アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐拾六 ○忠治ついに召捕りお縄に

2013年09月14日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治ついに召捕りお縄に

 

 嘉永三年八月二十四日、忠治の居場所がわかったので、

八州役人中山誠一郎、羽倉外記、関畝四郎が三方から忠治召捕りに向い、

結局、関畝四郎の手によって召捕られた。そのとき忠治のそばにいた

名主宇右衛門、お町、お徳、子分の清吾ら十余人を召捕ったという。

そのほか忠治の弟友蔵、安五郎、沢吉、清蔵らがいたが、

これは風をくらって逃げてしまった。・

 赤城録に言う、忠治の乾分は七・八百人があり、集れと言えば、

一日に四百人の乾分が集まり、十日あれば四千人が集ったとある。

半身不随で所在はやがてお上にわかってしまう。八州役人の踏込みは眼前で、

何故この必死のときに四百人の乾分を集めて、なぜポデーガードしなかったの

であろう。

さらに四千人で忠治を守れば、八州役人といえども手の出るものではない。

赤城録を書いた羽倉外記は、一度も忠治を見ていないし、

取り調べも行なっていない。そのため世間の風聞を書き留めたのであるが、

いずれにしても一番早い忠治伝で、当時はかような文章が本当のように、

思いこまれたらしい。ただ一つ、忠治一党の処刑記録だけは、

その任務にあったので、これは信じてよいであろう。


                         つづく



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