アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐拾四

2013年09月11日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治逃亡も終焉を迎える。

 

この逃遊行のとき、乾分田中村の沢吉は、越後へ逃げたという

情報があって、八州方は越後方面に手配している。

しかしそこには同じ上州生まれの無宿沢吉はいたが、

忠治一党の田中沢吉ではなかったのである。

いずれにしても全国的な大手配があったようである。

この沢吉は忠治お仕置きのあと、また登場することになる。

 いずれにしても信州に逃げ延びた忠治は、松本の博奕の親分の

勝太という者の所に隠れたが、転々として、追剥ぎや集団強盗

していたのであろう。何れにしても信州に入ってから、多くの

乾分が召捕られたようであるが、忠治はついに逃げ通していた。

 天保十三年秋、三室勘助を殺害してから、八州様の厳重な取締りで、

多くの乾分が召捕られて死罪になり年月が経った。

いつまでも旅の空では落ちつけない訳で、ようやく上州方面の騒ぎも

おさまり、赤城録には「丙午冬、忠治還赤城」とある。

丙午は弘化三年のことである。赤城山に隠れたが、すでに多くの

乾分は召捕られて死罪になってしまい、忠治の身辺に有力なものはなく、

むかしの勢威はなくなっていたと考えられる。


                  つづく