アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

母から託されたもの

2013年11月03日 | 系譜に(ついて

 

九十歳の頃から、自ら認知の衰えを感じていたらしく寒い弐月だった。

其れは、老いた女性とは迚思えぬ文字で私自身信じられなかったが、

一枚の半紙に、少し傾いていたが眼鏡を好まぬ母が書いたのは事実で

自分の生涯を遺すかの様な如く精魂を傾けたのだろうか、今までの母の

観念を儘覆すか、諌める一句だった。

お前は、最後に生んだ子だからと渡したのだが其時は、迚理解出来なかった。


下記は其写しです。

 

神葬祭の家系に嫁いだのだが、生まれた家が仏教徒で其れに従ったのか、

西とは、浄土を指すのか其れとも、西に沈まんとする夕日を指すのだろうか?

其れとも両方を重ねたのかも知れない。

我は此れを辞世の句と為す。


お彼岸にあたり 墓参り 壱

2013年09月22日 | 系譜に(ついて

 

私の家系一族は、神葬祭なので本来彼岸は仏教徒の習わしですが、

やはり江戸時代は、家系一族は仏教徒でしたが、

昨日、墓参り致しました際に、先祖を確かめて視ました。

権大僧都の墓石が有りましたので間違いなく仏教徒でありました。

 

明治2年に全て神葬祭になりました。

なを、現在確認できる限りでは、孫右衛門「長太郎」が

寛永19年(1640)6月に没しており、「盛林道基居士」

その後は承応4/明暦元年(1655)から天明3(1783)4

次右衛門「初代勝平」正徳院権大僧都居士までが仏教徒でありました。

 

なを、私の祖父勝平は明治生まれで襲名ではなく本名が勝平でした。

 

また、一族で長寿の祖先は与右衛門が天保2(1831)2月に107歳で没しておりますが、

私の父は102歳で帰幽、母は、現在102歳で健在です。

 

 家系一族の喜右衛門「芝侶」俳号「池澄」が、

鈴木廣(こうせん)先生び、栗庵似鳩(りつあんじきゅう)先生の弟子でした。

ある日のこと、先生が池澄小宅を訪問した際に留守で、

             先生に下記の歌を詠んで戴いております。

 

池澄子をたずるぬるに、主人は農に出してあらず、

                   涼をとらんと坐に上りて

 

私の推測では、当日先生はその後、隣の伊与久村の、

忠治引を書かれた、町北荘を、尋ねたと思いますが、

それはロマンですね。


池澄の句では、

元旦や開きそめたる福寿草」などを、残しております。

また、池澄「天保4(1833)11月没」の墓碑銘は、

        嬉しい事に、鈴木広川先生に、撰して戴いております。

                                     つづく

なを、栗庵似鳩先生ほか伊勢崎市の著名な方の詳細は此方をご参考に、