前回の、疑問の根拠は以前の記載に羽倉簡堂は寛永三年には、
満六十歳を過ぎ要職を離れており
『赤城録』と『劇盗忠二小伝』は、翌年書かれたもので実際に、
大戸村には行ってないので、かつて部下だった、関東御取締出役の、
中山誠一郎などからの、伝聞を綴ったと思われ、
羽倉簡堂の経歴からして、幕府及び後の事を十分考慮した文面が
伺える。
其れは、特に赤城録の鷺歩斉進、霜鍔鰹爾と、鋒右肋出ヅルコト数尺である、
鋒が数尺とは、1m前後が出たことになるしかし、
槍刃は、30㎝前後で、槍全体の長さは、戦国時代は二十尺位は
有ったが、江戸時代は戦いもなく、長くても十二尺前後であり、
鷺歩斉進して出ヅルコト数尺では、矛盾する、如何に処刑を重ねた鑓持でも、
引き抜く事は困難で其れを、一人当り六回繰り返すことは考えられない。
何故なら、骨に当らずに鋒右肋出ヅルコト数尺は極めて困難と
考えるからです。逆に骨に当れば槍は折れるでしょう。
旋剌と記載が有るから鑓持が捩じりながら刺すのでより困難で
有ると思う。
上記の文面は、儒学者としてより難しく表現し羽倉自身の
学識を示そうとした、儒学者の驕りに見えてならない。
続く
追伸
年末を控え、国定忠治シリーズは、冬休みとさせて戴きます。
来春からは、処刑後の事柄を検証してみたいと思います。