アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

群馬の画家 金井 烏洲について、

2013年02月26日 | 名所旧跡

 

 1780-1838 江戸時代後期儒者で文政、天保時代に東毛文壇重きをなし影響を与えたのが

鈴木廣川 「すずき-こうせん安永9年生まれ。上野(こうずけ)佐位郡保泉(ほずみ)村

(群馬県伊勢崎市境保泉)の、独学で荻生徂徠(ぎゅう-そらい)派)

ついで山崎闇斎(あんさい)派の学をおさめ,詩文もよくした。

門人に金井烏洲(うしゅう)、俳人 和佐田 池澄(こじゅう)保泉村 名主らがいる。

天保(てんぽう)9年死去

59歳。名は惟親。字(あざな)は克敬。

通称は四九郎。別号に漂麦園(ひょうばくえん)。著作に「漂麦園自詠」「凶荒歌」などが。

鈴木広川は金井家と、伊与久村、大谷尚石などと親しく、漂麦園文集12巻が現存しており

特に漂麦園自詠20首は、古今の絶唱と称されている。

昔から保泉村には、過ぎたるものが二つある「四九郎先生と唐銅の鳥居」

勝山神社の大鳥居は明和六年に建てられ、神社拝殿は天保十一年に

弥勒寺(みろくじ)音次郎が造営した。

拝殿の天井は、金井烏洲と門弟が画いた花鳥で貴重な文化財である。

 なを、 名主 和佐田家 十七代当主 貞良氏は平成二十年三月 百二歳で帰幽

老叟大人命霊神(ろうそううしのみことみたまのかみ)となった。

 

 

特に漂麦園自詠20首は、古今の絶唱と称されている。


余談になりますが、鈴木家には私の義妹が嫁いでおります。

我が系譜は、楠木正成から七百年前よりあります。

墓石は、権大僧都 正徳院なども現存おります。

随って鎌倉時代から、僧侶が居たと思います。

 

金井 烏洲(かない うじゅう、寛政8年(1796年) - 安政4年1月14日1857年2月8日))は

江戸時代後期の画家勤皇家である。通称は左仲太のちに彦兵衛、を子修また林学、

は時敏のちに泰。は烏洲(烏州とも)、朽木翁、呑山人、白沙頓翁、雨笠、晩泰翁、

栃木翁、白沙村翁、小禅道人、獅子孔道人など。従五位上野国佐位郡島村

(現在の群馬県伊勢崎市境島村豪農に生まれる。

 

金井家は岩松時兼の三男金井長義を祖とし、数世の後に新田郷から島村に移住した。

累代の豪族で萬古と号して俳諧を能くした彦兵衛の二男として生まれ。

早くから尊王の志を抱き高山彦九郎に私淑する。後年、頼山陽らと交流し、ますます勤皇の志を固めた。

来遊した春木南湖に画の手解きを受け、江戸に出てからは谷文晁に師事した。

江戸南画壇の一人として名を成し、大障壁画の製作にも携る。学問やを好み、

詩文結社の小不朽吟社に参加している。頼山陽の他、菅井梅関篠崎小竹との交流も知られる。

寛永6年(1853年)に避暑に訪れた日光にて『無声詩話』を著す。晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、

中風を患うも書画の製作に打ち込んだ。この晩年の作を風後の作という。享年63。金井之恭は息子。

なを、現在、金井 烏洲の作品が現存しておりますのは、

 

群馬県伊勢崎市境保泉の勝山神社の天井画が紛れもない烏洲の作品です。

金井 烏洲の作品は下記の伊勢崎市のホームページでご覧頂けます。

http://www.city.isesaki.lg.jp/internetmuseum/kanai/room3.html


 なを、上州で知られている、国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次、忠次郎とも、文化7年(1810年

嘉永3年12月21日1851年1月22日))は,佐位郡保泉村は、幕府領・前橋藩であり、立入はご法度だった。


参考文献 しの木弘明著 佐波伊勢崎史帖 みやま文庫 

 群馬地名研究会 編 群馬の地名を訪ねて ㈱上毛新聞ほか

 


異なる管区さんの説も有りました。

2013年02月25日 | Weblog

 

2月15日掲載した下記の記述のかんくさんについて、異なった記述の本が有ります。

五木寛之沖浦和光の対談『辺界の輝き』岩波書店(2002/03)を読んでいたら、幼少のころ使っていた、

かんくさんについてこんな記述がありました。

 「群馬県出身の人の話ですが、警官のことを「カンクさん」と子供のころ言ってたというんですよ、「さん」を付けて。どういう字を書くん
だと気になったので、ちょっと調べてみました。何のことはない、官の狗ですね。中央政府から派遣されてくる鹿児島(出身の)巡査と
か、そういう連中に対して、官の狗だというので、官狗と呼んだ。」

 他にこんな語源が有りますので参考になれば幸いです

飯塚 訓 短編集 かんくさん物語 

あさを社       1996年3月((絶版)


飯塚氏は1937年、群馬県に生まれ

 日本大学法学部卒業
 1960年、群馬県警察官として採用され、以後、警察本部課長、警察署長、
警察学校長等を歴任。
 1985年、高崎署刑事官在職時に、日航機墜落事故が発生、身元確認班長に。
 1996年、退官された方で。
以下引用

明治20年1月26日全国に群馬県は先駆けて、

「警察署、分署管轄区域を数町村単位で分割「管区」とし、巡査一人を管区内に

移住させて治安維持に従事させる」とする「警察管区巡査規定」を制定した

これに続いて2月7日に「管区巡査」の勤務規定を定めた

警察管区巡査勤務法」制定した。

同法第2条には「管区内で発生した警察事故はすべて受け持ちの巡査の責任とする」と明記されている。

警察官に対する「かんく」「かんくさん」という呼び名は、この「管区制度」に伴って

生まれたもので、群馬県がは発祥の地と考えられる。

住民登録すらされていない、おばあさんとの出会い。

時には、身重の若い妻や小さな子どもをつれて赴任した若い「かんくさん」の心温まる話である。

村の住人ひとりひとりとの交流の姿は、ここに警察の原点があるともいえる私たちが忘れかけているものを、

思い出させてくれます。私は、この短編集の短い文章のを読む合間合間に、ひとつひとつは些細な話であるが
胸がいっぱいになり、何度も読むことを中断せざるをえませんでした。

短編集は警察OBの体験をもとに書かれており、興味のある方は

群馬県内の公立、図書館にはあると思いますので、購読をおすすめ致します。

 

未だ声の病は、完治せず流民の記載はお待ちください。

 

 

 

 


我が家のこの冬最低気温

2013年02月25日 | 異常危険状態

私はコンビニ強盗では有りません。

今朝は今冬最低気温で番犬「倭」の散歩から帰って」来たところです。

屋外最低気温マイナス8度

屋内最低気温5度

 

蹲もこの通りで、底冷えの朝でした。

 


憧れた野球選手、毒島さん

2013年02月24日 | Weblog

 

 桐生高から54年東映フライヤーズに入団

右投左打、ポジションは投手外野手背番号は33番。

1936年1月14日生まれ。群馬県出身

桐生高校では投手としてノーヒットノーランを達成。

1954年、東映フライヤーズ入団後すぐに外野手に転向し、1番打者として活躍。

外野の間を抜く巧打が特徴で、三塁打王を4度獲得し

三塁打の毒島」と呼ばれた方です。

父も好きで実況放送が始まると大音響で聞いていました。

TVが我が家でも観られる時代になると独占で観ていました

その当時から気にかっていたのが、毒島という姓でした。

私の住んでいる近くの方が、毒島とゆう字があると言うのです。

平成の合併前、群馬県佐波郡赤堀町大字今井字毒島です。

場所は旧勢多郡粕川村との境で、昔は沼地はで浮島に城が有り

敵が東から攻めれば西に、西から攻めれば東に、大亀が移動して

矢が届かず攻め悩み、野生のトリカブト根を石臼でひきそれを

沼に投入して、大亀を退治したとの伝説ですが、渋川市石原に

不須平「ブスダイラ」の不須沢には近年まで野生のトリカブト自生してようですが

吾妻町松谷にもブスノクボが有るそうですが。

群馬の代表する方言ブス「しこめ」とは、由来が違うようです。

 


メーカーは、売上高、資本力が制するのか?

2013年02月23日 | リホーム

東奥日報より引用

鴻海精密工業

  電子機器受託製造サービス(EMS)の世界最大手。日本や米国などの電機メーカーから、薄型テレビや携帯電話といった製品の生産委託を多く受けている。生産の大部分は中国で手掛けており、コスト競争力の源泉となっている。シャープとは2011年に業務提携を結び、液晶パネルの相互供給を検討するなど関係を深めていた。12年3月に鴻海とグループ会社が、シャープの筆頭株主になることで合意したと発表した。鴻海の10年12月期の連結売上高は8兆2992億円で、シャープの12年3月期の3倍以上。

2012年3月期

キャノンは連結売上高は3兆456億円 ソニー6兆492億円 

パナソニック7兆847億円

富士重工業1兆517億円 トヨタ自動車18兆583億円

山崎製パン9515億円 フジパングループ4135億円

第一屋製パン247億円 

キリンホールディングス2兆円

ファーストリテイリング「ユニクロ」928億

ダイムラー「ベンツ」106,540 Million Euro 約14兆1011億円

BNW 68,821 Million Euro 約8兆4800億円

サムスン電子 201兆ウォン(約16兆5000億円)、


流れに、竿差せば。。。

2013年02月22日 | Weblog

阪急店閉店で、気がかりでしたが、

「2012ジャパンケーキショー東京」で優勝の菓子メーカー、破産申請

 (有)ファクトリーナカタ、資本金300万円、川西市西多田2-7-8、代表中田浩氏、従業員10名)は、2月21日に事業を停止し、事後処理を森永茂弁護士(大阪市北区西天満3-1-6辰野西天満ビル6階、電話06-6367-1615)に一任し、自己破産申請の準備に入った。

 当社は、1986年(昭和61年)6月創業、96年(平成8年)6月に法人改組。生ケーキやロールケーキ、焼き菓子などの製造販売を手掛け、「スイーツファクトリーナカタ」の店名で地元川西を中心に3店舗を展開していた。2008年には宝塚市に工場を新設すると、チョコレート製品の本格製造を開始し、チョコレート菓子専門店をオープン。

 代表の中田氏は2012ジャパンケーキショー東京(全国大会)チョコレート工芸菓子部門で優勝(連合会会長賞)するなど洋菓子コンテストで数々の受賞歴を誇る有名パティシエで、期間限定で大手百貨店内に出店するなど相応の知名度を獲得。新店舗がオープンした2009年5月期には売上高約4億8000万円を計上していた。
 
 しかし、その後は伊丹店など不採算店舗の閉鎖や同業他社との競争激化などにより売上は伸び悩み、2012年5月期には年売上高約3億5000万円までダウン、開店資金や設備資金などに伴う有利子負債の増加により収益面は低調に推移していた。このため、金融機関への支援要請やリストラなどの経費削減により資金繰りの改善を図り、パンの取り扱いを開始するなど取扱品を増加させていたものの、ここに来て資金調達力が限界に達したことにより今回の事態となった。
 
 負債は約3億円。

人気と味と経営は、矛と盾で経営、生きることは苦難の連続です。


再び誤認逮捕か?

2013年02月20日 | Weblog

4人を誤認逮捕し、うち2人から虚偽の自白を引き出したことが明らかになっているPC遠隔操作事件。威力業務妨害容疑で逮捕された片山祐輔氏は関与を否認している。当初は、事件と片山氏を結びつける決定的な証拠があると報じられ、警察は絶対的な自信を持っているように見えたが、その後も160人もの捜査員を動員して証拠集めを続けるなど、苦労している状況も伝わってくる。

片山容疑者の弁護人となったのは、足利事件で菅家利和さんの無実を証明するなど、刑事事件の経験豊富な佐藤博史弁護士だ。佐藤弁護士に、2月19日時点での弁護人としての考えや主張を聞いた。

【弁護人となるいきいさつ】

ーー佐藤先生がなぜ弁護人に?

報道で彼の逮捕を知りった時には、他の方と同じように、警察がこれだけの発表をしたのだし、まず間違いないのだろう、ただ本人は否認しているんだな、と思っただけでした。彼が当番弁護士を要請し、その時にたまたま当たったのが、以前、うちの事務所にいた竹田真弁護士。その竹田弁護士から頼まれたんです。

事件について語る佐藤博史弁護士事件について語る佐藤博史弁護士

私はすでにいくつも刑事事件を抱えていて忙しかったのですが、竹田弁護士が「接見は私が毎日行きます。要所要所で出てきて下さるだけでいいですから」と言うので、「分かった」と。この時には、これほど頻繁に自分自身が接見に行くことになるだろうとは思ってもいませんでした。

【江ノ島の監視カメラには何が映っていた?】

ーー容疑者とはどういう話を?

まずは警察の取り調べ状況を聞きました。江ノ島に行ったか、猫に触ったか、と聞かれたので、本人は1月3日に行ったことを認めて、4~5匹の猫と接触して、写真を全部で10枚か15枚くらい撮ったかもしれない、と説明したそうです。ところが、その後は猫について聞いてないんですね、警察は。それで、変だなと思いました。

私が、あの猫について聞くと、「(顔の模様が)ハチワレで…」となどと、色のことを説明し始めるんです。あの猫の写真を撮ったかどうかを聞くと「撮ったかもしれません」と。なぜかというと人なつっこい猫で、「膝にのっけたかもしれない」と言うわけです。そんな風に、全然包み隠さず話す人です。警察に対しても、過剰なくらい供述をしています。それで、彼の話を聞いた後、新聞記事を精査してみると、話が全然違う。これはどういうことだ、と思いました。

ーー足利事件の菅家さんの時には、面会してすぐに無実を確信したとのことでしたが、今回はどうでしたか。

当初は半信半疑でした。新聞には決定的な証拠があるかのように書かれていましたし。でも、取り調べで警察はそういうものを本人に示していないんですね。なので、接見の後、取調官に「もし決定的な証拠があるなら、早く示して欲しい。それで(否認しても)ダメだと分かったら、弁護人からも本人を説得しますよ」と言ってみたが、警察は「はい、分かりました」と言うだけ。「本当はそんな映像ないのでは?」とも聞きました。すると、「そういうこと(=決定的な証拠があるというような情報)はマスコミが勝手に書いているだけ」と。検事にも、「(本人が猫に首輪をつけたことを示すような)防犯カメラの映像はないのでは?」と水を向けたところ、沈黙しか返ってこなかった。

私がそう指摘した翌日は、取り調べもせずに捜査会議をやっている。その後も、彼が猫に首輪をつけたことを示す映像は本人に示されていません。報道でも、いつの間にか映像の話は立ち消えになりました。

こうした経過から見ても、警察は1月3日に彼が江ノ島にいる映像は持っているが、彼が猫に首輪をつける映像もなければ、(彼が江ノ島に行った)3日に首輪がついている状態の猫の映像もないことを、確信しています。

ーー江ノ島で猫の写真を撮ったカメラはどうなりましたか。

その時使っていたのは富士通製のスマホですが、新機種に買い換えて、1月の中旬にショップで売っています。ネットの方が安いので、ネットで新機種を買い、古いものはショップに持って行ったところ、店員が初期化して引き取ったそうです。もし、彼が真犯人であれば、自分で入念に初期化するはずでしょう。この時に彼は、すでに警察に尾行されていて、売ったスマホはすぐに警察が回収したようです。

ーー警察は猫の写真を復元したと報じられています。ならば、彼に示して説明を求めるのが普通だと思うのですが。

彼には示されていません。彼は、犯人が送った写真が自分のスマホの中にあるわけはない、と言っています。復元したとして本人に示されたのは、友人とコスプレをやる所に行って、鎧かぶとをつけてポーズを撮っている写真など、事件に無関係の3点だけです。

ーーそれだけ証拠が希薄なのに、よく逮捕しましたね。

前回の事件の時、彼は任意の調べでは否認しましたが、逮捕されてすぐに自白しています。今回も、逮捕してしまえばすぐに自白する、と警察は思ったんじゃないでしょうか。

【不利な証拠と有利な事情について】

ーー江ノ島の監視カメラ以外にも、雲取山に行ったとか、真犯人が送ってきた写真に写っている人形を買ったとか、最近は彼が仕事をしていた会社のPCでウィルスが作成された痕跡があるとFBIから情報提供があったという報道もあります。

山、海、前科、人形、猫、それにFBI情報。これだけ彼に不利な事柄が重なっておきる偶然はない、と捜査機関は考えているようです。ただ、猫の話もそうですが、そういう不利だと思われることも、彼は全く隠そうとしない。彼は自分が山に行ったことや、人形を買ったことなどは認めている。人形はAmazonで買っているので、購入したことはメールを見れば簡単に分かるし、彼も隠していません。

前科については、彼は反省し、警察や検察を恨んだりしていません。それどころか、私が「(取り調べの時に)黙っていた方がいいんじゃないの」と言っても、「僕はそういうのは不得意なんで…」と。それで、「じゃあ、無理に黙秘は勧めないよ」という会話をしたくらいです。後に、録音もしくは録画をしなければ取り調べに応じない、ということにした時も、警察から「話せることはないの?」と聞かれて、彼は「雑談なら」と言って、応じているんです。

ーーなぜ録音・録画をしないと取り調べに応じないことにしたのですか。

実は、問題のウィルス「iesys.exe(アイシス・エグゼ)」に使われたプログラミング言語はC#ですが、彼は「僕はC#は使えない」と言うんですね。ところが、警察が最初に取った身上調書に、彼が使えるプログラミング言語が列挙してあり、その中にC#が入っていたそうです。彼は、C#は他人が書いたプログラムがあって、それが実行できるかどうか確かめろと言われて確かめたことはあるが、自分では書けない、と説明したそうです。そういう大事なことをさりげなく調書に入れ込もうとしていたことが分かったので、調書ができる時のやりとりはちゃんと記録してもらわないと危ない、と思いました。

最初に一般的な録音・録画を求める書面を送りましたが、それに加え、計3回に渡って、強く録音・録画を求めました。本人も、録音・録画をしなければ話せないと警察に明言したところ、捜査官がパソコンで仕事をする前で何時間も黙って座らされることになりました。その後、「話せることはないの?」と言われて雑談に応じたところ、捜査官は雑談に紛れ込ませて事件周辺の話をいろいろ聞いてきた。そういう事実上の取り調べが3時間50分も行われたんです。

なので、検事調べでは、録音・録画をしなければ、留置場の房から出ない、ということにしました。私が彼に接見する時刻までに検事から連絡がなければ、そういう対応をすると通知をしました。時間までに録音・録画に応じる連絡がなかったので、彼には出房拒否をアドバイスしました。決定的証拠があって、供述なしで起訴・公判維持ができる事件とは思えないのに、取り調べを犠牲にしても録音・録画をしないというのは、いったい何なのでしょうか…。

ーー彼がC#を使えないというのは、彼にとって有利な事情ですね。

そうなんです。「それだけで、君は真犯人でない、ということになるのでは?」と聞くと、彼も「そうですね」と答えるんです。でも、彼がその話をしたのは、逮捕されてから6日後のことなんですよ。それで、「そんな大事なことを、何でもっと早く言わないのか。このことを、警察は知っているのか」と聞いたら、最初の身上調書の話が出てきたので、これは録音・録画をしないと危ない、と思ったのです。

ーー彼が普段使っていたプログラミング言語は何ですか。

Javaです。

ーーC++はどうですか。

専門学校の時に資格は取ったと言っていました。

ーーウィルスとか遠隔操作などに興味は?

「ない」と言っています。それで、「セキュリティの開発のためには、(日々進化する)ウィルスとデッドヒートを演じている演じているわけで、そういうことに関心を持つこと自体は悪いことじゃないんだよ」と水を向けてみました。でも、本人は「セキュリティには関係ないし、MALWAREには全く関心がない」と。ハッカーの情報を交換するサイトがあるらしいけど、と聞いても、「そういうのは見たことがありません」と。

それで、彼自身がウィルス対策をどうしているのかを聞いてみました。すると「Win8はウィンドウズディフェンダーがついているし、その前のWin7の時にはマイクロソフトで無料のソフトを手に入れた」とのこと。その程度で大丈夫なのか、と聞いたら、「危険なリンクには近づかないから」と言っていました。

【被疑者の人間像】

ーー片山さんは、実際に会っていて、どんな人ですか?

「オタク」だと言われてましたから、そのつもりで会ったら、印象が全然違った。すごくコミュニケーションが取りやすい人なんですよ。確かにゲームは好きで、「全機種持っています」と言ってましたけど、年に2、3回は山に行ったり、バイクで出かけるなどアウトドアの遊びもしていました。コンパにも出ていましたし、女性とデートしたこともある。今年1月にはパックツアーでイタリア旅行をしているんですが、その時には老夫婦と仲良くなって一緒に食事をしていたそうです。

亡くなったお父さんのことはとても尊敬しています。愛情深い両親のようで、前の事件の時も刑務所に面会に来るなど、彼の立ち直りを支えました。弟一家とも親しく交流していて、幼い姪はテレビで彼のニュースが流れると、「あ、おじちゃんだ」と声を挙げているそうです。報道されている彼のイメージと、実際の彼とはずいぶん違います。

ーー逮捕前に、警察が尾行したりマスコミが写真を撮ったりしていましたが、彼はそれをどう見ていたんでしょう。

全然気付いていないんです。

報道各社に写真やビデオを撮られているのにも全然気がつかなかった報道各社に写真やビデオを撮られているのにも全然気がつかなかった

ーーあんなに多くのカメラが、あんなに近くから撮影しているのに?!

新聞に載っている猫カフェでの写真を見せたら、「こんなの撮ってたんですか?!」と本当に驚いていました。警察は江ノ島の猫から記憶媒体を回収して6日後には彼をマークし始めたと報じられていますが、彼は逮捕されるまで、警察に尾行されているのも知らないままでした。真犯人にしては無防備すぎませんか?

ーー前の事件の時と姓を変えたのは何故ですか。

彼の名前を検索すると、いつまで経っても事件のことが出てきて、これでは就職できないと気にしたからです。両親が協力し、分籍して彼だけの戸籍を作ったんです。そして、今度こういうことになって、彼は「これからどうやって日本で生きていけばいいんだろう」と悩んでいます。

【報道のあり方】

当初、江ノ島の防犯カメラで猫に首輪をつける彼の映像があり、それが決定的な証拠だと報じられました。でも、弁護人がそうした映像がないはずだと指摘すると、いつの間にか立ち消えになって、その後仕事先で使っていたPCに痕跡があるとかいうFBIの話にすり替わっている。あの映像の話はどうなったんですか?報道機関なら、そこをしっかり検証すべきでしょう。なのにそれはやらないまま、警察(の情報操作)に使われている。我々弁護人の主張は、あまり載らない。足利事件や村木さんの事件の教訓は、いったいどこに行ったのですか。

江川 紹子

ジャーナリストより引用


こえの病は、相変わらず

2013年02月18日 | 政治問題

 

今日も声は、おかしい 皆さん 0120の電話に出てしまった。

「●×会社ですが、奥様ですか」違いますと答えると

今度は「御爺ちゃんですか」と予期せぬ問いに、小生、あが、切れた

我が頭の辞書は5、6ページその中の数少ない回答は

5年前に亡くなった爺さんだ、その返答は「そうですか、またかけます」

それじゃー次は、娑婆はさみーから土の中に今度はかけてくんないと答えた。

今日は、講談社から出ている五木寛之の「こころの新書」シリーズなどの古本を読んですごした、

きわめて記憶能力の低い小生は「こころの新書」シリーズ実はもう二桁近く読み返しているのだ。

いわゆる陶片僕なのです、本人が自覚しているのだから間違いない


そのシリーズの中の「サンカの民と被差別の世界」は実に興味深い

これは小説ではなく、ジャンルとしては、エッセイないしは著者自らのフィールドワークによる学術的レポートと呼んで差し支えない本である。

レポートの内容は、タイトルが示すように、サンカその他の、日本のマイノリティについてである。

この本を読めば、日本が単一民族国家であるとか、自分が普段送っている市民生活が、日本という国のすべてだなどと、

ゆめ思ってはならないことを思い知らされる。

例えば、家船(エブネ)である。

瀬戸内海には「家船(えぶね)」と言って、船を家とする人たちがいたらしい。旧正月には母港に集まる。その写真も載っているが壮観である。
東南アジアの一部に、川や海に船を浮かべ、その中で生活する水上生活者がいるが、昭和の時代まで、日本にも家船と呼ばれる水上生活者がいたことは、ほとんど知られていない。

サンカが山の民だとすれば、家船は海の民なのである。

その後、義務教育が始まると、彼らの子どものための学寮が陸上に作られたと言う。ある学寮では、

昭和38年のピーク時には在籍者が150名にも達したそうだが、昭和58年には閉鎖された。しかし、

豊浜にだけは今も学寮が残っているという

「サンカの民と被差別の世界」によると、家船らは船上で生まれ、ほとんど一生を船上で過ごし、必要とあらば沖にもどんどん出て行く。
定まった住所がないため、第二次世界大戦中も赤紙の届きようがなく、戦争の影響も受けなかったのだ。

しかし、昭和27年、全ての国民に住民票登録が義務付けられ、その人々は陸に上がり定住することを強いられたが、

定住後は、文盲であったことや、習慣の相違から差別もあった。
彼らにしてみれば、迷惑な話だっただろう。ある日突然、戸籍や住民票をあてがわれ、先祖代々の生活を全否定され、無理矢理日本国民にされても訳がわからなかったに違いない。
彼らはただの「人間」として生きていただけで、国家への帰属意識などなかっただろう。
そういえば、アイヌやイヌイットも「人間」という意味だった。
国家が近代化するためには、どうしても全体主義にならざるを得ないが、地球上の全ての人間が、定住し、戸籍や住民票を作らされ、徴兵・納税・義務教育をさせられることに向いている訳ではない。

中には先祖代々、そういう生活とは違うライフスタイルを守ってきた人々もいるのだ。
本来それは、優劣や善悪の問題ではなく、ライフスタイルの相違に過ぎない問題だったはずだ。
しかし、国家発展の過程はそのまま、国家の方針と相容れない「まつろわぬ人々」を従わせ、国民としての義務を負わせて来た歴史でもある。

そうした義務の反面、人権問題や、マイノリティの精神的文化遺産を守ることは考慮されて来なかった。

社会が成熟して来た今だからこそ、そうした問題を見直し、マイノリティの子孫が、自らの先祖や出自に誇りが持てるようにすべきである。

例えば、マイノリティが自分達の伝統文化を学びたいと希望した場合、そのための助成金、奨学金を国が負担すべきではないだろうか。
無論、おかしな利権問題とは別次元の話だが。
「サンカの民と被差別の世界」の中で、五木寛之は次のように書いている。

「この列島のなかを、あたかもリンパ球や血球のように流動する人びとが存在する、というイメージをずっと抱いてきた。定住民のあいだを非定住民が漂泊し、流動することによって、日本列島の文化というものはいつも活性化されつづける」
全く同じ価値観、全く同じ生活様式の人しかいなければ、国家に刺激はない。

植物が虫や鳥の力で受粉・果結するように、別の存在からの刺激を受けないと、文化は成熟しない。

沖浦和光氏は、サンカ研究の難しさについて、以下のようにまとめています。

 朝廷や幕府が編纂した正史だけではなく、民間の伝承を綴った稗史にも、「サンカ」の名は見えない。辺鄙な地方に散在していたので、王朝貴族や権門寺社の記録に出てこないと解することもできる。しかし、古代・中世以来の由緒がある集団ならば、どこかにその痕跡が残っているはずだ。

 特定の集団の歴史を調べる場合に、最も重要な手がかりになるのは、その集団の内部で書き残された記録であり、それを補う口碑と伝承である。

 サンカは、無文字社会で生きていたから記録を残さなかったとしても、長い歴史がある集団ならば、口から口へと伝えられた口碑を残したはずだ。ところが、それもない。かつてあった物が、なにかの事情で失われたわけではない。はじめから内部資料は全く残されていないのだ。

古代や中世の文献から「サンカ」の当字らしき漢語を探索して、その名辞でもって起源論を展開してみても

徒労に終わるだけだ。その生活や民族の実態を考察することなしに、呼称にこだわって論じても、その歴史

を解明できないことは目に見えている。

「サンカ」の起源とその歴史を明らかにするためには、とりあえず正確な「サンカ民俗誌」が編まれなければ

ならない。歴史記録がないならば、この民族誌がサンカの実像を明らかにする大きい手掛かりになる。

 しかし、その姿も1950年代後半には見えなくなったので、もはや新しい鍬でもってサンカ民俗の土壌を鋤き直すことはむつかしい。

 確かな資料が集積されないままにサンカについて語ろうとすると、どうしても推定による資料操作になって

しまう。その典型的な例が、三角寛の博士論文『サンカ社会の研究』であった。これなどは腕利きの新聞記者の勘と想像力豊かな小説家

資質がないまぜになって、「サンカ」社会を壮大な仮構の世界として築き上げてしまった好例である。

 柳田國男のように古代からの先住民の末裔だという説もあったが、著者は江戸時代のたび重なる飢饉から逃れて山中に生計の道を探さざるをえなかった人たちがサンカの起源になったとみなしている。天明や天保の飢饉があいついで、餓死者が数多く出る荒廃した幕末期にそのような山中に活路を見出す人たちがあらわれたと考えている。民に関わりがあるところなど、零細的なかわいそうな印象のほうが強い思いがした。

 戦後の「寅さん」の放浪であるとか山下清の放浪などのフィクション物語は人びとの憧れを誘ったものである。松本清張『砂の器』のような零落した放浪もかすかな憧憬を駆り立てる。社会の硬直化や閉塞状況が強くなるたびにそのような思いが強くなる。近代化の国家主義の時代において、や民に近かった零細の民は、都市民の過大なる憧憬やロマンを駆り立てて、

「大いなる虚像」とてつくりあげられていったのだろうと私は思う。 

サンカについては沖浦和光氏の『幻の漂泊民サンカ』以上のことは、あまり書いてなかった。

数冊より引用していますので解りにくい点が有りますが、文学的表現極めて低いのでご了承願います。

なを、特定の人を対象にしておりませんが、表現に誤解が有りましたらはお許しください。

                                                                        つづく

 


人其々に、事情が

2013年02月17日 | Weblog

現在、自民党総務会長として激務をこなしている野田聖子議員(52才)だが、その一方でプライベートでは新たな問題に直面していた。

 野田氏は2011年1月、第三者による卵子提供によって長男・真輝くん(まさき・2才)を出産した。生まれる前から臍帯ヘルニアと心臓疾患という大病を患っていた真輝くんは生後すぐにNICU(新生児集中治療室)へ。いくつものチューブにつながれ、機械に囲まれる生活を余儀なくされた。

 2年間で9回もの手術を繰り返し、何度も生死の境をさまよったが、ついに退院できるまで回復したのだ。しかし、手放しで喜べるわけではない。今度は、退院後の真輝くんには、在宅ケアが必要となってくる。

「入院中は看護師が24時間体制で診てくれましたが、今度は、野田さんたちが自分たちの手で処置や投薬をしなければなりません」(野田氏の知人)

 さらに、老人性うつに悩む母・弘子さん(79才)の介護にも追われている野田氏。そんな現実を前に、昨年末、野田夫妻は3年前に買ったばかりのマンションを引き払い、新居へ引っ越した。

 新居は、都心の閑静な住宅街にある2階建ての一軒家。専用のテラスや暖炉も備え付けられている洋風な造りで、家賃は100万円前後。約260平方メートルの4LDKで、一部屋一部屋が広いのが特徴だ。入居時に相談すれば、バリアフリーにリフォームできることになっていたという。

「真輝くん専用のベッドや椅子を用意するだけでなく、病院にある機械の一部を自宅に入れなければならないため、広いスペースが必要だったそうです。また、弘子さんの症状がさらに進行することや、もうすぐ80才にもなることを考えて段差などがないバリアフリーを充実させたそうです。

 弘子さんは、真輝くんに会うときだけ、シャキッとして症状が出ないんです。4人で住むことで、お母さんの病気がよくなるかもしれないという思いもあったのでしょう」(前出・野田氏の知人)

 家だけではない。さらに野田夫妻は、もうひとつ重大な決断をする。それが野田氏の夫であるAさん(45才)がオーナーを務める韓国料理店の閉店だ。

「野田さんが家族の心配をせずに、国のために思いっきり働けるようにと、Aさんが提案して、自分がふたりの面倒をみることにしたそうです。閉店を決めたときは、スタッフひとりひとりに“申し訳ない”と頭を下げてまわったと聞きました。

 実は、この店はもともと大阪でやってたんです。3年前に野田さんが妊娠したのをきっかけに、Aさんが東京に移店させた。“妻のことを第一に考えている。だから、移店も閉店も惜しくない”って言っていて、本当に奥さん思いの旦那さんなんです」(前出・野田氏の知人)

※女性セブン2013年2月28日号より引用


うましかも風を引く、

2013年02月15日 | 昭和の記録

 

 先週より風邪で困りました。

高熱は有りませんが、声が出ない、のどが痛い、そんな時に限って、電話が多い

仕事の電話では、出ないわけもいかず出たら、声が違うので説明に苦労する結果的に、

言葉数が多くなる、痛みが増す悪循環、母親の教えで、風邪は、のみ薬より寝薬を

実行することに、こえの病ですから、美しく従順な女性が、表れても治りません。

仕方なく、読書と相成りました。

五木寛之と沖浦和光の対談『辺界の輝き』岩波書店(2002/03を読んでいたら、

幼少のころ使っていた、かんくさんに、ついてこんな記述がありました。

 

「群馬県出身の人の話ですが、警官のことを「カンクさん」と子供の頃、言ってたと言うんですよ、

「さん」を付けて、どういう字を書くんだと気になったので、

ちょっと調べてみました。何のことはない、官の狗ですね。

中央政府から派遣されてくる鹿児島(出身の)巡査とか、そういう連中に対して、

                            官の狗だというので、官狗と呼んだ。」

 

 つまり、狗=いぬ 国民を監視する仕事が使命だったのです。

 

高校生のころ官狗と呼んだら、恫喝を受けた記憶が有りますが、

当時私は管区と、自分なりは解釈していたので、

 現在は警官のことを、おまわりさんと、言いますが、

 

おまわりさんとは?

 

「おまわりさん」という言葉は、江戸時代の江戸町奉行所の町方同心(定廻り、

臨時廻り、隠密廻り等)から由来しています。

明治期に入り、薩長藩閥政府は西洋のポリス(警察)制度を導入して最初「同心」に、

代えて「ポリスマン」と呼称していましたが。

江戸庶民は、江戸時代に親しんだ呼称「廻り同心」にちなんで「定廻り」「臨時廻り」等の

「定」「臨時」を略して「御廻りさん」と呼称したのです。

とくに「交番制度」が実施されるとますます庶民に近しくなり「御廻りさん(おまわりさん)」と、

呼称されることになったものです。

だから、もともと「おまわりさん」の「お」はなくても、「廻り(同心)さん」で「一つの単語」だったのですね、

 

なかなか語源の断定というのはむずかいいですね。

 

ちなみに日本警察の父は、幕末薩摩藩士の川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日1834年6月17日) - 明治12年(1879年10月13日)初代大警視(警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」。明治10年(1877年)、西南戦争に際し陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団指揮した。

警察と警察官の在り方を示した川路の語録は後に『警察手眼』(けいさつしゅげん)として編纂され、警察精神の基本論語として現在も警察官に広く読み継がれているらしいですが、平成以降に拝命を受けた警察官には、官狗の意味が解らないのでは、

次回、風邪をひいたらば、現在でも、住民登録のない流民の存在をお伝えしたいと思います。