私は、今まで赤城録を主に基として記載してきたが、
お徳の今までの記載が赤城録とは、異なる事が判った。
其れは、五目牛(ごめんし)村のお徳の住んでいた自宅跡が
昭和五十四年に、群馬県埋蔵文化事業団により発掘調査が、
行われていた事が判ったからです。
下記は赤城録の写しで、
旧東京教育大学付属図書館蔵
(東京高等師範蔵書㊞)
下記の様に解釈し記載していましたが、
特に、三行目の故娼妓(もとしょう‐ぎ)に拘っていたので
弘化丙午三年(一八四六)
この歳、また五目牛の寡婦阿徳を以つて妾と為す。徳はもと娼妓、
鷙悍を以つて愛さる。然して皆之を其の家に置き時に往きて
宴飲するのみ。一日警迹人介右(助右衛門)忠治を蹤けて来たり。
徳の家を捜す。徳、助右衛門を捉へ罵言殴辱す。
助右衛門はもと賊徒、辱しみを受くるに報ゆる能はず、
又党の覘き伺ふを知り、終にのがれ能はず、窮蹙して自ら縊る。
以上の記載から、娼婦だったと記載した。
なを、群馬県埋蔵文化事業団の発掘調査について、及び、
詳細の変更は、改めて後日にお徳の経歴から記載したい。
鷙悍
ハヤブサやタカなど、小型の猛禽類を指すがこの場合は、例えとして
用いていると考える、輙ハヤブサやタカの様な気性の激しい女性と考える。
罵言殴辱
罵る言葉でなぐ りくじけた気持ちにさせる。辱める、
単に恫喝より強く相手に屈辱を与える意味合いがある。
さらに、殴っていた。
窮蹙
きわめてちぢまるですが、私は怯え畏れていたと解釈する。
前提として、忠治一味の敵(かたき)にされたと思い込んで
いたと思われる。
縊る
元来は、尽きて顰める、縊る、 首を絞めて殺す。首を括るであるが、
その前に、自らとあるから、輙自殺である。
続く