○忠治の手配各所に亘る 其の弐
石井多七郎の指令書本文
上武打込無宿
無宿 忠 治
日 光 円 蔵
八須村 七兵衛
保墨村 卯之吉
同 村 字之助
下植木村 朝五郎
室 村 茂 八
同 村 孫 蔵
堀口村 元 吉
下田中村 沢五郎
右之もの可召捕之。
寅(天保十三年)九月十七目
関東郷取締出役
石井多七郎 判
右之者共手当、
御飛礼写左之通。以飛礼致啓上候。益無御別条御勤仕珍重
存侯。然ハ今般上州国定村最寄ニ而百大科犯し候者共都合八
入有之、大手配ニ御座候。然ル所共最寄甲日、信口〆
切之儀、共近辺大小惣代江得と中談取計候様可給候。尤此
ものへ別紙召捕状相渡差遺候間、委細右ニ而御承知可ヒ下候。
右申如斯御座候。以上
関東御取締出役
石井多七郎 判
寅(天保十三年)九月十七目
般若村
大惣代
藤重郎殿
前文之通急御用向ヒ抑越候付、寄揚大小惣代衆御一同御用
弁相皮佐様御頭中上佐。尤夫々使之者口上ニ而申入候間、
御承知ヒ成下候而、人足手当等御添心ヒ成下而奉願上候。
且御村々之慌ニ御座佐間廻章ニ而申上候。御承引可ヒ
成下候。以上
般若村
寅(天保十三年)九月十九目 名主 藤重郎 印
暮六時
古田村 印
本野上村
大宮郷
贄川村
並村々
大小惣代衆中様
御村々
御名主中様
右之廻状披見之上、大宮郷下二受印いたし綱五郎相返し候
而、手当之儀何様二取計可然哉之由相尋候処、浦山道もろ
酒凰辺乱上田野打名主金吾道人足連来ル。廿二目昼与廿四
日夕迄出張、往来之もの之内悪者躰之者有之者差押へ候様
御取計可ヒ成旨申間之候付、久保四郎右衛門江も相談之上
金吾方へ右之趣相達筈。尤同人方へも藤重郎与及沙汰候間、
定而此方へ罷出可申由綱五郎申候間相待居可然と是又
致相談候。
九月十七日に、関東取締出役からの廻状が出され、九月二
十日には秩父周辺の村々へ届いて、この書留となった心ので
ある。藤重郎がこれを受けて、十九日付けで寄場組合村々へ
廻し、般若村から二十日にこの大宮郷(秩父大宮)に届いた
ものと思われる。費用や手当が各村負担のため適当にやった
と想像する。
般若村は、現在の埼玉県秩父郡小鹿野町般若です。
大宮郷は、秩父郡大宮郷で知行藩領武蔵忍藩であり、
現在は埼玉県秩父市大宮で大宮市とは関係ありません。
文中「」の字は、さく「「州」と異体字です。
なを、真説 国定忠治 其の八で記載済みの人相書は、
群馬、埼玉、長野、新潟県まで、伊勢崎の町に留まって指揮していた。
関東取締出役の富田錠之助と中山誠一郎から、手配がされたものと
考えられる。江戸時代の近世文書を県下各地及び埼玉、長野県他で
調査致しましたが、忠治に対する手配のような大がかりのものは
他には、記録に有りませんでしたので、私はいかに忠治に対して、
幕府が熱心で集中且執拗な捜査態勢で、望んだかわかると思います。
つづく
古文書は、あえて原文に忠実に記載し、無学な私の解釈では、
誤りが生じる為に、読み下しは最小限に致しております。
以後、ご承知置きの上で拝読頂ければ幸いです。
拝
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