アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の参拾壱 江戸へ移送

2013年09月20日 | 近世の歴史の裏側

 

◎忠治 江戸へ移送

 

逮捕された一味は、九月二十八日に一たん玉村宿に着き、

一応の取調べの上、十月十五日に同類八人とともに、

取調べのために江戸の勘定奉行所評定所に送られたが、波志江村の

昌楽寺のハルジという女性から、大正時代に開き出した資料によると、

唐丸籠七挺に七人を入れ、一番前が右衛門、次ぎの籠が境川安五郎

、三番目が、山王氏五朗だといっていたが、これはどうも怪しい。

二人は逃亡したはずである。四番目が不明、五番目が忠治、

六番目がお徳、七番目がお町だったそうだ。

お徳、お町は、龍の籠の隙間から、天保銭を撒きながら行ったという。

罪人が唐丸籠で送られる時に、施しと罪滅びしに沿道の者に散財する

風習のあったことは、小林一茶が草津温泉紀行に、目撃した話を

書いているのでもわかる。唐丸籠の両脇には、仲間の奪還を警戒して、

数十人の捕手が堅くまもり、鉄砲を持つ者もいたという。

ハルジさんの話によると、七名の唐丸籠を見送る時にみな泪を流して

別れを借しんだという。十九日に江戸に到着し、一応牢に入れられた。


                   つづく



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