前回の請書から、村人が出て警固にあたり、よく見廻りをし、
囚人(国定忠治)へ荷担する者と見掛ければ差押える事などを
約束している。忠治の奪回を非常に怖れていた事が判る。
さらに「一カ村十五人ずつに六尺棒をもたせ目印の幟(のぼり)を
村ごとに立てさせ、忠治の番人を三人おき、見廻り十七人
計三百人余りが、忠治一行の到着する十二月二十日朝までに」
部署に付いている。
村民が動員されたのは萩生・本宿・須賀尾・大柏木・大戸・三島の
計六カ村であった。
更に、記述には「出方(註出勤)之儀者組合三島村共六ケ村、
都合惣人足三百人余、右傑場切払候人足之儀者地元三ケ村ニて拵申候」
とあるから、傑場の作業は、近い大戸、本宿、萩生の三村民が
出た事が読み取れる。
なを、現吾妻郡東吾妻町大字須賀尾生まれの、丸山不二夫氏は、
其著書加部安左衛門"江戸期在郷商人の事績"みやま文庫 2010発行の
中で、幟についてより詳細に、萩生村白色・本宿村黄色・須賀尾村浅黄色・
大柏木村桃色・大戸村赤色・三島村黒色、其の外に、
鉄砲持を一ケ村三人づつ立てたと記載している。
続く