アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐拾七 捕らえられた忠治は

2013年09月16日 | 近世の歴史の裏側

 


捕らえられた忠治は、半身不随の重体のため、取り調べが出来ず、

江戸に送ることも出来ないので、一時伊勢崎藩の陣屋内に

ある中島牢に入れられたが、中風はいつまで経っても良く

ならないので、伊勢崎藩ももてあましてしまい、九月初旬になり、

忠治の身柄は木崎宿に移されたが、木崎宿でも番人足

に困ってしまい、つぎのような廻状が出されている。

  廻 状                    寄    太  田  宿

  此度国定村無宿忠次郎召捕之処、同人儀病気二付当分調方

不相成、依之快気迄木崎宿江預ケ置、右者不容易囚人二付、

一昼夜番人足六人ツ乃甲付置候処、多人数之儀二付、

右宿而巳者甚難儀可致間、其組合江番人足助合中付候間、

其意中合人足可枝差出候、此書付披見之上、木崎宿江相通、

自分方へ可枝相届ケ候、以上、

       戌九月(十日)

                  関東御取締出役

                    中 山 誠一郎

                              伊勢崎町

                              尾 島村

  太 田 宿

                  右寄場役人

                   大小惣代中     (太田 須藤岩雄氏蔵)

 重罪犯人であるから、一昼夜六人の番人がつけられて、

よほど厳重に監視したようであるが、番人足入用がかかるわけで、

それは大変な金額になる。そのため寄場組合というのがあって、

一宿負担でなく、多くの組合村が平均負担する仕組みになっていたが、

あまり多く番人足負担に耐えかねたわけで、さらに多くの組合村からの

入用負担を願ったのである。