アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の壱拾八

2013年09月03日 | 近世の歴史の裏側

 

○玉村の京蔵・主馬との争い

 天保六年秋のことである。玉村に縄張りを持っていた

京蔵・主馬という兄弟の博徒がいた。子分が二百余名と

いわれた一家で、その勢力は大したものであった。忠治も

この兄弟の勢力ぶりにはかねてから面白くないものがあった。

その一つとして、まず子分の山王の民五郎というのが縄張りに

入りこみ、運悪く兄弟に捕えられた。その強勇ぶりで知られた

京蔵と生馬に国定忠治のまわし者であることを見破られ、

頭を半分そり落されて宜った。みじめな姿で戻った子分を

見て、忠治は我まんできず、民五郎を先に立て

八寸の犀乙(才一が本名)、五目牛の秀吉の二人を添えて、

赤城山から玉村におしかけ、なぐり込みを決行させた。

兄の京蔵は他所へ出て留守であったので、主馬一人が三人を相手に

戦ったが力尽きて遂に斬られ、三人も負傷して赤城山へ引き上げた。

忠治は三人に、「止留めを刺したか」と聞くと、急いだので刺さな

かったというと、顔をしかめて、「止留めを刺さないと何時仕返え

しをするかわからない。ことに主馬は強い奴であるから、きっと

仕かえしをするかも知れない」と言ったという。京蔵は弟のやられた

事を聞いて甲州より走り帰り、仇を討とうと思ったが、忠治の勢力の

大きいのに怖れて村を去った。主馬は不思議に命を拾ったが一生の

片輪者になってしまったという。赤城山に隠れながらも、こうして

忠治は、上州の一円にその勢力を張っていったのである。

 天保十二年に、廃人となりながらも、玉村の主馬は山王の

民五郎をねらい、執拗にも民五郎の近くに出没した。忠治の予言は

的中したのである。忠治の留守を守っていた民五郎を利根川原に

さそい出し、子分の藤七、徳太、和蔵の三人と四人がかりで斬り殺し、

しかも三つ斬りにして川の中に投げ込んでしまった。

首だけを黄木綿に包んで、伊勢崎市連取村の富豪多賀谷源兵衛方に行き、

生首をかたに三十両をゆすったので、ふるえ土がった源兵衛は十五両

出してあやまった。忠治か国定村に帰ってきたのは翌十三年であったが、

民五郎の話をきくと怒りに燃え、子分を差し向けて仇討に向かわせた。

主馬が多数をたのんで反抗すること予定し、西洋製のピストルを持たせ

十八人を一せいに玉村に向けた。主馬は、早くもこのことを知り、

いったんかくれたが発見された。

子分は、これを民五郎の斬られた利根川原に引きずって行き

ズクズタに斬り殺し、三つ斬りにして川の中に放り込んでしまった。

しかもその後さらに、藤七、徳太も捕えられ斬り殺されたが、

和蔵だけは風をくらって逃げてしまった。いかにはげしい殺人の

連続であったかがわかる。しかし、こうしたなぐり込み、仕返しは

現代のやくざのもやっている手段である。私闘とはいえ、

命知らずの暴力は当時としても、正に凄絶そのもので有った事が判る。

 忠治がピストル(回転式)を使用したことは、あるいは不思議と

思われるかも知れないが、この事は、赤城録にもチャンと記しているので

真実であろうと思うし、現に、東村国定の養寿寺には、国定忠治の使った

という単筒とピストル(回転式)や火縄銃二丁が、保存されている。

こういう飛道具をどうして人手したかわからないが、おそらく弘化3年

(1846)秋には、子分を浦賀に派遣して世情を探っている事から。入手は、

可能だったと思うが、おそるべき自衛力であった。

関八州の取締り役人が、容易に近づけなかったのもまた当然で

あったといえよう。

                    つづく