アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の六拾六 忠治処刑の詳細の壱七

2013年12月06日 | 近世の歴史の裏側

 

   差上申一札之事

 国定村無宿忠治郎儀、当御関所近辺ニおゐて磔ニヒ抑付、

今廿日(註、寛永三年十二月二十目)大戸村泊り相成候間

村役人差添昼夜警固人足差出、異変無之様心付、村内勿論

村外並裏手迄も繁々見廻り、非常者不及申、囚人え荷担人と

見掛侯ハハ無用捨差可訴上候。警衛等閑有之侯ハハ、可様之

御咎ニも可ヒ仰付候。依之御請証文差上申処如件。

         当御代官所 上州吾妻郡萩生村

嘉永三年十二月         与頭 茂   ハ

                 同断 七郎即兵衛

               本宿村

                 名主 半 四 郎

                 与頭 与五右エ門

               須賀尾村

                 名主 伊 兵 衛

                 年寄 勘左衛門

               大柏木村

                 年寄 弥左府門

                 与頭 治右衛門

               大戸村

                 名主 市郎左衛門

                 与頭  (欠)

前書御仕置当村も大戸組合之故ヲ以警固人足等差出候儀之旨申

上候処、御聞済相成、右ニ付而者前同様可相心得旨ヒ仰渡承知

奉畏候。依之継添御受申上候。已上

            清水領知同国同郡三島村

                 年寄 太右衛門

                 名主 権兵衛

   林部善太左衛門様御手代

        秋 汲 平 様

                    続く