アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

伊勢崎市 勝山神社歴史有る春の例大祭に、参拝致しました。其の1

2017年04月03日 | 名所旧跡

勝山神社は粕川と広瀬川の合流地点から1kmほど北方にあります。500mほど北西には保泉ニュータウンがあります。神社南側の2つの川に囲まれた区域には水田が広がっています。
 勝山神社の起源は和銅年間(708~715)、穂積親王の東征に遡るとのことで、その昔、この地を穂積と言い、天正18年(1590)に保泉村と改め、勝山神社が村社に列せられたとのことです(詳しくは由緒参照)。

私も、先祖からお世話になっているので、少し奉納させて頂きました。

桜も開花していました、少し

有名な、唐金の鳥居ですが、20年前に貴重な鳥居額が盗奉納

微量ですが、奉納させて頂きました。


伊与久 雷電神社創建八百年(群馬県伊勢崎市)          詳細其の弐一之進の算額

2015年05月09日 | 名所旧跡

                 

 今回の一面は、やはり村内館野の人で大谷一之進が明治二十八年に奉納したもので、

算額としては非常に新しいものである。すでに明治初年から洋式数学が行われるようになり、

昔からの和算は次第に廃される時期だったから、恐らく境町の和算家として一之進が最後の人だったかも知れない。 大谷一之進方明、元祖関流十八代相伝と称したが、この算額は一之進の七十七歳の時、子の槌昌芳と孫の鏡司によって掲げられた。すなわち一之進の喜寿の祝としたものであろう。

額面の大きさは横1、7メートル、縦1、5メートルもある立派なもので、客席、後見人、門弟などが二百二十一人の名前が連なっている。

 やはり二つの問題と答があげられているが、問題の第一は、「大円六個と小円三個が互に外接している、大円の直径が一寸のとき小円の直径は何寸か」という問題で、問題の図表が掲げて有り、その答と解き方が示される。

これは文化八年大原利明の著わした「算法真竄(サン、かくれる)指南」の中から取り出した問題である。 問題の第二はいわゆる虫喰算と称するもので、大切な証文の紙が虫に喰われて所々に文字が、

解らないので、そのところを補えというもので、「金一両について銀六十匁に両替する、米の相場は金一両で一石三斗買える、この時金百何両かと、銀十三匁八分で

米を□百□十三石七斗□升□合買った、□の所を補え」というものである。

この問題は額面に「精要算法」から取ったと示してある。精要算法は天明元年に関流の藤田真資が著わした算額書で、この中に一之進の算額にあげた虫喰算がある。


いずれも簡単な問題ばかりであるが、現代の人には残念ながらその文字自体を読み下す事が出来ないのが現実ある。

 


伊与久 雷電神社創建八百年(群馬県伊勢崎市)詳細其の壱

2015年04月07日 | 名所旧跡

雷電神社の算額の一面は文化十四年に村内馬場の大津善右衛門と、明治二十八年やはり村内の大谷一之進が、

幸納したものである。一之進の算額は同社拝殿正面の、向って左にあり、善右衛門の算額初めは神楽殿の西側の

                      軒下にあげてあったが、文字の消滅や紛失を恐れて現在は拝殿内に掛けてある。


 大津善右衛門の伝歴については殆ど解らないので、誰に数学を学んだのか、

また村内でどのような教授をしたか知ることが出来ないが、いずれにしても当時上州で盛んだった関流和算を学んでいる。

             そして数学の師として伊勢崎藩に仕えた。孝経碑文中にある大津正之は善右衛門の長子である

 

 善右衛門が奉額した文化十四年ごろは算学流行の時代で、各地に算額奉納という事が行われた。

神社などに算額を挙げる事は、第一に社前に祈願する意味も当然だが、自分の数学の力量を大勢に示そうと、

した事による。或は宣伝の意味もあったかも知れないが、学問を行う者にとって自分の力を問いたい気持は

                                                       良く判るのである。

 善右衛門奉納の算額は、神楽殿の軒下にあって永年風雨に曝された為、殆ど文字や図表が消えかかっていて

普通には、なかなか読み取り難いが、拓本にして墨を打とようやく判読することが出来る。

風雨によって木地が洗われたが、文字のあった部分が出ているので拓本が取れるわけである。

 この算額には前文に奉納した理由が記されている。

その理由は「夫以数者の一日用不可闕(かける)-」と漢文で認められている。

その漢文を訳すと大体[それ数は六芸の一にしで、日用欠くべからず、ゆえに余、若きより老に至るまで日夜数に

従ってやまず、然れども精神の衰耗して術のたがうを恐る。謹しんでこれを祠前に掲ぐ、以て四万の君子の

                                                    訂正を願うのみ」とある。

したがって善右衛門が晩年に奉納したものであり、最後に諸君子の訂正を頼んでいる。

算額をあげる人が請人に訂正を頼むなど、断り書を付ける事は珍らしいことで、如何にも遜って

慇(いん)懃な善右衛門の人柄が表れている。

さて、この算額には二つの問題と解答が出されているが、和算としてはそれほど難しい問題ではない。

 第一問「今有如図三斜内容全円及大円一個中円二個小円二個

只云全円径三十五寸一分問大円径幾何」

 そして問題文の上に三角線があり、その三角の中に大小六個の丸が図示してある。

丸は全円の特大のほか大中小と四通りの大きさの丸があるが、

問題はつまり特大の全円の直径が、三尺五寸一分であるが、大円の直径はいくらあるかという事である。

 そしてその解き方として余白乗之云々「術日立天元一為大円径以減全円径と記述があるが、

                                      要するにその答えは二尺〇寸○分余ということである。

  第二問はやはり図表があって、「円内に正三角形一個、甲円一個、乙円六個、丙円六個を内接させ、

甲円の直径を 知って丙円の直径を求めよ」、という問題である。


 今日の学生にすればいとも簡単な問題であろうが、当時の読み書きも充分に出来なかった人たちには、

                                         こんな和算の問題も難しかったのである。

 

                                                              つづく

 


伊与久 雷電神社創建八百年(群馬県伊勢崎市)

2015年03月25日 | 名所旧跡

 

順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと、

伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記される神社である。

後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、

戦勝祈願祭を行った。

本日、創建800年でした。


鎮座地:群馬県伊勢崎市境伊与久3581


 

雷電神社古墳


詳細は、後日アップ致します。




 


会津若松鶴ヶ城は、桜の蕾みはかたかった

2013年04月14日 | 名所旧跡

竹馬の友と30年ぶりに、会津若松鶴ヶ城へ興味が有ったのは

鶴ヶ城公園内にある、千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室です。

戊辰戦争後、城下に移築され保存されていましたが、平成2年に元の場所である鶴ヶ城内へ移築復元されたので、

 

 

平成23年春には幕末時代の瓦(赤瓦)なったのも、興味が有りました。

なを、八重の桜の詳細な史実に基くブログは、迷道院高崎さんが

掲載しておりますので、参考になると思います。

http://inkyo.gunmablog.net/e287024.html
 


柴又帝釈天と伊勢崎市境下武士の深い関係 付録

2013年04月09日 | 名所旧跡

近世神社仏閣の造営は宮大工が、彫刻まで行った場合と、1750年以降

彫刻は別に彫物師が別に行うのが顕著なり、其の方達を

「彫物師、彫師、彫工、彫物棟梁」

と呼ばれて造営に大きな影響を与えたが、群馬県内の彫刻は宝暦6年妙義神社を

江戸の彫物師が関与しているがそれ以外は殆ど確認できない。

 他方県内の彫物師は、大間々から日光に通じる国道122号線に面する

勢多郡 黒保根村字田沢及び、同 東村字花輪の出身者が多いのである。

 


柴又帝釈天と伊勢崎市境下武士の深い関係 其の4 弥勒寺音次郎・音八父子

2013年04月08日 | 名所旧跡

 

 平塚の赤城神社拝殿  

弥勒寺音次郎・音八父子は境町下淵名の人である。

 したがって、境町を中心に各地に多くの名作を残したが、地元の人に

はほとんどその名が知られず、わずかに古老によって社寺の彫刻家として

音次郎・音八父子の存在したことが語り伝えられている程度である、

対外的に、特に音八は幕末から明治にかげての時代、日本一の名彫刻家として

全国に名を響かせ、宮中に召されて皇居や賢所の

造営にもあたったことがあったが、このような偉大な業績を有する人物が、

町民に知られてないことは、かえすがえすも残念なことである.

 父音次郎は寛政九年(1797)に長沼付 (旧豊受付の一字)の渡辺源蔵の子に生れ、

下淵名の棟梁小林新七の養子となって、宮大工としての一歩をふみ出すことになるが、

おそらく弟子入りした以後、比類ない抜群の技倆が親万の目にとまって、

娘の婿となったと思われるが、名を音次郎、字を照房、弥勒寺河内守藤原照房

はじめ、小林姓を名のったが、天保以降母方の弥勒寺の姓を名のるようになった。

 音次郎の最初の仕事は下刻名の妙真寺の本堂須弥壇であるが、

これは銘文によって文政七年(1824)に造営したことをうがい知ることが

できるが、続いて同十二年には三ツ本の稲荷神社を造営している。

 以後、天保年問に下渕名村の大国神社拝殿、保泉村の勝山神社拝殿

手がけ、天保十四年には音八を伴って上京、京都の白河白王殿に、

謁棟梁の允可と河内守の名を賜った。

 音次郎は明治初年伊勢崎神社の修復を最後に没し、

父のあとを継いだ音八は、

笠間稲荷の造営に従事したが、特に本殿三壁七面の蘭亭曲水の

彫刻は抜群で県重要文化財になっている、 家紋は新田氏の一族渋沢氏が

設立した神社で新田氏の家紋を社紋としている

平塚の赤城神社全景

 

特に本殿の彫刻は稀に見る傑作である。 今の本殿の建立は嘉永六年(1854)であるが、

本殿左側勾欄親柱の擬宝珠に永禄十二巳年再建立、寛文四辰

年中興再建立嘉永六丑年九月吉日と、本殿の歴史が刻まれて嘉禾六年の財建は、

名工の名の高い下渕名村の彫工弥勒寺音次郎、音八父子で、

建物は一間社流造り銅葺とよばれているものである、 この本殿を価値づけるものは、

周囲に施こされた彫刻の妙で、音次郎、音八父子の本領が遺憾なく発揮されている

特に本殿正面前虹梁に八方睨みの竜があるが、音八は好んで竜刻をしており、

八方睨みとは前後左右どこから仰いでも見ている人を、

睨みつけているように刻まれている。

周囲の三壁に天の岩戸、高砂、三韓征伐の彫列があるが、これは本殿の圧巻であって、


 


平塚の赤城神社内部の彫刻 

 

ありふれた題材であるが力量に富んだ見事さである。

その下の腰組三壁を六つに汁切って唐見彫が施されているが、

唐兒内見が琴媒童遊に、たわむれるさまがよくあらわされている。

墓は、音次郎が「棟梁院立大柱宮居士」。音八が「雪松院梅翁彫刻声居士」の戒名で、

故郷の下渕名弥勒寺家墓地に「音次郎・音八父子の墓」として建立され、

父子の偉業を今日に伝えている。

神事に関して大変権威のある京都の吉田家から「河内守藤原照房」

という名誉ある名を授かっている。

 建築様式は荘重な八ツ棟造りで、周囲に極彩色の丸彫彫刻を配した

日光東照宮を思わせる華麗な神殿だ。さかのぼれば、

日光東照宮に名を残す名工左甚五郎の流れをつぎ、

名門花輪彫工に列する名工である。


柴又帝釈天と伊勢崎市境下武士の深い関係 其の3

2013年04月07日 | 名所旧跡

 顕徳碑  

昭和五年壱拾月壱四日、八十六歳の天寿を全うしたのであるが、その五年前の

大正壱五年に弟子達が、その恩恵と徳を末代までも伝うべく親方の長寿を祝って顕徳碑を建立したもので、

顕面の文字の「棟梁石原翁」は史学者、(八坂神社 神官 茂呂桑陰)

茂呂桑陰の筆による貴重で文化財価値の高い碑である。

また、三社神社にある、八坂の「神輿」は石原島吉の子、利吉と孫の才次郎の作であるが、

工匠島吉からの技を受けた宮大工の技を見事に表している。

三社神社、鎮座する地域は、かつて比刀禰川(古利根川)と渡良瀬川が合流し形成された内陸砂堆の小丘が累々としていた。

   

 

  

このような場所ではあるが、縄文時代には、石器加工の場など、人の営為の痕跡が僅か見るかっている。

その後、五世紀終末から六世紀には、前方後円墳五基を含む八十数基もの古墳群が築造された。

一方、境剛志小学校から来たにかけては、その集落跡が発見されている。当社が鎮座する「三社神社古墳」は、

本殿下の墳丘の一部を旧境町教育委員会が発掘調査を行ない、大型の円筒埴輪などが出土していることから、

六世紀後半にこの地域を治めた豪族が葬られた前方後円墳である。

このように、この地域は古墳時代には伊勢崎地域でも有数な地域であったと考えられる。

 社伝によると、武士は古代から栄えた土地であった。当社が鎮座する高台は、

かつて通称五郎助峠と呼ばれ、後鳥羽天皇の御代、文治二年(1186)鎌倉幕府を樹立した源頼朝の有力御家人で

ある安達藤九老盛長の子、景盛が上野国守護人として、この地で武を練ったことから「武士」と呼ばれ始めたという。

その際、領地の安全を神明に祈願し、神社を奉祀したのが三社神社の始まりであると云う。

また村を縦貫する「日光例幣使道から三丁ほど引っ込んだ字大神に村中が見渡せる高台に

三社宮が鎮守している」と古い記録にある。

このように、当社は、古くから下武士村の鎮守として位置し、永く村民から尊崇されてきた。

島吉の墓は、生家の近くにあり、顕徳碑も隣にあり、現在も綺麗に保存されてあります。

 

  

石原 信雄(いしはら のぶお、1926年11月24日  )は日本の官僚。元内閣官房副長官は一族である。

  顕徳碑には、2番弟子 坂田留吉の名が刻まれている。

茂呂桑陰は、文献に名を残し後の多くの逸材に、影響を与えている。

 


柴又帝釈天と伊勢崎市境下武士の深い関係 其の2

2013年04月06日 | 名所旧跡

 

工匠棟梁 石原島吉は弘化、弐年「1844年」九月二十七日、佐位郡下武士村

新田に石原孫平の長男として生まれる。

幼いころ新田郡世良田村の棟梁、磐身守、中島亀次郎の元で修業してのちに

工匠として、天性の本領を棟梁としての力量を発揮するがそれ以上に、人間として

資性温厚にして厚実にとみなをかつ弟子の勲育専念し、その弟子は30有余名に

上ったと云われている、人間性に優れた人物であったです。

工匠島吉の建造した、神社仏閣の主なものは

                                                                          佐波郡境町渕名の大国神社本殿 

伊勢崎市下植木の曹洞宗天増寺本堂

 

  伊勢崎市今泉町の八幡宮本殿

 

 大東神社本殿