アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐拾参

2013年09月09日 | 近世の歴史の裏側

 

 

○忠治の赤城山周辺の潜伏場所

 

赤城山と言っても「広うござんす」で、果たしてどこに本拠を

構えたかということであるが、従来は旧勢多郡宮城村の現在

忠治鉱泉のあるところの上方にあたる、いまでも「忠治の岩屋」と

呼ばれるそれだといわれている。自然の岩穴を利用した所で広く

ない場所で、ここに子分多勢と篭ることは恐らく不可能であって、

三、四日のキャンプ場ならいざ知らず、ちょっと考えられない。

第二の伝説地は、鈴ケ嶽にある岩穴であるという。

これは有名な志賀直哉の作品「ある日赤城にて」の鈴ヶ嶽で一夜を明かした

時の記述に述べられている。忠治がここに隠れたということを

記している。第三の伝説地は、旧勢多郡新里村新川の善昌寺という寺の

裏続きの二百メートルを登った丘陵の七、八合目あたりにある岩が

つき出して、その下が庇の下のようになっている場所だといわれているが、

現在は開発されその面影はないが現地に行くと本堂裏側は当時の

面影を偲ばせる。「また善昌寺は、元々は、大同寺は称していた。

大同元年(806年)伝教大師最澄の弟子の宥海が創建とされ、

群馬県内でも、八〇〇年初期の寺院は、少ないと思います。また、

かの新田義貞、最期の一齣を知る上でも貴重な寺院です」

紫藤洞というホラ穴さてこの四ヵ所のどれが正しいのかと

いうことであるが、あるいは四つとも正しいかも知れないし

それ以外にもあっても不思議ではないし、赤城山に篭ったのは、

一度や二度ではなかったろうから、その都度変えたことも考えられる。

しかし、赤城山に篭るといっても、戦国時代のように、罷城して一戦を

するという体のものではなく、

折があれば麓におりて、ばくちをやれる地点でなくてはなるまいし

迫われれば山中にひそめばよいのであるから、灯台下暗しで案外第四の

新里新川区域の岩の庇、下が本拠ではなかったろうかとも思われる。

関八州取締の役人が向うとしても、そう数百人も押し寄せたものでは

あるまいから、進退自由の山麓近いところを選んだということが妥当の

ように思われる。 忠治が赤城山に入ったという報せがあると、

子分が続々と集まってきた。このころが、忠治の全盛と思われる。

「赤城録」では、日ごとに子分が集まってきたが、その主なものは、

日光円蔵、八寸犀乙、山王氏五郎、三木文蔵、武川浅二、神崎亥五、

境川安五、新川秀吉、桐長、鹿安、お辰婆(女)などが

「股肱(ここう)」の子分であったと思われる。忠治が山中に在るころ、

子分が近くの賭場のテラ銭を収めて資金としたが、時には刀、槍、火槍

(鉄砲のこと)を持ってバクチ場にゆきテラ銭を巻上げる者が多かったが

忠治はこれを厳しく禁じ、赤城山下の村は決して襲わなかったし、

貧しい者があると衣糧を与え、有福の家の青年が賭場に出入すると、

その家にまでいって注意してやった。忠治が赤城に来るまでは山麓一帯は

かなり盗賊が多かったが、彼が夜な夜な子分を出して見廻らせたので

泥坊がいなくなり、農民は雨戸を開けて寝られるようになり、しまいには、

「忠治を仰ぐこと父の如し」とも同書が述べ、村の人は寝る時には必ず

赤城山に頭を向けて寝たとさえ記しているが、このあたりに

忠治のほかのやくざに見られない深謀があったと私は見ている。

前にも述べたが、自分の保身上必要なのは、ある一定の区域は

十分味方にしておくことである。これを自覚したか、

日光の円蔵あたりが教えたかしてとにかく、自分の村を中心

にしてある区域は味方にしておいた事はなかなかの策略家であった。

五目牛村とか、国定村とかいうのは、万一の時大衆の中にかくれ、

大衆の手によって助けられ保護される為に大事にしたが、その外の村では、

堂々と暴行、強奪を平気でしたという話を古老から古老へ伝えている。

羽倉の赤城録をそのまま信ずると、忠治は偉丈夫なり・・ということに

なりそうであるがことの真相は案外にこういう策略のもとに企まれた

ものであったかとも想像される。 赤城山中にいても、転々と居を

変えたというから、第五、第六の岩穴を求めて移動していたのかも

知れない。しかし大半は山を下りて村中に住んだというから、龍城の

ように山に入り切りではなかった。兇状持ちで追われているため、

表面切って郷里に住めなかったのである。しかも、この後も同じことを

くり返していたらしく、安心して村に住むことはできなかったわけで、

赤誠山中に隠れたり里へ下りたりして出没する野盗のような生活を

くり返していたと考えても不思議ではないのである。

 

                      つづく


 なを、善昌寺については寺院として又、周辺環境が素晴らしく

後日改めて、画像を含めて詳細に記載致したいと思います。

 

 

 

 



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