母島へ。
この日も波は静まってくれず、相変わらず高かった。
「ははじま丸」は運行するが、途中で引き返すかもしれないとアナウンスがあった。
引き返さないように願いながら、更に南へ約2時間。
どうにか母島に到着した。
母島ではハイキングをする予定を立てていた。
ここではネイチャーガイドさんが待っていてくれ、自らの車で案内してくれた。
小笠原は品川陸運事務所の管轄なので、その車は品川ナンバーだった。
しかも、インターネットで購入したと言っていた。
午前中は島内観光。
最初はロース記念館。
母島開拓に貢献したドイツ人、ロルフスによって発見されたロース石を使って建てられた郷土資料館で、母島の歴史が学べるようになっていた。
島の北に向かうと、今は廃村になってしまったが、かつては賑やかに栄えていたであろう北村があって、そこには北港や、北村小学校があった。
今では北港は桟橋の名残があり、旧北村小学校は完全にカジュマルに覆われていて、校門と基礎くらいしか残っていなかった。
北村の南東方面には東港があり、捕鯨も行われていたようだ。
東港から少し走ると「砲台跡地入口」と標識があり、その山道のようなところを下っていくと、ジャングルの中に野ざらしになった大砲が3門あった。
ちなみに大砲は、1門、2門と数えるらしい。
その大砲は米軍の指示により、使用できないように日本軍が破壊したそうだ。
そしてそのまま都道241号線を南に走ると、木道が整備されている「桑の木山」があった。
そこではでは亜熱帯特有の木性シダが茂っているの森の中を歩いた。
ここはかつては”オガサワラグワ”がたくさんあったのに、薪として移植した”アカギ”が繁殖し、固有植物を脅かしているので除去しているらしい。
午後からは南崎へハイキングに行った。
母島の一番南にあり、タコノキやビロウなどが茂る中をしばらく歩き、頂上に近づいたら結構きつい登りとなった。
このハイキングツアーを申し込んだときに、山登りの経験を聞かれた。
ある程度歩ける人でないとダメらしい。
そんなこんなでやっと南崎に到着した。
絶景だったけれど帽子が飛ばされないか心配なほど強風だった。
その後は「御幸之浜展望台」でガイドさんが持ってきてくれたパッションフルーツを食べて一休み。
この浜の名前は、昭和天皇が母島を訪れた時に、この場所で生物採取をされた事に由来するらしい。
休憩所と展望台があり、展望台からはホエールウォッチングもできるのだが、この日は現われなかった。
崖にはリュウゼツランが海岸に向かって花茎を勢いよく伸ばしていた。
これで母島のハイキングツアーは終了した。
この日の夜はペンション近くの「脇浜なぎさ公園」のウミガメ産卵保護施設に産卵を見に行ったが、残念ながらその様子は見られなかった。
ガイドさんからいただいたパッションフルーツが珍しかったし、おいしかったので、町に戻ってからすぐに農協の売店に買いに行った。
小笠原ではポピュラーな果物らしく、驚くほど安く売っていた。
そのほかにガイドさんのお勧めは母島のトマトと島寿司、アオウミガメ。
母島トマトはおいしくて本土に渡る前に島で消費されてしまうらしい。
島寿司とアオウミガメは父島で食べた。
寿司種にはサワラのヅケ、ワサビの代わりに練りがらしが使われている。
今でこそ東京都になっているが、その昔小笠原は無人島だった。
そのため「ブジン」→「ムニン」→「ボニン」と変化して呼ばれるようになったらしい。
小笠原でしか見ることのできない物にはすべて「ボニン・・・」「ムニン・・・」と名前がついている。
例えば、小笠原諸島自体がボニンアイランド、海の独特の色合いを「ボニンブルー」、「ムニンヒメツバキ」等々。
また、父島に「おがさわら丸」が入港して出港するまでがサイクルになっているので、小笠原の1週間は6日で回転しているようだ。
そして、驚いたことにこの島の平均年齢はすごく若いと聞いた。
もちろん昔から住んでいる人や役所関係の人もいるが、海に憧れる人、自然な暮らしをしたい人なども集まるようだ。
自分で住む場所を選べる時代だから、こういった暮らしも選ぶのも良いのかもしれない。
ムニンヒメツバキ