役所より御出役様御発足有之、御止宿の儀は、十四日高崎御泊、

十五日板鼻御止宿、十六目三ノ倉御泊。三ノ倉より小頭先状、

十六日晩四ツ時(註、午後十時)組合の者三人に為持参る状通の趣は、

十七日の御昼食より御止宿の趣、左様用意可致旨被申遣る。

依て人足相頼、入用品々買物等に出ス。十七日出役様御出。

御迎の義は才蔵引巡、羽織、脇差ニて大沢土橋前辺へ罷出申候処、

御出役様並ニ板鼻小頭弐人同道ニて参る。其より道々いたし、

三ノ倉御止宿ニて林部善太左衛門様御手代安木波平様其先へ御被遊、

右御場所へ御出の趣被遊候処、罷越、浅草出没様、御代官御手代様と

御見分有之、場所より同道いたし、御出役様方より御代官御手代

様御止宿御案内可仕旨被仰聞、加部安左衛門様書院え御案内いたす。

其より先へ参り、御関所見浅草御出役様参る由ニて御届ケ申上候由。

其より内え御案内致す。善七手代の儀は才蔵方へ案内致ス。

いよゝ是より御止宿二相成。


今までの記載内容から実に緻密に予定を組み、時刻、場所を

詳細に記載してあり、単なる伝聞による是までの

国定忠治の処刑に至るまでの経過が実に曖昧な表現であったかが

証明される。


  の幹部であった惣右衛門が、羽織、脇差で出迎えていた事は、

帯刀を許されており、羽織を着る地位にあった事は、当時では、

村の名主以上の地位に有ったのである。

又、日記の記載内容及び筆跡から推測すると、読み書きが堪能で

なを且つ教養、学識を持合わせた方で当時では、1%にも満たない

人物で有った事は、事実です。


なを、改めてお手数ですが、其の参拾四を再度ご覧下されば、

私が表題に真説を用いた理由がお判り頂けると思います。

                     続く


オリンパス(株)

2013年11月23日 | Weblog


 オリンパス(株)の株価が昨日は、3,400円になった。

私は、以前7月に、オリンパス(株) について記載した。

当時、3,000円前後で推移していたが、8月に、2,800円まで

下落したが、今月に入り右上がりに上昇している。

私などは、素人で底で買えず天で売れずが、当たり前なので

昨日、3,380円で10単位ほど売って於いた

10%ほど差益が出たが、銀行利子では、4か月で10%の

利子は附かないので、小遣いになった。

逆に以前このブログで掲載した(株)ヤマダ電機  は、7月430円が、

昨日は330円程度で既に、5月に予測していたが、世の中は常に

変動しているから、其れに伴う方法を、自ら考え実行し且、

而国家は保証しない事は顕で、

今後、我が国では年金だけでの生活は明かに難しいので、

自己責任で其れを補う事になる。

日本銀行券は当てに為らないし、不動産も長期的には下落傾向で

況してや銀行利子では、ATMの手数料で相殺されるから、

自らの生活資金は確保しなければ現在の生活を維持する事が出来ないので、

其れを、自ら補う必要があると思うのは、私だけでしょうか?

私の住まいの近くの高齢者住宅に移るとすると、先ず自らの住まい及び家具、

衣類その他に処分に多額の費用が必要になりますが、全て自己負担が必要です。

おそらく最低で数百万は、現在の相場で必要で、固定資産を売却しての

残高は、都内の高級住宅にお住まいの方で土地面積が200㎡以外の方は、

殆ど残りませんし、処分後、高齢者住宅に毎月15万円を支払いを必要で、

単純に、ご夫婦で入居されると、30×12=360万円になりますし、

その費用は、上がる事は有っても下がる事は有りません。

それ以外に、おやつ、医療、外出、親戚その他の冠婚葬祭の金額を加えると

年間最低400万円になりますが、この記載を閲覧の方で年金を

400万円に届く方は少ないと思いますが、仮に5000万円の

貯蓄が有っても、平均余命から計算すれば明らかに不足します。

高齢者住宅入居後、老人ホームには、一人で年間300万円必要で

今後、国家の財政は悪化に成る事は明かで、自己負担の増加は覚悟すると

さらに、老後を過ごす金額負担は増加致しますので、10年後には現在の、

金額で、年間500万円は、必要となり其れを、お子さんに負担を期待する事は

残念ですが出来ないと思います。