アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 お徳の詳細を変更

2013年12月19日 | 近世の歴史の裏側

 

 私は、今まで赤城録を主に基として記載してきたが、

お徳の今までの記載が赤城録とは、異なる事が判った。

其れは、五目牛(ごめんし)村のお徳の住んでいた自宅跡が

昭和五十四年に、群馬県埋蔵文化事業団により発掘調査が、

行われていた事が判ったからです。

下記は赤城録の写しで、

 

旧東京教育大学付属図書館蔵

(東京高等師範蔵書㊞)

下記の様に解釈し記載していましたが、

 

特に、三行目の故娼妓もとしょう‐ぎ)に拘っていたので

其れを信じて、其の七で、お徳はもと娼婦と記載した。

 

弘化丙午三年(一八四六)

この歳、また五目牛の寡婦阿徳を以つて妾と為す。徳はもと娼妓、

鷙悍を以つて愛さる。然して皆之を其の家に置き時に往きて

宴飲するのみ。一日警迹人介右(助右衛門)忠治を蹤けて来たり。

徳の家を捜す。徳、助右衛門を捉へ罵言殴辱す。

助右衛門はもと賊徒、辱しみを受くるに報ゆる能はず、

又党の覘き伺ふを知り、終にのがれ能はず、窮蹙して自ら縊る

以上の記載から、娼婦だったと記載した。

なを、群馬県埋蔵文化事業団の発掘調査について、及び、

詳細の変更は、改めて後日にお徳の経歴から記載したい。


鷙悍

ハヤブサやタカなど、小型の猛禽類を指すがこの場合は、例えとして

用いていると考える、輙ハヤブサやタカの様な気性の激しい女性と考える。

罵言殴辱

罵る言葉でなぐ りくじけた気持ちにさせる。辱める、

単に恫喝より強く相手に屈辱を与える意味合いがある。

さらに、殴っていた。

窮蹙

きわめてちぢまるですが、私は怯え畏れていたと解釈する。

前提として、忠治一味の敵(かたき)にされたと思い込んで

いたと思われる。

縊る

元来は、尽きて顰める、縊る、 首を絞めて殺す。首を括るであるが、

その前に、自らとあるから、輙自殺である。

 


           

                  続く

 


真説 国定忠治 其の七拾六 忠治処刑の詳細の弐拾七

2013年12月17日 | 近世の歴史の裏側

 

『劇盗忠二小伝』は次のように表現している。


行刑ノ(ぜん)(せき)二曰ク、大戸加部氏ノ酒某嗜ム所願クバー椀ヲ

乞ハント、微酔シテ即チ寝ムヽ鼾声(かんせい)(いかずち)

なを、原文は当て字例えば、加部を、壁などと記載してあるので

私が訂正している。

 

処刑前日の夕、忠治はかつて嗜んだことのある、コクといい味わいといい

絶品の、加部氏醸造の銘酒を一椀所望した。そしてほろ酔い加減で眠りに

ついた。いびきは雷の様であった。

しかし、忠治は新井屋善治平に泊まっていたが、中気で、

酒を所望する事が出来ただろうか?

其れは、当時上州一番の大尽ので、役人も一目置く加部安が

事前に用意して与えたのを、『劇盗忠二小伝』の著者の羽倉簡堂が、

あえて事をこう記したと考える方が自然で、忠治は自らの手で飲み

干す事すら出来ずに、他人に与えられたと思うそして、前回の状態で

夜を明かしたと考える。

 

                     続く


真説 国定忠治 其の七拾五 忠治処刑の詳細の弐拾六

2013年12月16日 | 近世の歴史の裏側

 

忠治処刑前夜の、著書は前回の記載内容は、概下記の内容である。


忠治は、特に其の酒を所望した。加部安の酒は非常によい酒で

あるから、ぜひ一杯飲ませてくれと言ったのである。

飲むと、いい気持になってホ口酔い機嫌で寝につき、

忽ち雷のような鼾を、かいたという。

 

私は、下記の様に考える。

其れは、忠治は召捕り後、籠により上州より江戸にて、吟味には、

恐らく拷問も有ったかもしれなし、それ以前に、木崎宿から

玉村宿などで、対応に弄び、劣悪且食事も十分には取れずにいた、

体は極度に、疲労困憊し精神状態も判断の能力も低くそして、

また、上州への旅は辛く苦痛の日々と考えるのが、私は妥当と思う

その状態で、上記の下線部分の表現は、長旅に疲れ果て、

数か月間は、或いはそれ以上長時間にわたり、酒を飲んでいない

衰弱の激しい忠治の体には、例え一口の酒も、五臓に浸みわたり

そして、眠って鼾をかいた状態は、現在では、決して熟睡で無く

鼾をかくという事は、眠っていても己の耳には、周辺の音は、

騒音として入っていて、熟睡する事が出来ず、結果として眠りが、

浅く、大切な睡眠がしっかり採れて居ないと言う事で、記憶力や、

集中力が低下し、思考力も落ちた状態ですから、

翌日の処刑を脳裏では考えていたと考えるのが妥当だったと思います。

随って、下線部分は極めて創作に近く、加部安の牡丹を飲んだのは、

事実としても、其れは、当時上州の三分限者の加部安が忠治の為に

牡丹を与えて、飲んだ事は、有るが赤城録に記載されている。

内容を読み下しそれを、基に下線部分の表現になったと考えられる

 

                    続く

 


真説 国定忠治 其の七拾四 忠治処刑の詳細の弐拾五

2013年12月15日 | 近世の歴史の裏側

 

忠治処刑前夜の、前回の記載内容を、

私は、現在の常識では下記の通りと考えている。

殆どの内容は、概下記の内容である。

忠治は、特に其の酒を所望した。加部安の酒は

非常によい酒であるから、ぜひ一杯飲ませてくれと

言ったのである。飲むと、いい気持になってホ口酔い

機嫌で寝につき、忽ち雷のような鼾を、かいたという。


其れは、忠治は召捕り後、籠により上州より江戸にて、

吟味には、恐らく拷問も有ったかもしれなし、それ以前に、

木崎宿から玉村宿などで、対応に弄び、劣悪且食事も十分に

は取れずにいた、体は極度に、疲労困憊し精神状態も

判断の能力も低くそして、また、上州への旅は辛く苦痛の

日々と考えるのが、私は妥当と思う

その状態で、上記の下線部分の表現は、長旅に疲れ果て、

数か月間は、或いはそれ以上長時間にわたり、酒を飲んでいない

衰弱の激しい忠治の体には、例え一口の酒も、五臓に浸みわたり

そして、眠って鼾をかいた状態は、現在では、決して熟睡で無く

鼾をかくという事は、眠っていても己の耳には、周辺の音は、

騒音として入っていて、熟睡する事が出来ず、結果として眠りが、

浅く、大切な睡眠がしっかり採れて居ないと言う事で、記憶力や、

集中力が低下し、思考力も落ちた状態ですから、翌日の処刑を

脳裏では考えていたと考えるのが妥当だったと思います。

随って、下線部分は極めて創作に近く、加部安の牡丹を飲んだのは、

事実としても、其れは、当時上州の三分限者の加部安が忠治の為に

牡丹を与えて、飲んだ事は、有るが赤城録に記載されている。

内容を読み下しそれを、基に下線部分の表現になったと考えられる

 

                      続く

 


真説 国定忠治 其の七拾参 忠治処刑の詳細の弐拾四

2013年12月14日 | 近世の歴史の裏側

 


処刑前夜の状況は、恐らく下記の様と、私は考えている。

 

生れた、国定村とは異なり、嘉永参年十二月二十日は、

現在の新暦1117日である。

現在より山中で、日陰で且平均気温も、四,五度低い思われ

且宿周辺には、警固、野次馬が騒ぎ異常な状態の夜だったし、

忠治は【中風】ちゅうふう、中気【チュウキ】

脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随の状態である理解する、

なを、群馬県伊勢崎市地域では別名、昭和時代には「ヨタヨタ」と、

表現していた。

輙、忠治は、この時点では、以前の記載の通りに、処刑当時は、

現在の表現を借りれば、要介護二、三前後の状態であり己の意思を、

伝える事は不可能に近かったと推測している。

其れは、木崎宿での処遇及び、移送で明らかであり、其状態は

半身麻痺で且、有る事は明らかであり、其れを詳細に記述する

古文書は無いが、其れは脳卒中において分かりやすい症状は

顔(笑うと口や顔の片方が歪む、涎を垂らす) 腕(手のひらを

上にして両手を前方にあげる間に片方の腕が下がる)

言葉(上手く喋れない、言葉が出でない)などであり、

 

公文書及び古文書には、一切記載されていないので、

多くは当時の、お上の筋書き通りの、判決、処刑に

成ったのであるが、多くは、

仕草や表情で表していたと推測する。

例えば、現在脳出血後遺症で、苦しんでおられる方々及び、

家族の方、医療、介護に従事して居る方はお解りと思います。

 

                    続く


真説 国定忠治 其の七拾弐 忠治処刑の詳細の弐拾参

2013年12月13日 | 近世の歴史の裏側

 

刑場の見取図が、

故高橋氏の記録にはあるが、下記が其れである。

 

真に今となっては、貴重な此の絵図を基に、高橋敏氏など多くの

方々が、模写及び、想像を加え下記と、同じ様な略図を著書に

記載しているが、故高橋氏の記録が全ての基である事は顕です。

 

図の中央の道路が、現在の権田-大戸ヘの県道である。

「江戸道」とある方向が権田・高埼方面であり、「大戸居村より」

とあるのが、大戸の宿の方向である。江戸道の方が南、大戸道が

北になる。道をはさんで西側の傾斜地の一段高いところ

(現在の地形)に立会の八州取締役人四人が並び、その両側に

鉄胞を持った者が、控えた。道の反対側(現在忠沼地蔵の

建っている地点)に磔柱を建てた刑場とし、そのそばに、

岩鼻代官の手代と手下が検視の役で控えていた。

刑場の周囲には、竹矢来(注)が結ばれ、その中に、

村民が、前回の記載の様に幟を立てて警固にあたっていた。

実際の処刑の状況は記載されていないが、其状況及び、忠治の

身体精神状況、経費負担など其の他は後に記載したいが、

当時の幕府の、政策及び江戸後期の実態が、判明する事が出来る。


(注)【竹矢来】

たけやらい、竹を荒く交差させて作った囲い。

 

                        続く


真説 国定忠治 其の七拾壱 忠治処刑の詳細の弐拾弐

2013年12月12日 | 近世の歴史の裏側


加部安と忠治の関わりに、ついて

前回の記載に、一部は重複致しますが、

大戸村の加部安は、当時上州の三分限者(注)の一人で、当時は、

俗に「一、加部 二、佐羽 三、鈴木」とうたわれた上州三大尽の

筆頭であった。

二位の佐羽は桐生の豪商、三位の鈴木は甘楽郡一宮町(現在富岡市)

分限者(注)である。国定忠治が、大戸を通過して浅間山龍から

信州へ脱ける際に、何度か加部安には会っていたと伝えられいる。

その加部安は分限者ゆえ酒造家でもあったので、処刑される前日、

忠治は、特に其の酒を所望した。

加部安の酒は非常によい酒であるから、ぜひ一杯飲ませてくれと言ったのである。

飲むと、いい気持になってホ口酔い機嫌で寝につき、忽ち雷のような鼾を、

かいたという。明日消える命と知りながら、上記の記載の通りだと

すれば、その大胆さは驚くべきものである。

その夜は、前述(詳細の弐拾)の記録のように、新井屋善治平の宿で

夜を明かしたわけであるが、奪還を警固して厳重な一夜であった。

なを、加部安の酒の銘柄は、牡丹であった。


(注)

分限者=欲に流されず自分の分をわきまえる事(分限)が、

経済的な成功者に成るという戒めから、=大金持ち=大尽です。

 

                       続く


真説 国定忠治 其の七拾 忠治処刑の詳細の弐拾壱

2013年12月11日 | 近世の歴史の裏側

 

前回の記述より

忠治は、宿屋の新井屋善治平で最後の一夜を送ったことかわかる。

秋汲平などは、大戸の分限者加部安に泊った。当日の見物人が、

千五百人とあるのも珍しい記事で、いかに多くの大衆が、

忠治の処刑を見に集ったかがわかる。当日警固に、

 右囚人警固人足の儀は、組合六ケ村は目印の壱ケ村壱本ッツ、

 目印は六色ニわけ、大戸村赤、大柏本村桃色、本宿料黄色

 萩生村白、須賀尾村浅黄色、三島村黒、右の布三尺位ニ切。

人足は鉢巻きをさせ、村役人は帯え挟、御仕置の場所え失々ニ

分地いたし、其所え相詰申候。外ニ鉄砲持人足艦札持参ニテ

壱ケ村三人ツヾ村役人添。

というわけで、刑場を警戒する為に、村ごとに色を変えた幟を

立て、同じく色で区別した鉢巻きをし、村役人は腰にはさんで、

万一の時の混乱の目じるしとしている。

なを、忠治処刑の詳細の壱拾九で、丸山不二夫著書の加部安左衛門

"江戸期在郷商人の事績"みやま文庫 2010発行の内容は上記を引用

したと、私は考える。

                     続く

 


真説 国定忠治 其の六拾九 忠治処刑の詳細の弐拾

2013年12月09日 | 近世の歴史の裏側

 

 前回の記載に加えて、

     

役人はじめ忠治などの宿割りも書かれているが、それによると、

   秋汲平様本陣 上下五人     加部安左衛門

   八州様四人宿 上下拾六人    丈四郎

秋葉堅治郎様 囚人、上下囚人共二拾弐人

                   宿新井屋善治平

外御手先衆者旅龍屋方へ申付候。比人数凡八拾人余、村々よりの

警固人足凡三百人。弾左衛門方警固百人余。見物人共元千五百人余。

というふうに記されている。

 

加部安左衛門の生家跡は(東吾妻町指定史跡)になっているが、

其れは、十三代加部安左衛門(嘉重)(18291895)の生家であり、

国定忠治が度々立ち寄ったのは、十一代加部安左衛門重義で有る。

当時、上州三大尽(一、加部、二、佐羽、三、鈴木)と言われた豪商

そして、酒造家でもあった。

又、十二代安左衛門嘉重(号を琴堂)は、安政六(1859)年に横浜が

開港されると横浜に進出し中心部の弁天通りに大きな店舗

「銅(あかがね)御殿」を構え、外国人を相手に生糸や麻・茶・呉服・

雑貨などを取扱う、しかし俳句などに執着し、経営不振となる。

元治元年(1864)に店を閉めて帰郷、その後、家督を十三代孝重に、

譲り、明治7(1874)年に家屋及び、多くの貴重な古文書なども失う、


祖先は、桓武平氏の末裔で上総(千葉県)から上野(群馬県)に

移り住み、上野吾妻で「富澤」を名乗り。大戸三河守の家臣から

真田幸隆の家臣になり、四代からは、大戸の関所の関守を代々務め、

七代加部安左衛門重実が浅間噴火の際の救済に尽力し、

十一代加部安左衛門重義は上野国の豪商で、酒造家でもあり、

嬬恋村出身の中居屋重兵衛と交友有り、

なを、中居屋重兵衛(18201861)は、上州中居村

(現在の吾妻郡嬬恋村三原)に生れ、本名を黒岩撰之助、幼名は武之助、

二十歳の時、日本橋の書店和泉屋に奉公し働きながら、

様々な書物で独学し、

著書には、『子供教草(こどもおしえぐさ)』また、火薬製造法を

『砲薬新書』で出版した。 

                     続く

 


真説 国定忠治 其の六拾八 忠治処刑の詳細の壱拾九

2013年12月08日 | 近世の歴史の裏側

 


囚人之儀上州佐位郡国定村無宿忠治郎と申すものニ御座候。

付添候御出役林部善太左衛門様御手代秋葉堅治郎様、御証文ニて

ヒ遊御越候。十九日三ノ倉村御泊り、夫より大戸泊り、明廿一日

朝四ツ半時(午前十一時)磔ヒ仰付。右者八州御取締様方同断付添。

とあり、十九日に三ノ倉に泊り、二十日に大戸に着いて一泊し、

二十一日午前十一時に処刑されたことがわかる。

出役のうち秋汲平だけが先に大戸に来たのが十七日、其れから

二十一日まで詰め切りで一切の差図をしている。

一方首斬りや忠治を槍で刺し処刑を実行する役目の者は、

浅草の穢多頭弾左衛門、頭車善七の配下で江戸から付いて来た。

その事を「矢野弾左衛門手代小林与七、清水四右衛門同十七日より相詰ヽ

下町惣右衛門(註、前記の手記した惣右衛門のこと)方二居申候。

車善七方者才蔵方二居申候。江戸より付添人又は中山道よりも付添人。

原町立石辺之共都合百人余大戸村へ相詰候」と、

惣右衛門の手記をさらに詳しく裏付ける記述がある。

又、罪人処刑に視された人々が多数勤員された事も解る。

 

                     続く