アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐拾五 ○忠治、病に倒れる。

2013年09月13日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治、病に倒れる。

 

忠治の妻をお鶴といい、妾をお町といったが、さらに五目牛村の

お徳というのを妾にしていたが、すでにかつての国定一家の勢いはなく、

上州にいては安心出来ない。そのため奥州へ逃げて隠れようとし、

嘉永二年十一月、縄張りと駒札を境村安五郎にゆずったが、

すぐに旅立つことが出来なかった。

 そして翌三年七月二十一日夜、お町の兄、庄八の家で

お町と臥したが、俄に中風(脳溢血)を起こし、目を見開き、

口からはよだれを出す、お町は驚いて「親分、親分」と呼んだが、

やっと半身を少し動かしただけであった。お町はすぐさま使いを走らし、

忠治の弟の友蔵や、境村安五郎を呼んだ。二人は色々相談の上、

お徳の家なら人手も多く、看病が行き届くと言って、

翌日途中で発病したと言って、忠治をお徳の家へ送りつけた。

しかし友蔵らの偽りを知ったお徳は、すぐさま忠治の身柄を

お町の元に送り帰している。 

 その時、田部井村の名主宇右衛門は、忠治の仲間でしきりに

悪銭を貪っていたが、忠治が御用なるとこの身が危ない。

忠治を引取って、お上へ通報すれば、お情けが得られると考えて

忠治の身柄を引取り、蔵の中においてその機会を狙った。

半身不随の忠治にはもう何事も出来ず、また金もない、

そのため前橋にいる大前田栄五郎に、使いをやって十両ほど借りている。

大前田は金を与えるとともに手紙をそえ、「もう逃げ隠れ出来ないから、

覚悟した方がよいと」言いよこした。しかし忠治には自殺する

度胸は無かったのである。周囲の捕り方の中にあっては、

召捕られるのはわかっている。召捕られれば死罪で、

惨めな死ざまはわかっているが、それでも忠治は自決しなかった。

又、有る説では、「中風は、不治の病であるから医薬は聞かない。

 速やかに此処を去って逃れよ」と、手紙に記したとの説もある。


                     つづく