アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の七拾四 忠治処刑の詳細の弐拾五

2013年12月15日 | 近世の歴史の裏側

 

忠治処刑前夜の、前回の記載内容を、

私は、現在の常識では下記の通りと考えている。

殆どの内容は、概下記の内容である。

忠治は、特に其の酒を所望した。加部安の酒は

非常によい酒であるから、ぜひ一杯飲ませてくれと

言ったのである。飲むと、いい気持になってホ口酔い

機嫌で寝につき、忽ち雷のような鼾を、かいたという。


其れは、忠治は召捕り後、籠により上州より江戸にて、

吟味には、恐らく拷問も有ったかもしれなし、それ以前に、

木崎宿から玉村宿などで、対応に弄び、劣悪且食事も十分に

は取れずにいた、体は極度に、疲労困憊し精神状態も

判断の能力も低くそして、また、上州への旅は辛く苦痛の

日々と考えるのが、私は妥当と思う

その状態で、上記の下線部分の表現は、長旅に疲れ果て、

数か月間は、或いはそれ以上長時間にわたり、酒を飲んでいない

衰弱の激しい忠治の体には、例え一口の酒も、五臓に浸みわたり

そして、眠って鼾をかいた状態は、現在では、決して熟睡で無く

鼾をかくという事は、眠っていても己の耳には、周辺の音は、

騒音として入っていて、熟睡する事が出来ず、結果として眠りが、

浅く、大切な睡眠がしっかり採れて居ないと言う事で、記憶力や、

集中力が低下し、思考力も落ちた状態ですから、翌日の処刑を

脳裏では考えていたと考えるのが妥当だったと思います。

随って、下線部分は極めて創作に近く、加部安の牡丹を飲んだのは、

事実としても、其れは、当時上州の三分限者の加部安が忠治の為に

牡丹を与えて、飲んだ事は、有るが赤城録に記載されている。

内容を読み下しそれを、基に下線部分の表現になったと考えられる

 

                      続く