習志野湾岸9条の会

STOP戦争への道 9条を変えるな

長崎「平和の誓い」被爆者代表の誓い(抗議)

2014年08月10日 | 日記
8月9日長崎の式典非被爆者の代表の方が読み上げた「平和への誓い」(抗議の叫び)全文です。
「集団的自衛権の容認は、憲法を踏みにじる暴挙です」とはっきり言い切りました。
直前に「日本国憲法を踏みにじった暴挙です」「日本が戦争ができる国になり」 が加えられたそうです。

「平和への誓い」被爆者代表 城臺(じょうだい)美弥子さん

平和への誓い、1945年6月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時6歳だった私は、
防災頭巾が傍に無いと安心して眠ることができなくなっていました。
8月9日の朝、ようやく目が覚めた頃、あのサイレンが鳴りました。
「空襲警報よ、はよ山まで行かんば」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕に登りました。
爆心地から2.4キロの地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。
しかし敵機は来ず、「空襲警報、解除!」その声で多くの市民や子どもたちは、「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
その頃、原爆搭載機B29が長崎上空に深く侵入していたのです。
私も山の防空壕から、ちょうど家に戻ったときでした。
お隣の同級生トミちゃんは、「みわちゃん、遊ぼう」と外から叫びました。
その瞬間、キラーと光りました。
その後何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。
しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。
外から私を呼んでいた、トミちゃんは、そのとき何もケガをしていなかったのに、おかあさんになってから突然亡くなりました。
たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなる。
たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で、多くの被爆者が命を落としていきました。
私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。
私が被爆者でなかったら、こんなことにはならなかったのではないかと、悲しみ苦しみました。
原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは、人間の力ではどうすることもできません。
今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界から一刻も早くなくすことです。
そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。
被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。
しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか?
今進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です
日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で護ろうと言うのですか?
武器製造、武器輸出は戦争への道です。
一旦戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。
歴史が証明しているではありませんか。
日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください、平和の保障をしてください。
被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
福島には原発事故の放射能汚染で、未だに故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。
小児甲状腺がんの宣告を受けて、怯え苦しんでいる親子もいます。
このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか?
使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。
早急に廃炉を検討してください。
被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。
小学一年生も保育園生さえも私たちの言葉をじっと聞いてくれます。
この子どもたちを戦場に送ったり、戦火に巻き込ませてはならないという、想いいっぱいで語っています。
長崎県民のみなさん、いいえ世界中のみなさん、
再び、愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。
日本の真の平和を求めて、共に歩きましょう。
私も被爆者の一人として、力の続く限り被爆体験を伝え残していく決意を皆さまにお伝えし、私の平和への誓いといたします。

平成26年8月9日 被爆者代表 城臺美弥子




誓いなど聞きたくないのか眠たいのか殆ど目をつぶって寝ている長崎でも懲りもせずコピペを使いまわした首相安倍。
この男には大衆の声などどうでもよいのかもしれない。
大衆にはコピペで充分だ、憲法壊して何が悪いと。完全になめられている(そうでなければ頭が完全にいかれている)。
城臺さんは17日に東京日比谷での集会でも発言されるそうです。