アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の七拾七 忠治処刑の矛盾

2013年12月25日 | 近世の歴史の裏側

 


前回の、疑問の根拠は以前の記載に羽倉簡堂は寛永三年には、

満六十歳を過ぎ要職を離れており

『赤城録』と『劇盗忠二小伝』は、翌年書かれたもので実際に、

大戸村には行ってないので、かつて部下だった、関東御取締出役の、

中山誠一郎などからの、伝聞を綴ったと思われ、

羽倉簡堂の経歴からして、幕府及び後の事を十分考慮した文面が

伺える。

其れは、特に赤城録の鷺歩斉進、霜鍔鰹爾と、鋒右肋出ヅルコト数尺である、

鋒が数尺とは、1m前後が出たことになるしかし、

槍刃は、30㎝前後で、槍全体の長さは、戦国時代は二十尺位は

有ったが、江戸時代は戦いもなく、長くても十二尺前後であり、

鷺歩斉進して出ヅルコト数尺では、矛盾する、如何に処刑を重ねた鑓持でも、

引き抜く事は困難で其れを、一人当り六回繰り返すことは考えられない。

何故なら、骨に当らずに鋒右肋出ヅルコト数尺は極めて困難と

考えるからです。逆に骨に当れば槍は折れるでしょう。

旋剌と記載が有るから鑓持が捩じりながら刺すのでより困難で

有ると思う。

上記の文面は、儒学者としてより難しく表現し羽倉自身の

学識を示そうとした、儒学者の驕りに見えてならない。

                  

                   続く


 追伸

年末を控え、国定忠治シリーズは、冬休みとさせて戴きます。

来春からは、処刑後の事柄を検証してみたいと思います。