アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の七拾弐 忠治処刑の詳細の弐拾参

2013年12月13日 | 近世の歴史の裏側

 

刑場の見取図が、

故高橋氏の記録にはあるが、下記が其れである。

 

真に今となっては、貴重な此の絵図を基に、高橋敏氏など多くの

方々が、模写及び、想像を加え下記と、同じ様な略図を著書に

記載しているが、故高橋氏の記録が全ての基である事は顕です。

 

図の中央の道路が、現在の権田-大戸ヘの県道である。

「江戸道」とある方向が権田・高埼方面であり、「大戸居村より」

とあるのが、大戸の宿の方向である。江戸道の方が南、大戸道が

北になる。道をはさんで西側の傾斜地の一段高いところ

(現在の地形)に立会の八州取締役人四人が並び、その両側に

鉄胞を持った者が、控えた。道の反対側(現在忠沼地蔵の

建っている地点)に磔柱を建てた刑場とし、そのそばに、

岩鼻代官の手代と手下が検視の役で控えていた。

刑場の周囲には、竹矢来(注)が結ばれ、その中に、

村民が、前回の記載の様に幟を立てて警固にあたっていた。

実際の処刑の状況は記載されていないが、其状況及び、忠治の

身体精神状況、経費負担など其の他は後に記載したいが、

当時の幕府の、政策及び江戸後期の実態が、判明する事が出来る。


(注)【竹矢来】

たけやらい、竹を荒く交差させて作った囲い。

 

                        続く