アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の参拾 忠治玉村宿へ移送

2013年09月19日 | 近世の歴史の裏側

 

◎忠治玉村宿へ移送

 

 木崎宿から一時また伊勢崎に移された忠治の身柄は、

九月二十八日に玉村宿に移された。同地の「三右衛門日記」に、

 

  嘉永三年(九月)二十八日、大フリ、御用宿詰、

同日組合村々へ我等ノ添印ニテ囚人預ケ仰セ付ケラレノ廻文ヲ差出ス、

 

囚人二人   忠次郎 戌四拾二才       福島村 長   七

           おまち              紅左衛門  

    

                     宿  河屋喜蔵        

                     宿  松   屋   

                       宿  五 兵 衛

                     宿  石原屋円蔵

       南玉村 五 平 衛

                     宿  石原屋円蔵

 同 壱人

    囚人            国定村百姓八五郎事

                     清五郎  年四十二才


右ノ者、御用宿詰メ

 

玉村宿には十六・七日居たようで、中風もよほど快復したらしいが、

 

                           つづく


真説 国定忠治 其の弐拾九 ○忠治 関係者の処分内容

2013年09月18日 | 近世の歴史の裏側

○忠治 関係者の処分内容


追放は三日のうちに居村を引き払うわけで、左三郎は田畑欠所であるから、

四反五畝の田は小前の入札となり、一両二分に落札された。

しかしこの入札には地頭役人の出張費が三両、御役人希代一両ほか、

合せて十両二分がかかり、欠所金一両二分を差し引いても、

宿方には大変な入用があった。

軽追放の左三郎は、翌年木崎宿に立入り、これを見咎められて召捕られ、

今度は中追放に処せられた。

追放者は自分の在所に絶対立ち入ることが出来ないが、

ただ先祖の墓参りと言えば許されたが、それは笠を

冠っていなければならないが、左三郎は笠をぬいで

泊っていたので捕えられた。もちろん左三郎を宿したものも処罰されている。

                      (木崎 福島文雄氏文書)


                               つづく


真説 国定忠治 其の弐拾八 ○忠治 関係者の処分

2013年09月17日 | 近世の歴史の裏側

忠治 関係者の処分

 此の頃世良田村に幸助、木崎宿に左三郎、馬太郎、太田宿に苫吉という

道案内がいたが、忠治が病倒して逃げ隠れ出来ない。

そのため八州様の「御手配御見遣可貰含を以て」

忠治方から国定村の次郎右衛門と八寸村の七兵衛から、

木崎宿の左三郎世良田村の幸助に九両と、世話料一両が渡された。

幸助は左三郎、馬太郎、苫吉へそれぞれ三両ずつ遺ったわけである。

しかし八州方への内頼みが出来ないうちに、忠治は召捕られてしまった。

つまり、賄賂を渡そうとしたが、間に合わず贈賄未遂で捕まったのである

しかしその代償は大きかった、処罰の結果は、まちと徳は「押込み」、

忠治が病気になった時に、賄賂を贈り見逃がしてくれるように

運勤した時に勤いた国定村の次郎右衛門と八寸村の七兵衛は

 「所追放」、同じくその賄賂を受取り、木崎宿の道案内左三

郎に渡した世良田村の幸助は「過料三言文」、それを受取った道案内の

木崎宿の左三郎と馬太郎は左三郎「軽追放」、馬太郎は「江戸十里四方追放」、

忠治の妾まちを、忠治の弟友蔵の籍に入れ、また忠治が中気になった時

これを面倒見てかばった国定村の村役人であった又兵衛、助兵衛、勇右衛門、

和吉は、又兵衛「過料五貫文」に、助兵衛外三人は「過料三貫文」、

まちの兄庄八は、妹を忠治の妾としたということで

 「過料三貫文」、田部井村名主西野目宇右衛門は「死罪」、

その妻ゆうと子の宇三郎は「急度お叱り」、田部井村役人の

長右衛門、平八、伝右衛門は、宇右衛門の家へ忠治を隠した

ことを知らなかったということで「急度お叱り」。

国定村の清五郎は忠治一味の博徒であり、発病した忠治を隠したこと

捕方買収などの罪で重い「遠島」(島流し)、喜代松は死後であったので、

「中追放」の執行なしとなった。

 苫吉をのぞいた三人は、忠治お仕置きのあと、江戸池田播磨守から、

この年十二月二十六日に判決があって、幸助は過料銭五貫文、

左三郎は百姓の身分で軽追放田畑欠所、馬太郎は店借だったので

江戸拾里四方追放の処分になった。


真説 国定忠治 其の弐拾七 捕らえられた忠治は

2013年09月16日 | 近世の歴史の裏側

 


捕らえられた忠治は、半身不随の重体のため、取り調べが出来ず、

江戸に送ることも出来ないので、一時伊勢崎藩の陣屋内に

ある中島牢に入れられたが、中風はいつまで経っても良く

ならないので、伊勢崎藩ももてあましてしまい、九月初旬になり、

忠治の身柄は木崎宿に移されたが、木崎宿でも番人足

に困ってしまい、つぎのような廻状が出されている。

  廻 状                    寄    太  田  宿

  此度国定村無宿忠次郎召捕之処、同人儀病気二付当分調方

不相成、依之快気迄木崎宿江預ケ置、右者不容易囚人二付、

一昼夜番人足六人ツ乃甲付置候処、多人数之儀二付、

右宿而巳者甚難儀可致間、其組合江番人足助合中付候間、

其意中合人足可枝差出候、此書付披見之上、木崎宿江相通、

自分方へ可枝相届ケ候、以上、

       戌九月(十日)

                  関東御取締出役

                    中 山 誠一郎

                              伊勢崎町

                              尾 島村

  太 田 宿

                  右寄場役人

                   大小惣代中     (太田 須藤岩雄氏蔵)

 重罪犯人であるから、一昼夜六人の番人がつけられて、

よほど厳重に監視したようであるが、番人足入用がかかるわけで、

それは大変な金額になる。そのため寄場組合というのがあって、

一宿負担でなく、多くの組合村が平均負担する仕組みになっていたが、

あまり多く番人足負担に耐えかねたわけで、さらに多くの組合村からの

入用負担を願ったのである。

 

 


真説 国定忠治 其の弐拾六 ○忠治ついに召捕りお縄に

2013年09月14日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治ついに召捕りお縄に

 

 嘉永三年八月二十四日、忠治の居場所がわかったので、

八州役人中山誠一郎、羽倉外記、関畝四郎が三方から忠治召捕りに向い、

結局、関畝四郎の手によって召捕られた。そのとき忠治のそばにいた

名主宇右衛門、お町、お徳、子分の清吾ら十余人を召捕ったという。

そのほか忠治の弟友蔵、安五郎、沢吉、清蔵らがいたが、

これは風をくらって逃げてしまった。・

 赤城録に言う、忠治の乾分は七・八百人があり、集れと言えば、

一日に四百人の乾分が集まり、十日あれば四千人が集ったとある。

半身不随で所在はやがてお上にわかってしまう。八州役人の踏込みは眼前で、

何故この必死のときに四百人の乾分を集めて、なぜポデーガードしなかったの

であろう。

さらに四千人で忠治を守れば、八州役人といえども手の出るものではない。

赤城録を書いた羽倉外記は、一度も忠治を見ていないし、

取り調べも行なっていない。そのため世間の風聞を書き留めたのであるが、

いずれにしても一番早い忠治伝で、当時はかような文章が本当のように、

思いこまれたらしい。ただ一つ、忠治一党の処刑記録だけは、

その任務にあったので、これは信じてよいであろう。


                         つづく


真説 国定忠治 其の弐拾五 ○忠治、病に倒れる。

2013年09月13日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治、病に倒れる。

 

忠治の妻をお鶴といい、妾をお町といったが、さらに五目牛村の

お徳というのを妾にしていたが、すでにかつての国定一家の勢いはなく、

上州にいては安心出来ない。そのため奥州へ逃げて隠れようとし、

嘉永二年十一月、縄張りと駒札を境村安五郎にゆずったが、

すぐに旅立つことが出来なかった。

 そして翌三年七月二十一日夜、お町の兄、庄八の家で

お町と臥したが、俄に中風(脳溢血)を起こし、目を見開き、

口からはよだれを出す、お町は驚いて「親分、親分」と呼んだが、

やっと半身を少し動かしただけであった。お町はすぐさま使いを走らし、

忠治の弟の友蔵や、境村安五郎を呼んだ。二人は色々相談の上、

お徳の家なら人手も多く、看病が行き届くと言って、

翌日途中で発病したと言って、忠治をお徳の家へ送りつけた。

しかし友蔵らの偽りを知ったお徳は、すぐさま忠治の身柄を

お町の元に送り帰している。 

 その時、田部井村の名主宇右衛門は、忠治の仲間でしきりに

悪銭を貪っていたが、忠治が御用なるとこの身が危ない。

忠治を引取って、お上へ通報すれば、お情けが得られると考えて

忠治の身柄を引取り、蔵の中においてその機会を狙った。

半身不随の忠治にはもう何事も出来ず、また金もない、

そのため前橋にいる大前田栄五郎に、使いをやって十両ほど借りている。

大前田は金を与えるとともに手紙をそえ、「もう逃げ隠れ出来ないから、

覚悟した方がよいと」言いよこした。しかし忠治には自殺する

度胸は無かったのである。周囲の捕り方の中にあっては、

召捕られるのはわかっている。召捕られれば死罪で、

惨めな死ざまはわかっているが、それでも忠治は自決しなかった。

又、有る説では、「中風は、不治の病であるから医薬は聞かない。

 速やかに此処を去って逃れよ」と、手紙に記したとの説もある。


                     つづく


真説 国定忠治 年譜其の弐 ○年譜 其の弐

2013年09月12日 | 近世の歴史の裏側

 

○年譜 其の弐

 

天保7年(1836

   4月末~ 6月一杯まで雨が降り続く。冷夏となり、夏に袷を着る。

8月29日  谷川岳、三国山に雪が降る。

9月        忠次郎、郷里に帰るが取締が厳しく、赤城山に籠もる。

              大久保村の中島栄作(16)、赤城山に来て、忠次郎の子分になる。

11        大間々を中心とした米騒動が起こる。

              長雨冷害で作物できず、

              力士崩れの境川の安五郎(22)、子分になる。

 

同 8年(1837     

2月19   大坂町奉行所元与力大塩平八郎(17931837)、大坂で乱を起こす。

3月        飢饉のため穀相場が高騰する。

4月        諸国に疫病流行。将軍家斉、家茂に将軍職を譲る。

6月        忠次郎(28)、田部井村向原の磯沼の沼浚いを行うという説もある。

              田部井村名主西野目宇右衛門は磯沼浚渫の費用を工面するため、 忠次郎の

博奕を黙認し、田部井村に出作地を持つ友蔵の出金に見せかけて、上がりの

17両を受け取る。

9月2日  将軍が代わり、巡検使が見回る為村方や宿場の取締が厳重になる。

この年  虎五郎(24)、江戸屋に入婿する。

           冷害による凶作のため、利根・吾妻地方で多数の餓死者が出る。

              
同 9年(1838

 

 3月26    三ツ木の文蔵、新田郡世良田村の賭場(朝日屋)で関東取締出役に逮捕され、

木崎宿の牢に留置される。同時に佐位郡八寸村の才市も捕らえられる。

忠次郎(29)は、文蔵たちを力で奪い返す計画を立て、子分多数を引き連れて

木崎宿近辺の三ツ木山に集結して隙を窺ったが、関東取締出役が農民などを動員

して厳戒体制を敷いていたため失敗する。その後、忠次郎らは旅に出る。

4月17   御領所御巡検、伊勢崎に泊まり、国定村で御弁当を食す。

6月        幕府、農民・町人所持の金銀具を金銀座に差し出させる。

              この年 関東取締出役、農村の諸営業調査を行う。

              神崎の友五郎、紀州藩の手で召し捕られ、忠次郎の名を騙る。

              兄弟分の清五郎、足を洗う。

10年(1839     

5月14   幕政批判等により、渡辺華山・高野長英が捕らえられる。

          この年勢多郡花輪村出身の戯作者二世十返舎一九、江戸から赤城山に隠れる。

          忠次郎(30)、逃亡中。金毘羅宮に行く途中、岐阜で人助けをした話がある。

             八寸村の才市(27)、さらし首にされる。

11年(1840

1月   忠次郎(31)、逃亡中、四国の金毘羅宮を参拝したといられるが、確たる証無

4月   五目牛の千代松(31)、お徳(25)を妻にする。

6月   イギリスと清国間にアヘン戦争起こる。

6月29日三ツ木の文蔵(32)、伝馬町で斬首され3日間晒される。

9月   浪人大久保一角(42)、忠次郎の居候となる。

1230日 平田篤胤(17761843)、著書発禁・江戸追放を命じられる。

            神崎の友五郎(30)、さらし首にされる。

この頃      上総屋源七、木崎宿で飯売旅籠屋を始める。

12年(1841

1月30   11代将軍家斉(69)没。

5月15   幕府、天保の改革を始める。  


  5月       関東取締出役に臨時取締出役26人が加えられる。


 1011   渡辺華山(49)、三河国田原藩の蟄居先で自害する

 

暮れ      留守を守っていた山王道の民五郎(30)、利根河原で玉村の主馬になぶり殺しにされ。

             主馬は子分の藤七、徳太、和蔵と四人掛かりで民五郎を三つ斬りにして、利根川に

       投げ捨て、首だけを黄木綿に包んで、伊勢崎連取村の富豪多賀谷源兵衛方に行き、

       生首を片に30両をゆする。源兵衛は15両出して謝る。

13年(1842

1月        帰って来た忠次郎(33)、玉村に押しかけ、主馬を殺す。

                子分の藤七、徳太も殺すが、和蔵に逃げられる。

2月26日  幕府、賭博を厳禁する。

3月11日  百々村の門次(紋次)死す。

3月15   幕府、女師匠を禁止する。18日、隠売女を禁止する。矢場女も禁止。

6月4日  幕府、絵双紙を禁止する。

7月27日 笹川繁蔵(181944)の花会。忠次郎、参加する。

7月30日  幕府、役者絵を禁止する。

8月         弟の友蔵、忠次郎に40両借り、借用証文を書く。


                友蔵は新田郡本町村糸繭商人仲間議定書に名を、連ねる国定村六人の

糸繭商人の一人。

8月19日    忠次郎は最大の拠点である田部井村の又八の家で、多数の人々を集めて

博奕を盛大に行う。これを知った関東取締出役の吉田左五郎は、大勢の捕手を

従えて又八の家を包囲し賭場を急襲する。この時、忠次郎と『兄弟の契り』を

していた無宿の浅次郎が姿を見せなかったので、子分と共に血路を開いて赤城山に

逃げ帰った忠次郎は、彼の行動に深い疑いを持ち、身の潔白を証明させる事にした。

浅次郎の伯父八寸村の勘助は博徒でありながら関東取締出役の道案内をしていた。

               大勢の子分が捕まる。

9月13日    下植木(板割)の浅次郎、八寸村の目明し中島勘助(43)・太郎吉(2)父子を殺す。

槍で殺害、長脇差で首を掻き斬る。

              忠次郎、関東取締出役より二度目の大手配となる。

           直ちに、関東取締出役の中山誠一郎と富田錠之助が伊勢崎を

拠点として手配の指揮に当たる。

              忠次郎、大久保一角(45)に連れられて下野都賀郡大久保村に隠れる。


 ブログ規定の文字数規定により、年譜を、一度に掲載できませんので、ご了承ください。

なを、旧暦の為、現在の暦とは、約三十日前後異なりますので、+30を加えて頂くと概略の日にちになります。


                                             つづく


真説 国定忠治 其の弐拾四

2013年09月11日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治逃亡も終焉を迎える。

 

この逃遊行のとき、乾分田中村の沢吉は、越後へ逃げたという

情報があって、八州方は越後方面に手配している。

しかしそこには同じ上州生まれの無宿沢吉はいたが、

忠治一党の田中沢吉ではなかったのである。

いずれにしても全国的な大手配があったようである。

この沢吉は忠治お仕置きのあと、また登場することになる。

 いずれにしても信州に逃げ延びた忠治は、松本の博奕の親分の

勝太という者の所に隠れたが、転々として、追剥ぎや集団強盗

していたのであろう。何れにしても信州に入ってから、多くの

乾分が召捕られたようであるが、忠治はついに逃げ通していた。

 天保十三年秋、三室勘助を殺害してから、八州様の厳重な取締りで、

多くの乾分が召捕られて死罪になり年月が経った。

いつまでも旅の空では落ちつけない訳で、ようやく上州方面の騒ぎも

おさまり、赤城録には「丙午冬、忠治還赤城」とある。

丙午は弘化三年のことである。赤城山に隠れたが、すでに多くの

乾分は召捕られて死罪になってしまい、忠治の身辺に有力なものはなく、

むかしの勢威はなくなっていたと考えられる。


                  つづく


真説 国定忠治 年譜補足

2013年09月10日 | 近世の歴史の裏側

 

〇忠治の年譜の補足


【ひき】

織物の長さを表す単位。反物2反分の長さを1疋という。

並幅(約36cm)で,長さは22m前後。1疋でおとな用の着物と

羽織を対(つい)にして仕立てることが出来きました。

忠治の身長が、5尺五分で、152cm位になりますので、

当時の平均身長は160cm位前後と言われております。

 なを、長さは、地域、機織りをする方の横糸打ち込方により

大きく異なります。


貨幣価値について

大判=10両、小判1両=4分、1分=4朱、1朱=250文

 現在の貨幣価値で、小判1両が約10万円前後ですが、現在同様に

物価変動及び各地により異なります。

 

一貫文は一千文です。1000枚の一文銭を「さし」という

紐(ひも)に通した形で流通していましたが、

それには、銭俵などが必要でした。

 

旅篭の宿料150から200文。 渡し銭は、80から90文。

人夫の背、馬の背、駕篭、瓦判1枚3から4文。 

蕎麦、16文から24文。 薬箱を持った供を連れて歩いて

来る徒歩医者で、1服2分。

長棒の駕篭で往診する乗物医者で5分。ただし、

どちらも盆暮れの届けをしての金額です。

太夫との一夜の遊びで1石から10両。

京都の島原なら10から15両。

その下の天神で1両。2分、1分ときて、2朱が一番下。

風呂の湯銭は8文。 髪結は、大人32文、子供24文。

 

参考引用文献

 河出文庫『考証江戸奇伝』稲垣史生 

 河出文庫『間違いだらけの時代劇』名和弓雄


                つづく


真説 国定忠治 其の弐拾参

2013年09月09日 | 近世の歴史の裏側

 

 

○忠治の赤城山周辺の潜伏場所

 

赤城山と言っても「広うござんす」で、果たしてどこに本拠を

構えたかということであるが、従来は旧勢多郡宮城村の現在

忠治鉱泉のあるところの上方にあたる、いまでも「忠治の岩屋」と

呼ばれるそれだといわれている。自然の岩穴を利用した所で広く

ない場所で、ここに子分多勢と篭ることは恐らく不可能であって、

三、四日のキャンプ場ならいざ知らず、ちょっと考えられない。

第二の伝説地は、鈴ケ嶽にある岩穴であるという。

これは有名な志賀直哉の作品「ある日赤城にて」の鈴ヶ嶽で一夜を明かした

時の記述に述べられている。忠治がここに隠れたということを

記している。第三の伝説地は、旧勢多郡新里村新川の善昌寺という寺の

裏続きの二百メートルを登った丘陵の七、八合目あたりにある岩が

つき出して、その下が庇の下のようになっている場所だといわれているが、

現在は開発されその面影はないが現地に行くと本堂裏側は当時の

面影を偲ばせる。「また善昌寺は、元々は、大同寺は称していた。

大同元年(806年)伝教大師最澄の弟子の宥海が創建とされ、

群馬県内でも、八〇〇年初期の寺院は、少ないと思います。また、

かの新田義貞、最期の一齣を知る上でも貴重な寺院です」

紫藤洞というホラ穴さてこの四ヵ所のどれが正しいのかと

いうことであるが、あるいは四つとも正しいかも知れないし

それ以外にもあっても不思議ではないし、赤城山に篭ったのは、

一度や二度ではなかったろうから、その都度変えたことも考えられる。

しかし、赤城山に篭るといっても、戦国時代のように、罷城して一戦を

するという体のものではなく、

折があれば麓におりて、ばくちをやれる地点でなくてはなるまいし

迫われれば山中にひそめばよいのであるから、灯台下暗しで案外第四の

新里新川区域の岩の庇、下が本拠ではなかったろうかとも思われる。

関八州取締の役人が向うとしても、そう数百人も押し寄せたものでは

あるまいから、進退自由の山麓近いところを選んだということが妥当の

ように思われる。 忠治が赤城山に入ったという報せがあると、

子分が続々と集まってきた。このころが、忠治の全盛と思われる。

「赤城録」では、日ごとに子分が集まってきたが、その主なものは、

日光円蔵、八寸犀乙、山王氏五郎、三木文蔵、武川浅二、神崎亥五、

境川安五、新川秀吉、桐長、鹿安、お辰婆(女)などが

「股肱(ここう)」の子分であったと思われる。忠治が山中に在るころ、

子分が近くの賭場のテラ銭を収めて資金としたが、時には刀、槍、火槍

(鉄砲のこと)を持ってバクチ場にゆきテラ銭を巻上げる者が多かったが

忠治はこれを厳しく禁じ、赤城山下の村は決して襲わなかったし、

貧しい者があると衣糧を与え、有福の家の青年が賭場に出入すると、

その家にまでいって注意してやった。忠治が赤城に来るまでは山麓一帯は

かなり盗賊が多かったが、彼が夜な夜な子分を出して見廻らせたので

泥坊がいなくなり、農民は雨戸を開けて寝られるようになり、しまいには、

「忠治を仰ぐこと父の如し」とも同書が述べ、村の人は寝る時には必ず

赤城山に頭を向けて寝たとさえ記しているが、このあたりに

忠治のほかのやくざに見られない深謀があったと私は見ている。

前にも述べたが、自分の保身上必要なのは、ある一定の区域は

十分味方にしておくことである。これを自覚したか、

日光の円蔵あたりが教えたかしてとにかく、自分の村を中心

にしてある区域は味方にしておいた事はなかなかの策略家であった。

五目牛村とか、国定村とかいうのは、万一の時大衆の中にかくれ、

大衆の手によって助けられ保護される為に大事にしたが、その外の村では、

堂々と暴行、強奪を平気でしたという話を古老から古老へ伝えている。

羽倉の赤城録をそのまま信ずると、忠治は偉丈夫なり・・ということに

なりそうであるがことの真相は案外にこういう策略のもとに企まれた

ものであったかとも想像される。 赤城山中にいても、転々と居を

変えたというから、第五、第六の岩穴を求めて移動していたのかも

知れない。しかし大半は山を下りて村中に住んだというから、龍城の

ように山に入り切りではなかった。兇状持ちで追われているため、

表面切って郷里に住めなかったのである。しかも、この後も同じことを

くり返していたらしく、安心して村に住むことはできなかったわけで、

赤誠山中に隠れたり里へ下りたりして出没する野盗のような生活を

くり返していたと考えても不思議ではないのである。

 

                      つづく


 なを、善昌寺については寺院として又、周辺環境が素晴らしく

後日改めて、画像を含めて詳細に記載致したいと思います。