アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の参拾参 ○判決文Ⅱ 磔の趣旨説明

2013年09月24日 | 近世の歴史の裏側

 

 此忠次郎儀無宿之身分ニ而長脇差を帯又ハ合口等所持、博徒共を

数多子分ニいたし、上州田部井村たつ宅其外最寄国々所々、野田、

山林等、又は右村宇右衛門申合、溜井浚ニ事寄、横行ニ小屋場取立、

同類多人数手合ニいたし、筒取貸元ニ成、賽賭博相催、元居村清五郎、

無宿安五郎等江代貸元をも為致、其々てら、口之子、或ハ上ケ銭と

名付金銭受取、其上博徒渡世、頭取或は差配と唱、此もの江無沙汰ニ

博徒共寄合博徒相催候節ハ長脇差を帯踏込、其場ニ有之金銭奪取、

安五郎江ハ右差配差免、所持之駒札一ト通呉遣、又ハ佐与松儀手目博徒

(註、いかさま博奕、インチキ博奕)いたし、村々百姓共を欺、多分之金銭

掠取候趣及承、賭博渡世風儀ニ拘り収杯申聞、首代と名付金子為差出

殊ニ子分之内無宿文蔵(註、三木文蔵)儀、博奕賭銭取引之儀ニ什無宿

伊三郎(註、島村の伊三郎)と口論之上打擲ニ逢、残念之申咄聞候を承り、

子分之もの右様打擲交候を打捨置候ハゝ、伊三郎之強気臆しニ候坏他嘲を

受候も口惜敷儀と心得、右憤りを可為晴と文蔵江助力およひ、同国

境村地内おゐて同人倶々伊三郎を及殺害、迫而右文蔵儀関東取締役

(註、八州取締のこと)之ものに被召捕候節ハ文蔵を可取戻と.多人数申合、

得物等拘心出役旅裕同国木埼宿近辺三ツ木迄押参り、又は右田部井村又八宅

借受、同類其他呼集、博徒相催候砌、兼而此もの兄弟之契約致し置候無宿

浅次郎並同人子分之もの共不相越、不審之儀と存居候折柄、取締役為捕方

立越候趣、右右衛門為知越候ニ驚逃去候共、其節右浅次郎伯父同国ハ寸村

勘助儀、右出没道案内ニ成罷越候由追而承込、右ハ浅次郎及変心勘助内通

いたし候より、同人差口ニ而右躰手配相成候儀と相疑い浅次郎を呼寄、

右次第を以相咎、其分ニ難差置、若存命罷存度ハゝ、勘助首級を携参、

中披可致抔強勢ニ申掛候故、浅次郎儀終ニ伯父勘助を及殺害候仕儀に相成、

剰無宿長兵衛儀信州路おゐて、同国中野村忠兵衛伜原七に被及殺害候処承込、

仇計可致と子分之もの共数多引連、鑓・鉄砲等携押参候砌、右道筋大戸

御関所有之、往来差支候迚、右御関所を除山越いたし候段、不恐公儀いたし方、

殊右躰品々及悪事候身分、召捕方探索可遁ため、取締出役道案内等心得居

候もの共金子相送(註、道案内という手代の下に付く者に賄賂を送ったこと)、

追而病気附、右宇右衛門方江罷越養生中、兼而密通いたし居候同国五目牛村

仲右衛門 養母とく(註、忠治の妾お徳のこと)、其外妾同様ニいたし置候まちを

呼寄、看病為致、立隠れ罷在候始末、旁重々不届至極ニ付、上州大戸御関所

近辺におゐて傑可申付候哉。


                     

 但上州大戸村、其外悪事之村々ニおゐて、科書捨札為建候可仕候。

というもので、主な忠治の罪状をあげて、大戸関所の近くで、

「右御関所を除山越いたし候段

関所を除けて技け道をしたが、これも関所破りの一つである規定であった、

其の所(破って通った関所のこと)において傑の条項に、

照らして傑の極刑となったことが明白にわかりますね。

輙、子分を引連れて強行突破した事実はなく、俗に言われている関所破りは、

脚色による作文で広まり、今日に至る事になってしまった訳である。

読み物では、槍、長筒(火縄銃)などで武装して強行に突破したと言う記載もありますが、

国定忠治の本、劇、映画などには、判決、処刑等については従来殆ど無いので、

私は真説として、判決、刑の執行及び其の他を、出来るだけ詳細かつ

当時の古文書状を基に続けたいので、今後は暫くの間は、文章中心です。

なを、判決文は約2万5千文字以上ですので、掲載規定により、

あと数回になり、当方入力に手間取り今後は、隔日以上の掲載に

なりますが、宜しくお願い致します。

                       
                              つづく