(1967年10.8羽田闘争とは)
67年10月8日の羽田闘争は、当時、ベトナム戦争が続いていたなかで、当時の佐藤栄作首相
が羽田空港から出発して南ベトナムへ向かおうとしたことへの佐藤訪ベト阻止の学生・労働者
たち闘いでした。
10.8にちなんでジュッパチとも言われています。
羽田空港への架橋である「弁天橋」「稲荷橋」等で阻止線をはる機動隊と衝突し
その最中、京都大学生の山崎博昭氏が「弁天橋」の上で18才で亡くなりました。
この出来事、彼の死はは多くの人の心に火をつけました。
山や海などの行楽などで青春を謳歌していた若者たちも、この事件を知り「私たちはこんなことをして
いてよいのか」と自問したり、この不幸な事件に接して、人生が変わったという人もいます。
その後の67年~69年の大学闘争、反戦闘争の大高揚につながっていきました。
このような実力闘争の闘いに批判的だった日本共産党からも、地区委員会や下部組織の民青同盟等から
新左翼系の反戦実力闘争に乗り換えてくる人も続出しました。
あれから半世紀の今、我が国は戦争をする国に向かいつつあります。
当時のような激しい実力行動は現在はありませんが、原発、安保国会などで国会前等を数万~
10数万の人が埋め尽くし不断の声を上げています。
10.8羽田闘争闘争に参加した人は殆どが70才前後でしょうが、国会前などでの行動に参加している人は当時を
思い出している人もいるのかもしれません。
http://yamazakiproject.com/
学生の運転する車にひかれたなどと当時のメディアも現在と同様警察発表を垂れ流していますが
機動隊によって虐殺されたのが一般的です。裁判でも直接の原因不明とも言っています。