アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

神谷郁代さん 其のⅡ

2013年06月28日 | Weblog

 

初めて聴いた生のオーケストラ

 私が初めて聴いた生のオーケストラは群馬交響楽団だった。

伊勢崎の公民館でおこなわれた〈移動音楽教室〉で、私はピアノを習い始めたばかりの小学生だった。

それまでレコードでしか知らなかったオーケストラを初めて聴けるのがうれしくて、

会場に向かっているときからワクワクし、

演奏が始まると夢中なって聴いていたのを覚えている。プログラムの中にはスッペの

『軽騎兵序曲』とベートーヴエンの『運命』あったと思う。また、楽器紹介があって、

ひとつひとつの楽器の音を出して見せてくれたのが、子ども心にとても楽しかった。

 当時、プロのオーケストラは全国でも数える程しかなかったから、

その生演奏を聴くのがたいへんむずかしかった。

そんな中で、群響は早くから、この〈移動音楽教室〉に取り組んでいて県内を隈なく回っていたから、

おそらくほとんどの群馬県民が、子どものうちオーケストラ体験をしているのではないだろうか。

小学校の頃の友達はみんなこの音楽教室をよく覚えている。

群響のみなさんは当時たいへん苦労されたと開いているけれど、

好奇心旺盛な子どもたちにほんとうの音楽を聴かせてくれたその功績はとても大きかった。

 

幼い頃のこの音楽体験の中で、忘れられない思い出がほかしもいくつかある。

ひとつはオーストリアのピアニスト、ハンス・カンのリサイタルバ。巨匠の演奏会だから、

音楽教室とは違って周りは大人ばかりで、払はリサイタルの間中ずっと緊張していた。

けれどもアンコールドなるとカンが「今日は小さいお嬢さんもいらっしゃるから、やさしい曲にしましょう」といって、

小曲を弾いてくれた(もちろん幼い私にわかるはずはないから)、きっと父が教えてくれたのだろうが、

記憶の中ではカンから直接聞いたかようになっている。残念ながら曲目は覚えていない)。

まるで私だけのために弾いてくれたかような気がして、それまで少し怖そうに思っていた

ハンス カンが少し優しいおじさんに見え、とても嬉しかった。

 もうひとつ忘れられないのが、天才少年として有名だった渡辺茂夫のバイ才リンリサイタルだ。

私より5歳年上だが、当時はまだ半ズボンの子どもだった。難曲をあまりにもみごとに弾き切るので、

信じられない気持ちであっけにとられて聴いていたのを覚えている。

激しい雷雨の日で、会場の中にまで雷鳴が聞こえていたのも印象的だった。

 渡辺茂夫はその後14歳でアメリカに留学し、自叙未遂で重いい脳障害を背負って

悲劇的な生涯を送った。たしか今年(1999)になってから亡くなられたのではないだろうか。

 こうした演奏会は、みな前橋の群馬会館でおこなわれた。

外の雷鳴が聞こえてしまう不十分な施設だが、

当時、県内で本格的な演奏会が出来る唯一の会場だった。

私自身もこの群馬会館で何度も演奏しているのだが、

 不思議なもので初めて弾いたのがいつでどんなプロブラムだったのか、

どうしても思い出せない。子ども守ころから演奏する機会が多く、

自然にピアニストになってしまったようなところがあるので、

あまり記録を残していないし、記憶も錯綜している。

 プロとしての正式なデビューは、秋山和慶さん指揮の群響と共演したベートーヴエンの協奏曲第1番たった。

会場は日比谷公会堂だ。

その時からもうすぐ35年になる。私はこれまで5年ごとの節目には記念となる仕事をしてきたが、

2001年はダリーブとベートーヴエンの4番の協奏曲をCDにする計画だ。また、今までの活動を振り返って、

自分の音楽的な特質を、見極め、これからの方向を考える機会にもしたい。

 演奏とは音楽に命を吹き込むこと、音を出す瞬問に新たない命を生み出すことであって、

まったく同じものを再現することはできないし、それだけにいつも新たな気持ちに

満ちている。これからも音楽と自分自身をしっかりと見つめ、

いつも新紆な気持ちで演奏に取り組んでいきたい。

 

私が初めて銀座に来たのは9歳のとぎだと思う。ヤマハホールでおこなわれていた。

〈日本学生音が書くコンクール〉小学生部門の予選を聴くために、父に連れられて来たのだ。

当時、私たちは群馬県伊勢崎市に住んでいたので銀座はずいぶん遠かった、

私をピアニストにするのが夢だった父は、私にコンクール雰囲気を教えたくて連れてきたのだろう。

舞台の上では私より少し年上の子供たちがカチカチになってピアノに向かっていた。

その緊張が伝わってくるので、私も真剣にじっと聴いていた。

今も活躍されている遠藤耶子さんや野島稔さんが参加されていたが、特に遠藤さんのグリーンの衣装は

とても印象的でよく覚えている。

 当時の学生コンクールは小学校5年生から参加資格があったので、翌年には私白身も参加した。

小柄な私はきちんと座るとペダルに足が届かないので、椅子に寄りかかるようにしてベートーヴエンの『悲槍』を演奏した。

この参加が私にとって大きな転機となった。審査員のひとりでいらした井口愛子先生から、

ピアニストになるための本格的なレッスンを受けるようになったのだ。

だから、ヤマハホールは私のピアニスト人生の原点とも言える場所だ。

現在ではすばらしいホールがたくさんあって、コンクールの会場も別の

ホールに移ってしまったが、懐かしいヤマハホールは昔のまま残っている。

 先目、久しぶりにホールを訪ねでみた。ヤマハには楽譜やCDを買うためにしょっちゅう来ているのに、

ホールに行くのはコンクール以来初めてで、なんと40年ぶりだ。

エレベーターでホールを探すと4階だったのが、意外だった。

子供どもの頃の記憶ではホールはすごく高いとこ所で、ロビーの窓から銀座の街を

見下ろしていたように思う。4階でエレベーターのドア前が開くとロビーには

10入くらいの人がいてで三々五々話をしていた。

華やいだ雰囲気で中には花束を特った女性もいる。どうやらピアノの発表会が終わったらしく、

みんなとても楽しそうだ。

ホールに入ると、舞台ではピアノにカバー前掛けられ、照明の隔片付けがおこなわれていた。 

 ホールには新しく改装された様子もなく、昔とあまり変かつていないのだろうが、

記憶の中のヤマハホールとはずいぶん違う。

10歳頃の記憶だからあまりはっきりとはししないけれど、

こんなに明るくなかったような気がするし、コンクールだから当然だが、

ピリピリと張り詰めた空気が満ちていて恐いくらいだった。

今はそんな聚張感のないホールに来てみて少し物足りない気持ちがあったが、

しばらくすると、ここはまぎれもなく10歳の白分がコンクールに参加

した場所だという思い前しだいに高まってきて、とても懐かしかった。

 このヤマハホールと、私の記憶の中でセットになっているのがビアホールの〈ライオン〉だ。

コンクールの演奏が終わり結果発表を待つ間、又は私をライオンに連れていってカツレツを食べさせてくれた。

10歳の子どもをビアホールに連れて行くのも妾なものだが、

このドイツ風のビアホールで、父は私のドイツ留学を夢見ていたのかもしれない。将来困らないようにと言って、

フォークとナイフの使い方を、一生懸命教えてくれた。

 先日の日曜日、久しぶりにライ才ンにも行ってみた。ビルの外側は新築のビルのように新しくなっているが、

中に入るとすっかり昔のままで、タイルで飾られた石造りのクラシックなホールは、

銀座通りの近代的な街並みとは別世界だ。

正面にはガラスモサイクで麦の収穫風景を描いた大壁画があって、ひときわ目を引く。

子ども心にもすこいと思ったものだ。

解説書によると、建物は70年前にサッポロビールの本社として建てられ、1階を当時としてはめずらしい

本格的なビアホールとしたのだそうだ。ガラスモザイクの大壁画には特に力が入れられたらしく、

250色ものガラスが使われていて、

色調を整えるのがむずかししかったため製作に3年を費やしたという。人物のイメージはギリシャ風なのだが、

体形が完全に日本人であるとところが時代を感じさせておもしろい。

 ホールにはびっしりとテーブル敷かれ、お昼少しすぎだったけれど、ずいぶん込み合っていてにぎやかだった。

若い人からお年寄りまでさまざまな年代の人が集まっていて中にはドイツ人らしいグループもいた。

みんなホールのクラシックな雰囲気を楽しみながらおいしそうにビールを飲んでいる。

雰囲気のせいもあるかもしれないが、ここで飲むビールは格別おいしい。

私は琥珀色のピルスナーを選んだが、喉越しがすっきりしていてとてもよかった。

ここに来たからには懐かしいカツレツが食べたかったけれど、残念ながら今のメニューにはない。

しかたがないので申カツとポテトコロッケで我慢した。

しばらくすると、ちょうどローストビーフができたところだと言うのでさっそく頼んだが、

子供の頃こんな贅沢メニューはなかったと思う

 今の私は東京に住んでいるから、銀座は買い物や食事に来る日常的な場所だ。

ところがその気になってちょっと足を向けると、数十年前の思い出の世界がそのまま残ている。

あらためて銀座の歴史と奥の深さを感じた。銀座にはまだまだ残っている古い建物を

ぜひ大切にしてほしいと思う。

銀座にはいろいろな世代の人々が、自分だけの特別な思い出を特っているだろう。

その思い出に結びつく世界が残っているのを見つけると、誰だってとても今は、なつかしくうれしいものだ。

銀座がそんな人々の心をいつまでも人切にする心をいつまでも大切する

であってほしいと願っている。

 

                   神谷郁代著 魔法の指の秘密 2002.3.1ショパン発行 第1章 思い出より引用

 

上州風、銀座百点、ピアノの本、音楽の友、朝日新聞、旅の手帖、産経新聞より 20点以上の著書を、

       出されておりますので、ぜひ購読をお奨め致します。

 

実兄の当時の本音は、どうして妹ばかりに父は熱心に、ピアノに力をいれていて、

                       私は、疎外感を感じていたのは事実だった。

 

私自身も、ライオンで何度か、ビールを味わったが、鮮度、温度、清潔度、雰囲気いずれも

最高のビールの喉越しを、味わうことができる、

現在の私は、アルコールは、毎日は飲まない、せいぜい年に350日ぐらいですが、


                                 つづく


トヨタが4車種2万台リコール…ブレーキ不具合

2013年06月27日 | Weblog

 

トヨタ自動車は26日、レーダーで前方を走る車など障害物を検知し、衝突の危険がある場合に自動でブレーキを

かける装置に不具合があったとして、乗 用車「クラウン」や、同社の高級車ブランド「レクサス」の「IS350」など

4車種約2万台(2012年12月~今年6月製造)のリコールを国土交通省に 届け出た。

 国交省によると、自動ブレーキの障害物検知ソフトの設定が不適切なため、隣の車線の車両などを前方の障害物と誤認し、

急にブレーキがかかる恐れが ある。この不具合でけが人は出ていないが、5月末には、東京都葛飾区の首都高速道路で

後続車に追突される事故が起きるなど、計6件のトラブルが報告されて いるが、それがなぜ今になって公表するのか、

電通はじめ、新聞、週刊誌などが、最大の広告主であるのも、一因であるのが現実で、無言の圧力に鳴るからと

私は、考える。


トヨタ自動車のブレーキ欠陥は、以前よりブログ、その他ユーザーから指摘されており、利益優先の企業体質が

暴露された。

我々、一般庶民が使用する車の、第一条件は、運転者の意思の通り、確実の停車することが、一番で

重要かつ不可欠な条件で、スタイルや内装の豪華さで選択するのは、再考しなければならないのではないか!


外食産業のアルバイト人材が不足している

2013年06月24日 | Weblog

 「ショッピングセンターやコンビニエンスストアの出店増も大きいが、少子高齢化の影響でフード系のアルバイトを支えていた

若者労働力そのものが減少 気味という側面が

見逃せない。総務省の労働力調査でも30年前と比べて、15~24歳までの労働力人口全体に占める割合は低下し、

逆に45歳以上の割合が 上昇している」

 --需要増だけではなく供給側の問題もあるか

 「フード系はメジャーなアルバイト先の一つだが、若者のライフスタイルの変化が影響しているようだ。仮説ではあるが、

コミュニケーション能力の低 下で、

接客業を敬遠する傾向もあるかもしれない。当社が昨年、実施したインタビューの中で、飲食店のアルバイトには

『必ず下見をする』という回答があっ た。

実際にその店で食事をしながら、どのくらい忙しいかとか、店長の人柄などを見てから決めるらしい」

 --コンビニなどの出店増の影響は大きいか

 「アルバイト先を決める際に、親近感は影響する。その点で、コンビニは若者の生活に深く根付いているというだけではなく、

自宅に近いことも多いことが応募のハードルを下げている。アルバイト先でカフェなどの人気が高いのも同じ理屈といえる」 

「ただ時給を上げるだけでなく、アルバイトが、『ここで働けば、自分のキャリアになる』と思える職場であることが必要だ。

先ほどのコミュニケーションの話ともつながるが、アルバイトに対して、きちんと目をかける取り組みも求められる」

 

                                                              平賀充記(ひらが・あつのり)氏のコメントより引用


赤堀花しょうぶ園 国指定史跡 女堀 群馬県伊勢崎市

2013年06月20日 | Weblog

 

 国指定史跡 女堀にある、花しょうぶ園

女堀も、未だに不明な点が多く、

文献に於いても諸説があり

足利 俊綱(あしかが としつな)が、女堀造営に関与したという説もある。

群馬県前橋市上泉町から伊勢崎市国定町まで続く農業用水跡。赤城山南麓の標高100mの等高線に沿って

開削(かいさく)されたもので、

同市上泉町の古利根(桃木川)から取水し、旧佐波郡東村西国定にいたる12.75kmの農業用水跡で、

1108年(天仁1)の浅間山の爆発により、壊滅的な被害を受けた大間々(おおまま) 扇状地末端地域の水田再開発のため、

当時この地域を支配していた渕名氏が開削したと推測される。大規模な農業用水であり、大量の人力を投入して水田開発を

推進したことを物語る記念物として貴重なことや、原形がそのまま残っており、調査からも重要な遺構が確認されたため、

1983年(昭和58)に国の史跡に指定され、1997年(平成9)に追加指定された。

現存している遺構や土上げ部分の保全のために公有地化され、2万4000株の花菖蒲を植えて赤堀花しょうぶ園が開園

 保存会のご尽力で、根元に黒マルチを敷くなど、数々の手入れなされております。

 

 

また、 峯岸氏は赤堀小学校の元教諭で、り、昭和26年、最初の生徒を受け持った方ですが。

研究の中心は日本中世史(平安末から戦国)で、女堀遺跡の発堀作業と解明に大きな業績を上げられました。


 「女堀」という呼び方は、もともと「媼堀(おうなぼり)」から派生したとの考古学説を提唱し、

それが今日の定説となっています。

著書は『関東の名城を歩く南関東編』『足利尊氏と直義』『中世の合戦と城郭』

『戦国時代の城』『日本中世史の再発見』等多数あり

根元をご覧ください、全てマルチングがされて有ります。

食事処もあります。

紫陽花はやはり梅雨に会いますね


2万4000株の花菖蒲は見ごたえがありますので、良い散歩道ですので、ぜひお越しください。

地元保存会の方のご尽力でよく手入れされて、ごみもありません。

勿論、トイレ、駐車場も綺麗ですので、ぜひご覧ください。


近隣の方が、巨大なカエルを置いていますので、無事にカエル事ができます。


なを、アクセス等は、下記が参考になると、思います。

http://www.isesaki.ne.jp/kankoukyoukai/syoubukaika.html


参考文献

能登健「女堀」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)

峰岸純夫「女堀」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年)

峰岸純夫「女堀」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年)

『図説 日本の史跡 第4巻 古代I』、同朋舎、1991 他、地元資料含む


神谷郁代さん 其の1 

2013年06月15日 | Weblog

 世界に誇れる日本の女性、群馬県伊勢崎市出身


 私自身も、平成以後に、知った方です。

1972年、エリザベート王妃国際音楽コンクールに入賞。その後、ヨーロッパ各地で音楽祭、

リサイタルなど活発な演奏活動を展開、ロンドンデビューに際しては、辛口批評家で知られる

「ロンドンタイムズ」に「豊かな音楽性、冴えたテクニック、強い精神力、そして明晰な頭脳に

よる力強い演奏」と絶賛された。

 小澤征爾、若杉弘、ホルストシュタインなどと共に、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、

東京都交響楽団などの国内主要オーケストラを始め、サンクトペテルブルク交響楽団、

パイヤール室内管弦楽団などと共演。

日本フィルハーモニー創立30周年記念ヨーロッパ公演にソリストとして同行。

室内楽においてもクリーヴランド弦楽四重奏団、ウィーン八重奏団などとの共演で、

好評を得る。 近年ではケニヤ・南アフリカなどのアフリカ各国、ウクライナ、

メキシコなど活動範囲を広げている。


 ピアニストになるためには、すごく小さい頃からピアノをやらないとなれないっていうのは知っていますか?

5歳くらいからはじめないと遅い、といわれるような業種です。

どうしてこの人がヒントになるかと言うと、もしピアニストになれるとすると、

5歳にピアノにコミットしないといけないということです。

問題は「いったいこんな小さいときに本当に本当に潜在能力があるとわかるのか?」ってことがあるからです。

このことに関する考察が、「才能」と「努力」

の関係性を考える上での入り口になるかもしれないと思います。

神谷さんはこんな風に話しています。

努力には才能と言うことが大きくかかわってきます。才能がないと自分自身が、

成長しているかも自分で判断できないこともありますし、

たとえ判断できる位の才能があっても、逆に自分自身のレベルが伸びていないことが分かるから、

やっぱり途中で嫌になってしまう。だって、たくさん練習してもあまりうまくならなかったら、

一年くらいは続くかもしれないけれど、十年も続きます?

 結局、才能があるからこそ、人一倍努力できるのだと思います。

自信なんて別に意識しないでも、ピアノを続けていけるのよ。

逆に言えば、ずっと努力し続けらえ得る人にこそ、才能があるのではないかしら。


 神谷郁代(かみや いくよ、1946320 - )は、日本の世界的ピアニストで、

欧米での 評価は極めて高いが、母国日本では、あまり知られていない

群馬県伊勢崎市出身、父は高校教諭のごく普通の家庭に生まれ、

いわゆる英才教育は一切受けていない。

実兄は、現在も伊勢崎市に在住。

 8歳よりピアノを始める。神谷さんは旧伊勢崎女子高(現伊勢崎清明)に、1年通った後、

桐朋学園高に転校した。

現在でも清明高校は3年に1度、群響出演の音楽教室を開いているが、

以前、神谷さんの教え子でもある近野裕子教諭が同校で音楽を教えている縁での共演が、実現したのである。


神谷さんはショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏。母校の生徒を前に感極まって涙が

止まらなくなり、演奏を一時中断する一幕もあったという

演奏の合間に、指揮者の園田隆一郎さんと舞台に立ち、高校時代の思い出を話し、

「ピアノができる男子はかっこいい。途中でやめないで」と生徒に語り掛けていた。

ピアニスト神谷郁代は「才能があるからこそ、人一倍努力できるのだ」と言った。


  神谷郁代さん は、日本を代表する世界的ピアニストなのだ。


ことの発端は、昨年秋の週刊新潮に掲載された「週刊新潮 掲示板」である。

以下原文のまま、

 その掲示板に、神谷さんはコメントを寄せた。曰く、「1980年にNHKFM青少年コンサート】で放送した、

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の録音を探しています。東京フィルハーモニーと公開録音したものです。

私にとって初めての演奏だったのですが、大切な録音テープをなくしてしまいました。

録音をお持ちの方がいらっしゃれば、是非お知らせください。~後略(原文のまま)」。


  そうしたら、何とその録音が現れたのだという。持っていたのは広島の男性で、

神谷さんの演奏はすべて持っているという豪傑らしい。これも凄いことだ。

そしてつい2、3日前、その録音のCDRを神谷さんからいただいた。

早速聴いてみると、大家の風格というか、広大なロシアの大地への郷愁と、

ニューヨークの摩天楼の煌きが、調和しているような、

実に鮮烈でスケールの大きな演奏であった。

指揮は山岡重信氏、確かに音楽史に刻まれるべき名演である。

以上原文のまま、

 

山岡 重信(やまおか しげのぶ1931年 - )は日本指揮者東京都生まれ。

 

早稲田大学理工学部在学中より、早稲田大学交響楽団(アマチュア・オーケストラ)を指揮する。

卒業後読売日本交響楽団ヴィオラ奏者としても活躍。

プロ指揮者としては1967年デビュー。同年、第1回民音指揮者コンクールで第2位に入賞。翌年には

日本音楽舞踏批評家協会賞も受賞。

1968年より読売日本交響楽団指揮者を務めた。その後も札幌交響楽団東京都交響楽団群馬交響楽団、にて、

指揮者を歴任した。


また、神谷郁代さん自身も次のように述べている。

出会いは実力ですか。確かにいろんなパターンを想像してみましたが、

まったく筋も通っていてその通りだと思います。そういう意味では本当は出会っていない人物、

例えば小説を通して歴史上の感銘を受けた人物も含まれるのですよね。

 出会いとしての実力=潜在能力×努力ですか?それとも、出会いとしての

実力=潜在能力ですかね?時々、

こいつ今は全く大したコトナイノニ努力したらもっと伸びるのにっていう才能にであうのですが。

この質問に対抗意識はありません。真実に近づきたいです。よろしくお願いします。


 神谷郁代さんの演奏の特徴は、原曲に忠実に演奏するのではなく例えば、

シューベルトのソナタは、突然転調したり、ふっと途切れたり、曲想が変わったり、

それでいて冗長な感じがしたりで、演奏するのはけっこう難しいのですが、

それを実にクリアに弾いている…という感じです。

音もクリアで、細部までよくわかる演奏です。

響きも美しく、それでいて力強さもあり、神谷さんならではの表現です。

21番のソナタは特に1楽章が好きなのですが、他の楽章にも新しい発見があって、

聴き入ってしまいました。


他には作品90の即興曲から、234番が入っていて、学習中の人にも非常に参考になる演奏です。

ぜひ聴いてみてください。

正に、円熟の地にいる真の演奏家の1人といえる

50歳以前の演奏は、女流のピアニストだが、失礼な言い方だが、顔ににあわず男勝りの演奏でした。

 

現在、65歳以上で現役で世界的に活動している、著名な女流のピアニストは、

神谷郁代さん以外に、日本人に存在しない。

女流のピアニストと称していても、現実には演奏はしない、評論とエッセイが、

主で又は、単なるピアノ教師である。

神谷郁代さんにこそ、文化勲章が値するのではないか?

事実、神谷郁代さんが、欧米各国をを訪問すると、尊敬と敬愛の念を持って

進んで各国は当然のように準国賓としての対応を行う。

外務省を、通すことなく、日本の知事や、国会議員が訪問しても外交事例の待遇で、

尊敬と敬愛をもっての対応は一切ない。


だから、世界的な一流芸術家は、海外に移住してしまうのは誠に残念な事で、

日本国に於いての、芸術家の流出の代償は計り知れないのである。


 神谷郁代さんの努力家の一端として、下記の様な実話がある。


小学校卒業までに、練習に練習を重ね、3台のピアノが修理不能になったという、

また有る指が、自分で納得できない動きをする場合は、

その指以外は、固定して納得できない1本で、練習を重ね克服した、小学生時代の事である。

いずれの逸話も、実兄からの話である。

 

神谷郁代さん

 群馬県伊勢崎市出身、伊勢崎女子高校1年在学、桐朋学園高校に転校後、

桐朋学園高校卒業の年に毎日音楽コンクール第一位受賞。エッセン音楽院卒業。

クラウス・ヘルヴィッヒ、ステファン・アスケナーゼ氏らに師事。

 

 

 


尾崎行雄さん死去

2013年06月14日 | Weblog

元東映、剛速球の“怪童”

我々世代の、話題の方が、残念ですが、

 

プロ野球の東映(現日本ハム)で剛速球投手として活躍した尾崎行雄(おざき・ゆきお)さんが、

13日午前、肺がんのために都内の病院で亡くなった。

 68歳だった。告別式は19日午前10時、東京都荒川区町屋1の23の4、町屋斎場。

喪主は長男、力(ちから)さん。

 大阪府出身。1961年、大阪・浪商高(現大体大浪商)2年の時、夏の甲子園大会準決勝で、

神奈川・法政二高の柴田勲投手(元巨人)に投げ勝ってそのまま全国制覇を果たし、“怪童”と呼ばれた。

同年に高校を中退してパ・リーグの東映に入団した。

 童顔だが、右腕から繰り出す剛速球で強打者を打ち取り、1年目から20勝(9敗)を挙げて新人王。

65年には27勝12敗で最多勝に輝くなど、入 団から5年間で4度も20勝以上を記録した。

しかし、酷使がたたって肩を壊し、6年目以降は目立った活躍ができずに73年に引退した。

プロ12年間の通算 成績は107勝83敗。防御率は2・70だった。


                                       ご冥福を    合掌


落花生の植付完了しました。

2013年06月13日 | 家庭菜園

梅雨の合間に、落花生の植付をしました。

全部で46株です。

今年は空梅雨、猛暑、乾燥を見越して、15センチと深めに作きりをしてから

株間約30センチに、予め穴を開けておいてから、

株を植付、この方法が短時間ですみました。

 

一人で、40分で完了


今朝も早よから野良仕事

2013年06月09日 | 家庭菜園

今日は暑そうななので、5時から落花生の植え付け予定地の作業開始

先月、たっぷり石灰を入れておいた所に

堆肥と化成肥料を散布して整地しました。


作業に性格が出ました、私同様歪んでいますね。

茄子も、キュウリも今のところ順調に成長しています。

  しかし、カラ梅雨で困ります。

 

雨のお恵みを・・・・・・・・願う私です。


映画「八甲田山」 Ⅳ

2013年06月08日 | 近世歴史と映画

 

 映画「八甲田山」

 

  音楽      芥川也寸志

 

音楽は下記のアルバムに収録されている

芥川也寸志 映画音楽組曲「八甲田山」 Yasushi Akutagawa - "Hakkoda-san"

及び09年にディスクユニオンのレーベル富士キネマよりCDで再発された。

(規格品番FJCM-006)。


芥川也寸志 forever(規格品番 FOCD-9415)には、

 八甲田山(1977930

 ⑩徳島隊中ノ森雪原(135

 ⑪徳島隊銀山に向う(229

 ⑫棺桶の神田大尉(234

 ⑬終焉(238

 

特に、⑫棺桶の神田大尉(234)には、心打たれ涙する私である。

 目をつむって聴いていると、芥川也寸志の非凡さが満ち溢れているのです。

 

1943年、東京音楽学校予科作曲部に合格したものの乗杉嘉壽校長から

呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて

「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに、過ぎない。大芸術家の倅として、

恥ずかしく思え!」と叱責されたが、

1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業

 父:芥川龍之介 母:芥川文は海軍少佐の塚本善五郎の娘 兄:芥川比呂志 

長女:芥川麻実子(財団法人首都高速道路協会理事) 最初の妻紗織(旧姓山田)の長女

息子:芥川貴之志 MB-Netの創設者。『メルセデスベンツマガジン』など自動車雑誌でも執筆のほか、ナイキのコレクターで、有名、母親は也寸志の3番目の妻

 

芥川氏は先祖をさかのぼれば源氏・平氏の両方に起源をもつ豪族であり、

どちらも摂津国芥川に由来する。ひとつは清和源氏義家流小笠原氏族。

ひとつは流派不詳だが、徳川幕府に仕えた芥川元孝が家伝に桓武平氏の一族としているという。後者はどうもウソくさいが、芥川也寸志の家は代々江戸っ子で、

先祖は江戸城の茶坊主であったというから、後者だろう。

また伊賀忍者の家にも芥川があると司馬遼太郎が記している。

 

芥川也寸志は

 大正14 712日 生まれ

也寸志が 二歳の 誕生日を迎えて 12日後 の 昭和2

724日 父の 芥川龍之介が

(ただぼんやりとした不安)と 言う 遺書を残し自殺

也寸志は 父の 面影すら知らない

そんな幼少期を過ごします

そんな 也寸志が 音楽の世界に入るきっかけは

奇しくも 父 龍之介 が 趣味で集めていた クラシックのSPレコード

也寸志は 若くして 天才作曲家の 名を欲しいままにしますが

 いつも 芥川龍之介の 三男 と 言う肩書きが 付いて回り 苦悩の日々

 

そして 父が 自殺した 36歳まで 生きられるのか?

そんな不安からか 愛を求めるかのように 三回結婚しています

 

そのうちの 1人が 二番目の妻で女優の 草笛光子

草笛光子は 以前 あるテレビ番組で、芥川也寸志と 結婚した時、

幸せなハズなのに彼は、いつも 孤独を抱えていたと語っている。

 

また、松本 清張は、

養父道章は芥川龍之介の第一回河童忌(七月二十四日だが、

暑いので参会者の迷惑を考えて六月二十四日にくりあげた)の翌朝、

庭を掃除しているうちに急に気分が悪くなり、床についた二日後に死んだ。

こんなことを書くのはどうかと思われるが、若し、

(という仮定が宥されるとすれば)養父の死が一年早かったなら、

芥川の自殺は無かったかもしれないと思われる。(P108-109

── 松本 清張《昭和史発掘 02 芥川龍之介の死 119821015 文春文庫》

芥川は、黛敏郎がいうところの、壮烈な文化への戦死を遂げ、

                                惜しまれつつこの世を去った。



映画「八甲田山」 Ⅲ 「高倉健を呼んでこい」

2013年06月07日 | 近世歴史と映画

 

 映画「八甲田山」


雪中行軍随行大隊本部

     山田少佐(第2大隊長):三國連太郎

      隊の指揮系統を乱し、結果的に大量遭難の原因を作ることになる悪役。

     倉田大尉:加山雄三

     沖津大尉:玉川伊佐男

     永野軍医:竜崎勝

     田村見習士官:日和田春生

     井上見習士官:仲野裕

     進藤特務曹長:江角英明

     今西特務曹長:井上博一

 雪中行軍隊の家族・親族

     神田はつ子(神田大尉の妻):栗原小巻

     徳島妙子(徳島大尉の妻):加賀まりこ

     斉藤伍長の伯母:菅井きん

     少年時代の徳島:石井明人

 案内人たち

     滝口さわ(宇樽部村):秋吉久美子

     沢中吉平(熊ノ沢):山谷初男

     福沢鉄太郎(熊ノ沢):丹古母鬼馬二

     沢田留吉(熊ノ沢):青木卓

     大原寅助(熊ノ沢):永妻旭

 その他

     作右衛門(田茂木野村・村長):加藤嘉

     滝口伝蔵(宇樽部村):花沢徳衛

     鈴木貞雄(三本木の宿の主人):田崎潤

     中里村の老人:浜村純

     西海勇次郎(東奥日報記者):船橋三郎

興行収入 25900万円 (1977年邦画配給収入1位)

 

《キャメラマン・木村大作の話》

 「高倉健を呼んでこい」

 

一九三九年東京生まれ。

日本を代表する映画キャメラマン。五八年東宝撮影部にキャメラ助手として入社。

黒沢明作品で仕事を学び、七三年の「野獣狩り」から撮影監督。

高倉健とは『八甲田山』以降、多くの作品で一緒に仕事をしている。


因みに、長望遠のロングカット及びバストアップのキャメラワークが

黒沢監督作品及び、高倉健主演作品に、高い職人技を駆使していたが、

何故か2000年前後から、その職人技が自らの監督作品も含め少なくなっているのが、

私自身は寂しい。

 

『八甲田山』の撮影に入ったとき僕は三五歳で、終わったときには三八になっていた。

三年の間、あの一本にかけたんだ。キャメラマンとして世に出たいと……。

それで頑張ったんだ。自分でもよくやったと思う。もうあんな映画は二度と作れない。

雪のシーンなんか蔵王のスキー場の脇でも撮れるのに、

結局は実際の場所で撮ることになった。

 あんまり過酷な撮影だったから脱走兵まで出たんだ。エキストラとして東京の劇団

から若手を三〇入くらい呼んだんだが、彼らが着ていたのは明治時代の軍服に、革靴でしょう。

よほど寒くて辛かったんだな。ある日、七~八人が逃げて戻ってこなくなった。

これはまずいと次の日から、脱走兵を見張る投まで作ったんだから。

健さんと言葉を交わすようになったのもあの苦しい仕事があったからだよ。

でも、あの頃の僕は映画に狂って働いてたから、しょっちゅう怒鳴りまくってた。

俳優さんの体を気づかうより、とにかくいい絵を撮りたいという一心で、

キャメラを回してた。

 『八甲田山』のなかで、大ロングのカットがあったんだ。

キャメラをかまえていたところから健さんたちの隊が行進する場所まで歩いて三〇分くらいかかる。

僕としては晴れ渡った岩木山を中心に撮って、山裾のほうをちょこちょこと兵隊たちが動いていればいい、と、

そんな絵を想像した。僕のプランを間いた健さんは、

「ここまでロングの撮影なら棒を立てて、そこに帽子をかけとけばいいんじやないか」と、

笑いながら呟いた…・…

そう助監督から伝えられたのだけれど、僕は本人に歩いて頂かなくては、

他の俳優たちの演技にしまりがなくなると思った。それで、そんな早朝に山裾を、

歩くだけの撮影に三日間心底かけたんだ。終わった時に、

健さんの処まで走っていって、はあはあ言いながら「ありがとうございました」と

頭を下げたら、「木村さん、ぼんとに、これですべて終わりましたね」と念を押しながら苦笑されました。

 もう一つあるんですよ。その次の日だったかなあ、健さんが先頭で歩くシーンと、

岩木山を狙うショットを撮らなぎやならなかった。山の天気だから晴れてる時間が短い。

雲が切れて太陽が顔を出しやっといい具合に山肌が見えた瞬間がきた。ところが、

健さんのメイクに時問がかかって、なかなか現れない。

「俺は山を撮りたいんだ。高倉健のメイクなんかどうでもいいから、早く呼んでこい

 まわりの奴に活を入れるつもりで、助監督にそう怨鴫ったんだよ。

あくまでもパフォーマンスだよ、本気じゃ無い。そしたら、なんとオレの言葉を健さんに

そのまま正確に伝えた奴がいてさ。内心、どうしようと思った。

 すると、なぜかすぐに健さんか現場に現れたんだよ。

それで山のほうを見て、

あっ、木村さん、これは僕の顔より山のほうかほるかに綺麗ですね」って言ったんだ。

それだけは覚えてる。

 


私自身も、この映画ほど、何度も何度も繰り返し観て泪した、

今後は二度と其れは無いだろう。