有る、サンカの生涯
昭和四十四年十一月十三日、
埼玉県坂戸市島田一〇四番地の農家の物置きで一人の男が病死した。
男は久保田辰三郎の通称で周囲の人びとに知られていた。ずっとのちに建てられた墓石にも
そのように刻まれているし、子供たちもそれが父親の名前であったと話している。
しかし、男が無縁墓地に土葬された同県東松山市高坂の賛詞宗高済寺の過去帳には「俗名堀口
伊太郎、姶(長男の名前)父、箕修理業、昭和四十四年十一月十三日午前零時五分死亡、明治二
十五年七月十五日生まれ、七十七歳、住所埼玉県入間郡板戸町紺屋、本籍栃木県足利郡御喰屋町
島田」と記されている。
右の名前や生年などを当時の同寺住職に、だれが伝えたのか確かめることができない。家族で
なかったことは、はっきりしている。死者は、この数年前まで農家のすぐ先を流れる越追川の河
原に、篠竹や茅を九耳いた粗末な小屋を作って住んでいた。そこへ「戸口調査」にやってきた警察
官に、本人が答えたことが過去帳の記載となって残った可能性が強いように思われる。
とにかく男が生前 少なくとも二つの名前を用いたことかあったことは間違いない どちらが
本名か、あるいは両方とも偽名で本当の名前は別にあるのか この問いには男自身も答えられな
かつたろう。男は生涯を通じてずっと無籍であり もともと本名などというものはなかつたから
である、もちろん家族や仲間のあいだでの呼び名はあった それは例えば「イタ」とか「タツ」
といった、ごく短い音節の通称ともいえない様なものだろう、姓もなければ 呼び名にしても、
どんな漢字を書くということもなかった 文字能力を全く矢いていたので 漢字うんぬん
など男にとってどうでもよいことであった。 それでは、以後の記述上不便なので「久保田長三郎」を
男の姓名として話を進めて行きたい。
長三郎が無籍であつたとするなら なぜ過去帳に本籍が記されたのだろうか?
栃木県足利郡御喰屋町は正しくは御厨町島田(現足利市高田町)だがおそらく戸口調査の際、
警察官にしつこく問い詰められ 苦しまぎれに かつて住んだことが
あつたか、少なくとも何度か行ったことがある地名を口にしたのでは無かったが、
辰三郎の長男 始は少年のころ一度だけ父親の「実家」を訪ねた事があった。
つづく