県内のイベントを2つ紹介します
(
標的の村 津田沼上映会)
◆日 時:2014年7月26日(土)
14時上映開始(13時30分開場)◆船橋市東部公民館 講堂(定員250人)◆上映協力券 1,000円
◆主催 パトリオットミサイルはいらない!習志野基地行動実行委員会
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(劇場予告編)
沖縄本島北部。山原の森の中にある豊かな自然に恵まれた人口160人ほどの山村、東村、高江区。高江集落は、
周りを米軍のジャングル戦闘訓練場に囲まれ、頭上には巨大な軍用ヘリが昼夜を問わず、日常的に飛び交う。
すでに戦場のなかに暮らすような恐怖を味わっている高江の周りに、6つのヘリパッド(着陸帯)が新設されるという。
そこには死亡事故の多い新型輸送機オスプレイまで飛ぶようになったら、高江に人が住めなくなる。建設に反対し、
座り込みを始めた住民たちを、国は「通行妨害」で訴えた。
その中には、一度も現場に行ったことのない当時7歳の女の子も含まれていた。国策に反対して座り込んだ住民を
国が訴えるという前代未聞の裁判。反対運動を萎縮させるSLAPP裁判(※)だ。
オスプレイの強行配備を受け、沖縄の怒りはついに爆発する。台風17号の暴風の中、人々は身を投げ出し、車を並べ、
アメリカ軍普天間基地を完全封鎖した。やがて沖縄県警の機動隊が座り込みを排除に動き出し、激しい衝突が起こる。
しかし、その様子が全国ニュースとして伝えられることはなかった。
(※)力のある団体が、声を上げた個人を訴える、弾圧・恐喝の裁判を、アメリカではSLAPP裁判と呼び、多くの州で禁じられている。
映画「SAYAMA・・見えない手錠をはずすまで」(もう一つの冤罪・狭山事件)
07月26日(土)千葉県千葉市 千葉市男女共同参画センター
開場 13:00
主催:映画「SAYAMA」千葉上映実行委員会
043-222-8350
先日死刑囚として長期拘留されていた袴田氏の再審が決定し保釈されました。
近いところでは「足利事件」「布川事件」「東電OL事件」・・と重大事件が次々と
無罪となり、如何に違法(憲法違反)の取り調べが行われているかがうかがえます。
狭山事件が冤罪として特に悪質なのは被差別ということで当初から偏見を持ち見込みの捜査・逮捕・起訴をしたことです。
差別裁判と言われています。
(狭山事件)
1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきた。
警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいまった。女子高校生は
遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中した。捜査にいきづまった警察は、付近の被差別
に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄氏(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場
(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人に仕立て上げた。地域の住民の「あんなことをするのは
民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかで冤罪が生み出されてしまった。
事件発生当初発見されなかった被害者の万年筆が突然発見されたり、脅迫状の筆跡と石川氏の筆跡が全く違う、
自供に基づいて発見されたとされる被害者の腕時計の種類が被害者の物と違うなどの点があるにもかかわらず
まともな証拠調べも行わなかった。
1964年一審の浦和地裁では内田裁判長が死刑判決を下した。
石川氏が否認に転じてから(当初は罪を認めれば10年で出してやると言われていた)前後して大衆行動が始まる。
1974年二審では寺尾裁判長が無期懲役判決の判決を下したが、高裁前の日比谷公園には解放同盟、社会党(当時)、
総評(当時)傘下を中心としたの労働組合、学生や各大学解放研、狭山闘争実行委員会など10万人が集まり公園を埋め尽くした。
又全国でも同盟休校や大衆行動が取り組まれ、ストライキを行った職場、大学もあった。
最高裁で確定後も石川氏はただちに再審請求を申し立てたが第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却。
再び1986年8月に第二次再審請求を東京高裁に申し立てた。石川氏は31年7か月ぶりに千葉刑務所を1994年12月に仮出獄した。
世論も高まり、国際人権規約委員会が「弁護側がすべての証拠にアクセスできるよう法律、および実務を改めること」
を日本政府に勧告したが、1999年7月またも事実調べを行うことなく、再審請求を棄却した。
そして2006年5月、第3次再審請求。なかなか再審の扉は開こうとしなかったが2009年9月から三者協議が開かれ、
狭山の闘いに前進゛か見られたが検察の証拠の出し渋りなどによりのらりくらりとしか進んでいない。
三者協議は現在15回目を迎えています。速やかに全証拠開示をさせ再審を行うべきです。
映画「SAYAMA」は全国で自主上映されています。また石川さんも全国を講演に回り、集会も開かれています。
今回は千葉市内での上映です。
狭山闘争は長年、解放同盟をはじめ多くの労働組合、市民団体が支援してきました。1974年の二審判決前後より
春、秋の年二回東京では毎回大きな集会が開かれてきています。
(映画ホームページ)
http://sayama-movie.com/
(下記は今年5月23日の日比谷野音の全国集会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/3e/de347fc15c416b4c3caf5ad70aeb8764.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/f8/13dcbaa9822cdeeb9b959383455ec4d1.jpg)
(下記は1974年高裁判決当日、日比谷公園を埋め尽くした10万余の労働組合、学生、市民・・・狭山差別判決糾弾のシュプレヒコール)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/04/7d954806f25ce966a59a1da95b982cf6.jpg)
(革命の子供たち)
若松孝二監督が公開を熱望した、最後の遺言とも言えるドキュメンタリーが公開。
25日までテアトル新宿
1968年、ベトナム戦争で行われた虐殺に反対の声を上げ、それぞれ日本赤軍とドイツ赤軍を率いた重信房子とウルリケ・マインホフ。
本作は、そんな二人の娘として生まれ、激動の人生を過ごしたジャーナリストの重信メイと、ベティーナ・ロールが、苦難の幼年期を
振り返りながら、母の生きざまを独自の視点から探る姿を追う。
時には母親と共に逃げ、誘拐までされるなど、壮絶な幼年期を過ごしてきたというメイとベティーナ。予告編では、現代を生きる彼女
たちの姿が、房子とウルリケ、そして激動の時代を映した当時のニュース映像とともに映し出される。母親の活動ゆえに自身も命を狙われ、
「暗殺される危険がありました」と当時を振り返るメイの証言は、彼女がたたずむ、一見平和そのものの現代の風景と相まって、より衝撃的に映る。
母について「母親になるべきではなかったのかも」というベティーナと、「いつでも尊敬してた。誇りに思ってた」と涙ながらに語るメイ。
かつて抗議の精神を持って行動した若者たちと、その子が吐露する複雑な思いを通して、民主主義や平和とは何かを考えさせられる一本となりそうだ。
本作を手掛けたシェーン・オサリヴァン監督は、日本公開にあたり「1960年代後半に日本で強まった抗議の精神について、またそのエネルギーが
どこに消え去ってしまったのかを、日本の若い世代が考える助けになればと望んでいます。そして重信の物語から得られた教訓が、今日の日本に
政治的能動主義の新たな波を引き起こしてくれたらと思います」と語っている。(編集の解説より)
※この時代から40数年が経過。今ガザでは大量虐殺が起きています。あの頃と比べ何が変わったのでしょうか。