○忠治、病に倒れる。
忠治の妻をお鶴といい、妾をお町といったが、さらに五目牛村の
お徳というのを妾にしていたが、すでにかつての国定一家の勢いはなく、
上州にいては安心出来ない。そのため奥州へ逃げて隠れようとし、
嘉永二年十一月、縄張りと駒札を境村安五郎にゆずったが、
すぐに旅立つことが出来なかった。
そして翌三年七月二十一日夜、お町の兄、庄八の家で
お町と臥したが、俄に中風(脳溢血)を起こし、目を見開き、
口からはよだれを出す、お町は驚いて「親分、親分」と呼んだが、
やっと半身を少し動かしただけであった。お町はすぐさま使いを走らし、
忠治の弟の友蔵や、境村安五郎を呼んだ。二人は色々相談の上、
お徳の家なら人手も多く、看病が行き届くと言って、
翌日途中で発病したと言って、忠治をお徳の家へ送りつけた。
しかし友蔵らの偽りを知ったお徳は、すぐさま忠治の身柄を
お町の元に送り帰している。
その時、田部井村の名主宇右衛門は、忠治の仲間でしきりに
悪銭を貪っていたが、忠治が御用なるとこの身が危ない。
忠治を引取って、お上へ通報すれば、お情けが得られると考えて
忠治の身柄を引取り、蔵の中においてその機会を狙った。
半身不随の忠治にはもう何事も出来ず、また金もない、
そのため前橋にいる大前田栄五郎に、使いをやって十両ほど借りている。
大前田は金を与えるとともに手紙をそえ、「もう逃げ隠れ出来ないから、
覚悟した方がよいと」言いよこした。しかし忠治には自殺する
度胸は無かったのである。周囲の捕り方の中にあっては、
召捕られるのはわかっている。召捕られれば死罪で、
惨めな死ざまはわかっているが、それでも忠治は自決しなかった。
又、有る説では、「中風は、不治の病であるから医薬は聞かない。
速やかに此処を去って逃れよ」と、手紙に記したとの説もある。
つづく