捕らえられた忠治は、半身不随の重体のため、取り調べが出来ず、
江戸に送ることも出来ないので、一時伊勢崎藩の陣屋内に
ある中島牢に入れられたが、中風はいつまで経っても良く
ならないので、伊勢崎藩ももてあましてしまい、九月初旬になり、
忠治の身柄は木崎宿に移されたが、木崎宿でも番人足
に困ってしまい、つぎのような廻状が出されている。
廻 状 寄 太 田 宿
此度国定村無宿忠次郎召捕之処、同人儀病気二付当分調方
不相成、依之快気迄木崎宿江預ケ置、右者不容易囚人二付、
一昼夜番人足六人ツ乃甲付置候処、多人数之儀二付、
右宿而巳者甚難儀可致間、其組合江番人足助合中付候間、
其意中合人足可枝差出候、此書付披見之上、木崎宿江相通、
自分方へ可枝相届ケ候、以上、
戌九月(十日)
関東御取締出役
中 山 誠一郎
伊勢崎町
尾 島村
太 田 宿
右寄場役人
大小惣代中 (太田 須藤岩雄氏蔵)
重罪犯人であるから、一昼夜六人の番人がつけられて、
よほど厳重に監視したようであるが、番人足入用がかかるわけで、
それは大変な金額になる。そのため寄場組合というのがあって、
一宿負担でなく、多くの組合村が平均負担する仕組みになっていたが、
あまり多く番人足負担に耐えかねたわけで、さらに多くの組合村からの
入用負担を願ったのである。