アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐拾壱

2013年09月06日 | 近世の歴史の裏側

 

浅次郎、勘助の首を忠治の元へ


 天保十三年九月二十日の夜明けに、浅次郎が勘助の首をもって、

赤城山の紫藤洞というホラ穴にいた忠治の前にこれを差し出した。

忠治は熊の皮の上に座って首実検をした。左右には、子分達がズラッと

列んで威粛なものであったという、浅次郎には金二分、八入の子分には

金一両ずつを褒美として与えたと云われているが。金壱拾両を出して

「浅次郎には金二両、八入の子分には金一両ずつ渡したとの説もある。」

私憤やる方なく、ついにこのような、筋の通らない事をしなければならな

かったのは、忠治自身への圧迫が、つよまり、危機感がヒシヒシと強まって

きたためかも知れない。事実、天保十三年以降、幕府側の忠治迫究は

にわかに強力になってくる。

この事は次回に、記載致したい。


なを、忠治の菩提寺、養寿寺境内にある。遺品資料館の資料では、

首実検をした後、直ちに草鞋を東奥州(会津周辺)に向けたとある。

 

                          つづく