アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 年譜

2013年09月08日 | 近世の歴史の裏側

○国定忠治 年譜其の壱

 

全て旧暦表示ですので、月日は同じでも、年により、30日前後異なる事が

有りますので、正確な、新暦月日は、お手数でも旧暦にて、

お手数ですが、ご確認願います。


 

文化7年(1810

  忠次郎、佐位郡国定村の名主長岡与左衛門(27)の次男として生まれる。

      母は新田郡綿打村の百姓五右衛門の娘(20)

10年(1813) この年 弟、友蔵(181378)、生まれる。

13年(1816

1月 忠次郎(7)、養寿寺の寺子屋に入るが学問は出来ず。

7月1日 忠次郎の祖父、権太夫(1759-,58)死す。

          この年 日雇い人夫1日百文(百文で白米1升6合)

              忠次郎の兄、信太郎()病死する。

14年(1817

1月    忠次郎(8)、赤堀村の本間道場に通う。

           大前田栄五郎、月田の栄次郎、武井の和太郎と共に

       久宮の丈八を斬り、栄五郎は美濃へ、栄次郎は甲州へ、

和太郎は日光へ国越えする。

文政 2年(1819

5月20日 忠次郎(10)の父与五左衛門(1784-,36)死す。

           与五左衛門は本間道場の本間千太郎と同い年で兄弟弟子。

               父の死後、忠次郎は暴れ者になる。

この年    日雇人足一日100文(蒔入時132文)。白米百文で1升6合。

3年(1820

   正月        大雨が続き、利根川から小川に至るまで氾濫。

       4月   霜により桑が全滅。養蚕はできず、蚕はすべて川に流す。

       5月   13日~6月5日まで休む事なく、雨が降り続く。

   7月    村々に飢民盗賊が横行し長脇差の徒が徘徊するため、木島、

    百々、境町、境村、

女塚、高岡、世良田の7ケ村では自警団を作り、無宿狩りをする。

       8月   初旬~10月1日まで長雨。作物できず大飢饉となる。

4年(1821

   3月百々村の羽鳥弥久(紋次)、無宿となる。

       貞然(1861)、長岡家の菩提寺養寿寺の住職となり寺子屋を営む。

             忠次郎(12)貞然に感化される。

この頃栄五郎、名古屋に住む。

境町太織縞1疋3分から1両で取引される。

       この年  諸国旱魃、窮民の増加。

              忠次郎、田部井村のお町(12)に一目惚れ。

同 5年(1822)大雨のため利根、広瀬川は大洪水を起こし、島村、平塚は大被害を被る。

同 6年(1823

4月    伊香保で馬庭念流と北辰一刀流の額論あり。本間千太郎、参加 する。

              この年諸国に一揆、打ち壊しが多発する。

       7年(1824

      大前田栄五郎、江戸で捕らえられて入牢。佐渡に送られる。

              忠次郎(15)、賭場に出入りするようになる。

同 8年(1825      

3月    お町(16)、伊与久村の深町某のもとに嫁ぐ。

10    忠次郎(16)、お鶴(18087618)を嫁に迎える。

              お鶴は佐位郡今井村の旧家、桐生家に生まれる。

              この年 大前田栄五郎、佐渡を脱島。帰国して川越に潜む。

同 9年(1826      

3月23日  木崎宿、火災。宿並をほぼ焼き尽くす。

9月28日  幕府、無宿者・農民・町人の長脇差携帯を禁止する。

10       忠次郎(17)、浪人を殺し、川越にいる大前田栄五郎(34)を頼る。

この年     関東に地震多発、旱魃(かんばつ)となる。

10年(1827     

2月      幕府、関東全域取締強化のため取締出役の下に改革組合村を設置する。

3月      忠次郎(18)、栄五郎の添書により百々村(境町)の紋次(28)一家へ入る。

紋次は島村の伊三郎(38)の傘下の親分。子分に三ツ木の文蔵(19)がいた。

4月      忠次郎は紋次の紹介で大笹の寅五郎(35)の元に隠れる。

10月6日 関東取締出役、境町に廻村する。

此の頃  忠次郎、国定村に帰るが、お鶴は冷たい。

11年(1828     

  1月      忠次郎(19)、田部井村で出戻りになったお町(19)と再会する。

  5月      忠次郎、お町を妾とし、田部井村に家を持つ。

  11月7日  関東取締出役、村々にて脇差など取締、質屋を調べる。

      この年 武蔵国久下村出身の蘭医村上随憲(40)、境町で開業する。

        養蚕は並だったが、6月1日より大雨が振り出し、7月1日には川が

       氾濫田を埋め、半分以上が実らず。米相場も例年なら

       1両に1石2斗だったが7斗5升になる。

12年(1829     

8月      武州本庄宿御堂坂に佐渡送り囚人の唐丸破り事件起こる。

          忠次郎(20)、三ツ木の文蔵と組み、賭場荒らしを始める。

          忠次郎、玉村の飯売旅籠万屋で豪遊する加部安の若旦那(22)と会う。

天保 元年(1830   

9月      忠次郎(21)、病気になった紋次から駒札を譲り受ける。紋次は隠居する。

              三ツ木の文蔵(22)、国定村の清五郎(21)、曲沢の富五郎(21)

       保泉村の卯之吉(20)、神崎の友五郎(20)、山王道の民五郎(19)、茂呂村の孫

       蔵(19)、田部井村の又八(19)、八寸村の才一(18)、国定村の次郎(18)

       下中の清蔵(17)、新川の秀吉(16)、下植木村の浅次郎(15)、堀口村の定吉(15)

       桐生町のお辰(15)ら、忠次郎の子分になる。

同 2年(1831

         此の頃、忠次郎(22)、島村の伊三郎の賭場を荒らし回る。

10月   高野長英(180450)、境町在住の蘭医村上隧憲(17891865)を訪れる。

渡辺華山(17931841)、上野国を訪れ『毛武遊記』を著す。

この年      五目牛の千代松(22)、甲斐の新十郎(20)、子分となる。

同 3年(1832      

8月19   鼠小僧次郎吉(17971832)、江戸小塚原で処刑される。

               この年 天保の飢饉始まる。米価沸騰。

この年    田中の沢吉(15)子分となる。

同 4年(1833      

5月  忠次郎(24)、島村の伊三郎(44)の賭場へ単身で乗り込み、賭場荒らしに失敗し、

簀巻きにされる。賭場にいた福田屋栄次郎(41)に助けられる。

           福田屋と一緒にいた日光の円蔵(32)、忠次郎の軍師となる。

8月1日    関東、奥羽大風雨となる。

         栄五郎、福田屋栄次郎の仲介で久宮の丈八の跡目豊吉と

手打ち成立。以後、郷里(大胡)に居住する事、多くなる。

この年      八寸村の七兵衛(16)と、赤堀村の相吉(16)が子分になる。

               利根郡では6分作。

この頃      上総屋源七(46)は信州権堂村で飯売旅籠屋を営む。

同 5年(1834      

2月        関東取締出役、寄場組合村に富裕な者の貯穀や江戸積み出し穀物を調査。

6月        忠次郎(25)の一の子分、三ツ木の文蔵が、島村の伊三郎になぐられる。

7月2日    忠次郎、文蔵と共に境村字米岡の林の中で島村の伊三郎(45)

        闇討ち傷口は肩先より背へ掛け1尺7、8寸程、腰の廻りに2、3寸程の傷5ケ所。

7月13   関東取締出役の使いとして木崎宿の問屋軍蔵たちが境村に調べに来る。

            伊三郎殺害の下手人として国定忠次郎と三ツ木文蔵他8人の者が手配される。

            忠次郎は三ツ木の文蔵を伴って、信州の松本に逃亡し、

地元の博徒勝太の家に身を寄せ、ほとぼりの冷めるのを待つ。

               忠次郎、中野まで賭場荒らしに出掛け、鼠小僧に扮し、

銭を窮民にばら蒔く。忠次郎、野沢温泉村で湯女の畔上つ末(19)と出会う。

この年      諸国大飢饉となり、一揆・打ち壊しが多発する。利根郡では豊作。

               栄五郎、長脇差を捨て、木剣を差し始める。

               日真(20)子分となる。

               新川の秀吉(20)捕まるが、放免となって戻る。

同 6年(1835

2月23   中山道倉賀野宿で大火、本陣など200軒以上焼失。

6月25   関東、奥羽に大地震起こり、多数の被害が出る。

7月        忠次郎(26)、草津の長兵衛(24)の元に寄り、田部井村に帰る。

                     草津で五町田の嘉四郎(22)と出会い兄弟分となる。

8月        山王道の民五郎が、玉村の京蔵、主馬兄弟に捕まり頭を半分そり落される。

               玉村一家は子分二百余名と言われていた。忠次郎、民五郎に八寸の才市

        五目牛の秀吉を付けて、玉村に殴り込みを決行させる。兄の京蔵は留守、

弟の主馬に重傷を負わせる。京蔵は甲州から帰るが忠次郎を恐れて逃げ去る。

              清蔵(22)、文蔵の妹やすと祝言を挙げる。

この年   利根郡は6分作。

同 7年(1836      

2月      忠次郎(27)の子分、茅場の長兵衛が信州中野村の忠兵衛の伜源七に殺される。

              忠次郎、長兵衛の仇を討つため、子分を引き連れて中野に行くが源七は捕まった

       後だった。野沢温泉で畔上つ末と再会し、窮民を助ける為に、賭場荒らをしたらしい。

3月10   強いからっ風が吹き荒れる。 


 畔上つ末=くろかみのおつま

 

                           つづく



     


真説 国定忠治 其の弐拾弐

2013年09月07日 | 近世の歴史の裏側

 

○勘助父子を闇討により大手配


 手配の詳細は、真説 国定忠治 其の壱拾四から其の弐拾七であり

其の一部の記載は、下記の通りです。

 

右之者共、当月八日之夜、上州新田郡尾在村百姓勘助親子共、

槍を以殺害いたし、剰勘助首ヲ掻切待参り、其後所々江生首持押入、

金子奪取候者共ニて、召捕方被仰渡候間、何れ追々信越之方江

逃去可申間、組合村々、居酒屋其外商人屋は勿論、番等迄

厳重付置、通筋任者見張之者当月晦日頃迄差出し、右ニ似寄候者

ニても無油断差押へ、手当之上早々其段中山道筋、

我等并同役廻村先任注進可候、以上、

 

                          関東御取締出役

                            石 井 多七郎

                            榎 山 近 平

 

右之外国越之抜道有之候ハヽ此書付相廻し可申候、以上、

上記の指令の他に、


真説 国定忠治 其の弐拾六記載の他に、下記の書付もあります。

 

右之者共之内、無宿之者三人、外に名前無御座候者壱人〆 四人、

大笹村地内車坂ニて大笹人見付、九月廿五目差押へ 搦取、

同月廿六日差立相成、繩附にて村役人弐人差添、 人足差出し、

草津村江送り申し候。


とあるから、これは重大な書置きで、もし忠治一行に間違いないとすると

これは大捕物である。勘助父子を殺して赤城に一度引き上げた後に、

忠治が、赤城山を脱出したとすれば、九月の九日か、十日頃である。

それから日数が二週間余り経過している。しかし、八州取締出役からの

日付が九月二十日であるからその頃山を下ったとすれば、二十五日に

車坂峠で捕えられるたと考えられる。また一行の内の誰が捕えられたか

それは明らかでない。しかし、ハッキリとこう書かねている以上、少くとも

忠治一味の誰が捕えられたのは、間違いない。

なを、上記の者たちは下記の者四名と思われるが、確たる書付などは、

今回は残念ながら得ることが出来なかった。

 堀口村の定吉(28)、三室村の孫蔵、保泉村の宇之吉、他一名で

但し、忠治が同行していたかは、判らないが、信州野沢温泉村には、

その痕跡が有るので後日、記載したい。

                              つづく


真説 国定忠治 其の弐拾壱

2013年09月06日 | 近世の歴史の裏側

 

浅次郎、勘助の首を忠治の元へ


 天保十三年九月二十日の夜明けに、浅次郎が勘助の首をもって、

赤城山の紫藤洞というホラ穴にいた忠治の前にこれを差し出した。

忠治は熊の皮の上に座って首実検をした。左右には、子分達がズラッと

列んで威粛なものであったという、浅次郎には金二分、八入の子分には

金一両ずつを褒美として与えたと云われているが。金壱拾両を出して

「浅次郎には金二両、八入の子分には金一両ずつ渡したとの説もある。」

私憤やる方なく、ついにこのような、筋の通らない事をしなければならな

かったのは、忠治自身への圧迫が、つよまり、危機感がヒシヒシと強まって

きたためかも知れない。事実、天保十三年以降、幕府側の忠治迫究は

にわかに強力になってくる。

この事は次回に、記載致したい。


なを、忠治の菩提寺、養寿寺境内にある。遺品資料館の資料では、

首実検をした後、直ちに草鞋を東奥州(会津周辺)に向けたとある。

 

                          つづく


真説 国定忠治 其の弐拾

2013年09月05日 | 近世の歴史の裏側

 

○三室勘助父子を闇討ち其の壱


この殺人事件は、後に舞台、映画、東海林太郎「赤城の子守唄」になる。

浅太郎は幼児勘太郎を負い、勘助の首を持って泣くなよしよしと、子守唄を

唄いながら赤城山に帰る名場面となるので、詳細に記載したい。

 

天保十三年九月十九日(旧暦では八月は秋である)夜、田部井村に賭場を

開いた。当然賭場を開くのは、八州役人の様子を見て、安全と思う時に

開くが、八州様はすでにこの情報を知っていて、道案内の三室の勘助を

先頭にして賭場を急襲した。賭場にはかならず見張りが居るから、

役人の手入れは直ぐさま賭場に知らされ、危機一発で忠治は日光の円蔵らと

決死の形相で捕手の刃を切りはらいながら、九死に一生を得て脱出したが、

この手入れでまたまた子分の多くを失った。落ち目になったというよりも、

取締りの関東取締出役の力が強大になってきたのである。

結局忠治らは逃げ去ったわけである。 当然賭場は内密に催されるが、

それが八州様に風が行ったのは、だれか仲間が通報したからだとした。

この不意討ちの手入れは、よほど忠治を口惜しがらせたようであった。

絶対役人に洩れるはずがないのに、虚を突いた手入れでもあった。

これは三室の勘助の密告に違いない。絶対の確信をもって行なわれたもの

であったから、恐らく誰か仲間に裏切り者がいて勘前に密告したと思った。

その時、有力な子分であった浅次郎(俗に板割浅太郎)がこの賭場に

いなかったことから、おそらく浅次郎が、当特恵治側の博徒であり

ながら、生活のために時に捕縄十手をあずかるという二足の草鞋を

履いていた三室の勘助に密告したと邪推した。三室の勘助は別に八寸の

勘助、一説には小斎(こざい)村の勘助ともいった。浅次郎の伯父に

あたっていたので、忠治としては、そのとき賭場に板割浅太郎がなく、

浅太郎は勘助の甥であったので、。叔父甥の間柄から、忠治は浅太郎が

襄切って風を送ったので、勘助が先頭になって手入れしたと思ったよう

である。そこですぐさま浅太郎は忠治に呼び出される。浅太郎は絶対に

風は送っていないと言ったが、忠治は承知しなかったのである。

裏切り者であるがら自分の手で成敗するといきり立った。これを見た

日光の円蔵が仲に入り、果して浅太郎が通謀したかどうかの証拠はない。

どうせ勘助が我々の敵として生かしておけないなら、我々の手によって

殺すよりも、浅次郎にやらせたがよいと思う。浅太郎がほんとに通謀

していないというなら、親分の命令にそむく訳はあるまいと、さすが

軍師の名にふさわしい妙案―(浅太郎にとっては肉親の伯父を殺すこと

はこの上ない残酷な命令であった)―を出した。忠治もこれを承知して、

浅太郎に身の潔白を立てるためには、伯父の首をとって、ここに特って

来いと命じたのである。

 

「このくだりが、芝居や映画によく出てくる板割浅太郎の伯父

               勘助殺しの名舞台になるのである。」


天保十三年九月八日

赤城山で首尾いかにと待っている忠治を後にして、浅太郎は山を下り、

検分役として二人、浅太郎の子分五名(赤城録には浅次郎の子分のみ

八名それは角、辰、牧、茂、吉、豊、久、卯という名をあげている)を

つれて夕刻に小斎村に向かった。小斎村は八寸村の小字である。

時に夜の十時頃勘助の家についた。勘助はそんなことが起ころうとは

夢にも知らず、酒に酔って、男の子に添寝して眠っていた。この子が

太郎吉という子であった。浅次郎は、寝ている伯父に槍をひねってその

胸元を突いた。驚いた勘助は飛びあがると、枕元にあった火鉢などを

投げつけた、一瞬行灯が消えて真っ暗になるが、しかし浅次郎の槍で

一突きされた勘助は、大勢の乾分たちにめった切りにされて即死し、

ともに寝ていた太郎吉も殺された。一緒にいだ妾女のお清は、傷を

負ったがたまげて逃げ去ったという。勘助と太郎吉もこれで

一巻のおわりであった。

                      つづく

 

板割

なを、文献により、太郎吉を勘太郎と言ったのは、勘助の息子の意味で

勘太郎と表現したもので、この様な例は他にもある。

 

板割の浅次郎

 もともと浅太郎は屋根屋職人で、むかしの町家は板葺きが多かった。

屋根屋職人は前の晩、適当な長さの栗の木の丸太の四隅を落すと、

あとはぽんぽんと鉈で割った。その手際は見事なもので、翌日使う分を

割るとお仕舞で、割り溜はしなかった。ところが浅太郎はやくざ者で、

板を割らずに槍の稽古ばかりしていて、槍を持たせると名人で、敵が

なかったという。やくざ者だったから自然忠治の仲間になったが、

槍遣いの名人として、仲間内でも頭株であったという。

 

 


真説 国定忠治 其の壱拾九

2013年09月04日 | 近世の歴史の裏側

 

○天保の飢饉と土木工事

享保、天明、天保の三度の凶年を、江戸時代の三大飢饉(ききん)と

よんでいる。この時は上州一帯もひどいものであって、利根・吾妻など

山間部では飢死見出たほどである。天保七年、忠治の大戸開所破りの

二度目を行った。原因は、子分の茅場の兆平が、天保七年の春に

信州の旅先きにおいて、信州のやくざ波羅七(原七が正しい)に

殺された事伴が起こった。忠治は、子分二十名を連れて、鉄砲や槍を

持って急行し、大戸の関所をまかり通り、六里ヶ原を越えて信州に行ったと、

伝えられているが、この件の古文書などは、一切無いので山越えで

所謂、関所破りになったのと推測するが、其れでは面白くない。

ところが、対手の原七は役人に捕えられており(役人の罪で)どうにも

ならず、空しく帰ってきたことがある。帰ると、関東一帯は凶年で大変な

騒ぎであった。忠治がこの時に、有名な土木工事を起こしたことになっている。

忠治は飢えた村民のために金品を与えて救い、赤城近辺の村々は飢えずに

すんだという。赤城録の著者は、「この時予緑野(みどの)郡を宰す、郡は赤城に隣る。

管内餓ふ(莩)なし。忠が事を聞き赧然面無背汗、地縫入る可き無きを恨む」

と記しているが、この緑野郡を宰すというのは岩鼻代官のことをさして

いるのであるが、岩鼻は群馬郡で緑野郡ではない。まして赤城に隣ると

いうのもおかしい。このことから、羽倉外記の「赤城緑」は、

必ずしも全面的に信用できないということもいえる。しかし、たしかに、

忠治が天保の飢饉で人命を救助したことは伝聞であったらしい。

 あくる天保八年になると、田部井村に大賭場を開き、そのテラ銭で、

田部井村向原に在った沼ざらいの工事をした。その土木工事の

人足賃で、貧民を救ったという。これについて、忠治の甥の利喜松の談話は、

「田部井村の名主宇右衛門は忠治と仲がよかったが、代官の平出七之助と

いう者が金三十両を宗右衛門に下附し、沼ざらいをさせたが、宗右衛門は

忠治に十五両をやって沼普請をさせた。忠治は、工事場を設け、

おおっぴらに賭場を開き、負けた者は土をかつがせた。賃銭を得た者は

また十 六勝負をさせた。一時は飲食店まで出て大さわぎだった。

八州の役人もこの時は黙認していたのは、工事の人足か働らかせる

為には、どうしてもバクチを一つの慰安にしたからだ」とこう述べている。

しかし、このこと自体が多くの矛盾を持っている。兇状持ちの忠治が、

土木工事を請負い、しかも堂々と賭博を開いたという事がおかしいし、

関八州の取締りが黙認したということも考えられないはずである。

しかし、当時の為政者、役人側には、毒をもって毒を制する方法は

とられていたから、忠治を逆用して、沼の土ざらいをさせたという事も

考えられないことはない。そうだとすれば、現在の暴力団にも見られる

社会的善行と見せかけて、実は大いにこれでボロい儲けをするという

方法もあるからである。あとにも先きにも、忠治が社会のために

やったと思われるものは、善にしろ悪にしろ、この天保の飢饉の時の

ことであるが、ことの真相はなかなかつかみにくいことである。

この沼は磯沼という溜池だという。

 この磯沼の工事が、偽装したやくざの行動の一つとすれば

むしろ興味ある事といえよう。忠治の賭場のテラ銭を、全部工事費に

つぎこんだという説が真実とすれば、まさに、ある公共事業の費用を、

ギャンブルによってまかなおうという主張と似ていることがわかる。

目的のために手段をえらばない資金稼ぎを、もし幕府の役人が黙認して

いたとすれば、丁度「公共事業の費用と賭け」の近代的意味もあるの

で、一そう興味深い暗示を与える。忠治を、そういう時に逆用したと

すればその役人心なかなかのものであるが、それなれば、ほかに忠治を

使っていろいろの仕事をさせてよいはずである。

とにかく、この間忠治は逮捕もされず、公然と土木工事をしていたと

すれば、殺人、傷害、強盗で指名手配中だから記述自体に矛盾が有る訳で

なをかつ、忠治自身も相当な策略家あるし、宗右衛門が、半分の一五両を

何もしないで懐にした事にもなる。

 

                           つづく

 田部井村向原にあったという、磯沼は、現在の伊勢崎市田部井町

1丁目天神沼と思われるが、確たる証拠はないが、当時から存在した。

 

一 六勝負

ばくち・双六(すごろく)で二つの賽(さい)を振って(さい)の目の裏表で

あるところからさいころの目に一が出るか六が出るか又は、その目に

一と六とが同時に出ることですが、丁半、アトサキ、に比べて極めて

勝率の低い勝負です。

なを、テラ銭の取り分は、5分デラはてんから5%ですから丁半、

アトサキ、など一般的な博打では胴元が勝者より5%(1万円なら500円)

のテラ銭を徴収して付けます。(盆の上の駒は自分のものではありますが、

張った以上は中盆が自分の前に投げるまで触ることはご法度です。)


真説 国定忠治 其の壱拾八

2013年09月03日 | 近世の歴史の裏側

 

○玉村の京蔵・主馬との争い

 天保六年秋のことである。玉村に縄張りを持っていた

京蔵・主馬という兄弟の博徒がいた。子分が二百余名と

いわれた一家で、その勢力は大したものであった。忠治も

この兄弟の勢力ぶりにはかねてから面白くないものがあった。

その一つとして、まず子分の山王の民五郎というのが縄張りに

入りこみ、運悪く兄弟に捕えられた。その強勇ぶりで知られた

京蔵と生馬に国定忠治のまわし者であることを見破られ、

頭を半分そり落されて宜った。みじめな姿で戻った子分を

見て、忠治は我まんできず、民五郎を先に立て

八寸の犀乙(才一が本名)、五目牛の秀吉の二人を添えて、

赤城山から玉村におしかけ、なぐり込みを決行させた。

兄の京蔵は他所へ出て留守であったので、主馬一人が三人を相手に

戦ったが力尽きて遂に斬られ、三人も負傷して赤城山へ引き上げた。

忠治は三人に、「止留めを刺したか」と聞くと、急いだので刺さな

かったというと、顔をしかめて、「止留めを刺さないと何時仕返え

しをするかわからない。ことに主馬は強い奴であるから、きっと

仕かえしをするかも知れない」と言ったという。京蔵は弟のやられた

事を聞いて甲州より走り帰り、仇を討とうと思ったが、忠治の勢力の

大きいのに怖れて村を去った。主馬は不思議に命を拾ったが一生の

片輪者になってしまったという。赤城山に隠れながらも、こうして

忠治は、上州の一円にその勢力を張っていったのである。

 天保十二年に、廃人となりながらも、玉村の主馬は山王の

民五郎をねらい、執拗にも民五郎の近くに出没した。忠治の予言は

的中したのである。忠治の留守を守っていた民五郎を利根川原に

さそい出し、子分の藤七、徳太、和蔵の三人と四人がかりで斬り殺し、

しかも三つ斬りにして川の中に投げ込んでしまった。

首だけを黄木綿に包んで、伊勢崎市連取村の富豪多賀谷源兵衛方に行き、

生首をかたに三十両をゆすったので、ふるえ土がった源兵衛は十五両

出してあやまった。忠治か国定村に帰ってきたのは翌十三年であったが、

民五郎の話をきくと怒りに燃え、子分を差し向けて仇討に向かわせた。

主馬が多数をたのんで反抗すること予定し、西洋製のピストルを持たせ

十八人を一せいに玉村に向けた。主馬は、早くもこのことを知り、

いったんかくれたが発見された。

子分は、これを民五郎の斬られた利根川原に引きずって行き

ズクズタに斬り殺し、三つ斬りにして川の中に放り込んでしまった。

しかもその後さらに、藤七、徳太も捕えられ斬り殺されたが、

和蔵だけは風をくらって逃げてしまった。いかにはげしい殺人の

連続であったかがわかる。しかし、こうしたなぐり込み、仕返しは

現代のやくざのもやっている手段である。私闘とはいえ、

命知らずの暴力は当時としても、正に凄絶そのもので有った事が判る。

 忠治がピストル(回転式)を使用したことは、あるいは不思議と

思われるかも知れないが、この事は、赤城録にもチャンと記しているので

真実であろうと思うし、現に、東村国定の養寿寺には、国定忠治の使った

という単筒とピストル(回転式)や火縄銃二丁が、保存されている。

こういう飛道具をどうして人手したかわからないが、おそらく弘化3年

(1846)秋には、子分を浦賀に派遣して世情を探っている事から。入手は、

可能だったと思うが、おそるべき自衛力であった。

関八州の取締り役人が、容易に近づけなかったのもまた当然で

あったといえよう。

                    つづく


真説 国定忠治 其の弐拾七

2013年09月02日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治の手配各所に亘る 其の弐

 

 石井多七郎の指令書本文

 

上武打込無宿  

               無宿  忠 治

 日 光 円 蔵

 八須村 七兵衛

 保墨村 卯之吉

  同 村 字之助

 下植木村 朝五郎

室 村 茂 八

同 村 孫 蔵

堀口村 元 吉

下田中村 沢五郎

 右之もの可召捕之。

  寅(天保十三年)九月十七目

              関東郷取締出役

                 石井多七郎 判

右之者共手当、

御飛礼写左之通。以飛礼致啓上候。益無御別条御勤仕珍重

存侯。然ハ今般上州国定村最寄ニ而百大科犯し候者共都合八

入有之、大手配ニ御座候。然ル所共最寄甲日、信口〆

切之儀、共近辺大小惣代江得と中談取計候様可給候。尤此

ものへ別紙召捕状相渡差遺候間、委細右ニ而御承知可ヒ下候。 

右申如斯御座候。以上

               関東御取締出役

                  石井多七 判

 寅(天保十三年)九月十七目

               般若村

                 大惣代

                  藤重郎殿

前文之通急御用向ヒ抑越候付、寄揚大小惣代衆御一同御用

弁相皮佐様御頭中上佐。尤夫々使之者口上ニ而申入候間、

御承知ヒ成下候而、人足手当等御添心ヒ成下而奉願上候。

且御村々之慌ニ御座佐間廻章ニ而申上候。御承引可ヒ

成下候。以上

                 般若村

 寅(天保十三年)九月十九目    名主 藤重郎 印

       暮六時

                  古田村 印

                  本野上村

                  大宮郷

                  贄川村

                  並村々

                  大小惣代衆中様

                  御村々     

                  御名主中様

 右之廻状披見之上、大宮郷下二受印いたし綱五郎相返し候

 而、手当之儀何様二取計可然哉之由相尋候処、浦山道もろ

 酒凰辺乱上田野打名主金吾道人足連来ル。廿二目昼与廿四

 日夕迄出張、往来之もの之内悪者躰之者有之者差押へ候様

 御取計可ヒ成旨申間之候付、久保四郎右衛門江も相談之上

 金吾方へ右之趣相達筈。尤同人方へも藤重郎与及沙汰候間、

定而此方へ罷出可申由綱五郎申候間相待居可然と是又

 致相談候。

 九月十七日に、関東取締出役からの廻状が出され、九月二

十日には秩父周辺の村々へ届いて、この書留となった心ので

ある。藤重郎がこれを受けて、十九日付けで寄場組合村々へ

廻し、般若村から二十日にこの大宮郷(秩父大宮)に届いた

ものと思われる。費用や手当が各村負担のため適当にやった

と想像する。

 

般若村は、現在の埼玉県秩父郡小鹿野町般若です。

大宮郷は、秩父郡大宮郷で知行藩領武蔵忍藩であり、

現在は埼玉県秩父市大宮で大宮市とは関係ありません。

文中「」の字は、さく「「州」と異体字です。

  なを、真説 国定忠治 其の八で記載済みの人相書は、

群馬、埼玉、長野、新潟県まで、伊勢崎の町に留まって指揮していた。

関東取締出役の富田錠之助と中山誠一郎から、手配がされたものと

考えられる。江戸時代の近世文書を県下各地及び埼玉、長野県他で

調査致しましたが、忠治に対する手配のような大がかりのものは

他には、記録に有りませんでしたので、私はいかに忠治に対して、

幕府が熱心で集中且執拗な捜査態勢で、望んだかわかると思います。  

                       つづく


古文書は、あえて原文に忠実に記載し、無学な私の解釈では、

誤りが生じる為に、読み下しは最小限に致しております。

以後、ご承知置きの上で拝読頂ければ幸いです。

                      拝

 


真説 国定忠治 其の弐拾六

2013年09月01日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治の手配各所に亘る 其の壱

 

なを、円蔵らを召捕った、車坂()は標高1970mで、アサマ2000パーク

スキー場の近くで当時は、獣道と推定される。

また、同じ様な廻状が各地に達せられたらしく、沼田市下川田にも同じ様な、

ものが村の留書に遺っている。

国定村無宿

                     忠次郎

                  日光無宿

                     円 蔵

                  赤堀無宿

                     相 吉

 右之者召捕に付、関東御取締郷出役様より被似付四方日々

 相かため供人足代其外諸入費惣乄て

  金弐両参歩弐朱 弐拾壱貫四百弐文

 廿四ケ封惣高割にて

  此割合高壱石に付 四歩五朱

  八百四拾弐文   当 村

  弐貫六百七拾五文 屋形原

  五貫五百七拾弐文 下川田村

  四貫四拾四文   今井村

 右之通糸井封名主大惣代藤右衛門殷方へ差出申候

とある。この辺も毎日人足を出して警戒に当ったことがわかり、

越後方面へ逃走する気配もあって特にこの方面心きびしく網を張ったもので

あろう。その費用は一切村方で負担したのであることもわかり、

江戸時代の矛盾した一面がよく出ている。利根郡方面への他の記録に

よると、その年の十一月になっても忠治の行衛がわからず、次ぎのような

廻状がこの方面に出されたことを白沢村の鶴渕螢光氏が報告している。

     (「群馬文化」昭和三十二年三号「国定忠治召捕方の回状」)より引用

 国定村無宿忠次郎其の他同類召し捕り方に付、其筋の手配

 申談置渓処、今以て同人行衛不相知、尤同類之内日光無宿

 円蔵差押、明十九日差立候。右ニ付最早出張致シ居り候に

 者不及候間。出口々村方に而者此上精々心掛、怪敷もの者

 差押置、早速可申越旨談置、手配之者者引払候様可被致候。

自分共茂明日者伊勢崎町を一ト先引払候。此書付、早

 々順達無洩落夫々可被申通候。以上

  寅(天保十三年)十一月十八日

    午の上刻

            伊勢崎町御用先

              関東御取締出役

                 富田良之前

                 中山誠一郎

   勢多郡 水井 輪組

   利根郡 平川

    右出張惣代中

 迫而真順能刻付を以早々可被継立候。以上

 大急、御用内申遣渓間、乍厄介、所ニ順達可被下候。以上

   寅十一月二十日 卯の上刻出

輪組村出張先

                  太惣代 藤右衛門

    日影南郷村 小松村 根利村

     右村々  名主役人衆中様

 この廻状によってもわかるように、日光の円蔵はこの以前に捕えられて

いたことがわかり、また出役の中山誠一郎と富田錠之助が、十一月十九日まで

、伊勢崎を根拠として手配の指揮をしていたことがわかる。本気で対処した

一面がよく出ている。

 埼玉県秩父市立図書館の下記の記録写しにも、忠治一味の逮捕手配書がある。

元秩父市立図書館長根岸万作氏の提供によるものである。これは、すでに

田村栄太郎、三田村鳶魚の二氏も引用ずみのものである有名な文書である。

内容は、勘助殺しのあった九月八目から九日後のものであって、その点でも

価値は高い。取締出役の石井多七郎から埼玉県般若村の組合村大惣代の

藤重郎に宛てたものである。この書状の包紙には

 「御圧伏写。廻章、般若村名主藤重郎、四ケ所御寄場並御村々御役人中様」

とあり、天保十三年九月廿日の条に「御取締出役石井多七郎様御用筋ニ而皆野村

綱五郎外三人罷越侯ニ付かとや角蔵方江宿申達侯。且綱五郎左之廻状持参侯付披

見之上受印いたし遺ス」と前書きがしてある。まず、石井多七郎

の指令書が最初にある。

 


 日影南郷村 小松村 根利村


現在の群馬県沼田市利根町日影南郷、根利は、62号線が通り122号線

(東国文化歴史街道)に交わり文献に、よれば戦国時代よりあり沼田から

日光への主要道であった。現在は、日影南郷に源泉100%掛け流し天然温泉

「しゃくなげの湯」が賑い、根利は夏場、道路沿いに大根、キャベツ、

トマトの店が有り標高1000m前後で栽培される為、害虫が少なく殆ど

無農薬栽培です。価格も格外は、大根30円以下、キャベツ50円以下と破格。

 また、日本100名山「皇海山」の知る人ぞ知る近道の入口ですが、猿、熊、鹿に

度々お会いします。