○勘助父子を闇討により大手配
手配の詳細は、真説 国定忠治 其の壱拾四から其の弐拾七であり
其の一部の記載は、下記の通りです。
右之者共、当月八日之夜、上州新田郡尾在村百姓勘助親子共、
槍を以殺害いたし、剰勘助首ヲ掻切待参り、其後所々江生首持押入、
金子奪取候者共ニて、召捕方被仰渡候間、何れ追々信越之方江
逃去可申間、組合村々、居酒屋其外商人屋は勿論、番等迄
厳重申付置、通筋任者見張之者当月晦日頃迄差出し、右ニ似寄候者
ニても無油断差押へ、手当之上早々其段中山道筋、
我等并同役廻村先任注進可申候、以上、
関東御取締出役
石 井 多七郎
榎 山 近 平
右之外国越之抜道有之候ハヽ此書付相廻し可申候、以上、
上記の指令の他に、
真説 国定忠治 其の弐拾六記載の他に、下記の書付もあります。
右之者共之内、無宿之者三人、外に名前無御座候者壱人〆 四人、
大笹村地内車坂ニて大笹人見付、九月廿五目差押へ 搦取、
同月廿六日差立相成、繩附にて村役人弐人差添、 人足差出し、
草津村江送り申し候。
とあるから、これは重大な書置きで、もし忠治一行に間違いないとすると
これは大捕物である。勘助父子を殺して赤城に一度引き上げた後に、
忠治が、赤城山を脱出したとすれば、九月の九日か、十日頃である。
それから日数が二週間余り経過している。しかし、八州取締出役からの
日付が九月二十日であるからその頃山を下ったとすれば、二十五日に
車坂峠で捕えられるたと考えられる。また一行の内の誰が捕えられたか
それは明らかでない。しかし、ハッキリとこう書かねている以上、少くとも
忠治一味の誰が捕えられたのは、間違いない。
なを、上記の者たちは下記の者四名と思われるが、確たる書付などは、
今回は残念ながら得ることが出来なかった。
堀口村の定吉(28)、三室村の孫蔵、保泉村の宇之吉、他一名で
但し、忠治が同行していたかは、判らないが、信州野沢温泉村には、
その痕跡が有るので後日、記載したい。
つづく