この春、奥様がデイケアに出かけている時だけがゆっくりできるということで我が家に立ち寄られたTさんが、今日ふと立ち寄られた。免許証の更新のかえりとのこと。ブルーベリーの木が立派だ,実の付き方が違うのどうのと世間話。階段下まで送り際、奥様の体調はいかがですかとお聞きしたらなんと、亡くなりましたとおっしゃる。いろいろご病気をかかえておられて闘病中とは存じあげていたのだが4月末に亡くなられた由、路上でいろいろいきさつ話、それは大変ご愁傷さまでしたと申し上げ、お帰りになった。なんか路上で話し込んでしまったこと、反省。リビングにあがっていただいてお聞きすればよかった。
奥様はクリスチャンでお二人が結婚式をあげられた同じ教会で葬儀をされた由。翌日、ネットで調べてキリスト教の葬儀について、香典のやりかた。白封筒に御花料と薄墨で書いてお札は新札ではなく、顔の印刷されていない面を封筒を開いたときにでるように入れるべし云々。
Tさんのご自宅にお邪魔して広間にしつらえられた祭壇、両サイドに立派な百合の花がかいけられている。ご遺影のまえで安らかにお眠りくださいと祈る。
Tさんは地元の大物国会議員の秘書をずっとやってこられて激動の政界で忙しくやってこられた。選挙の時などは奥様も裏方での後方支援、さぞかし大変だったであろう。年をへてTさんも引退、奥さまが加齢でいろいろと病に遭遇、Tさんが献身的に介護にとりくまれ、寝る暇もなく心休む時も持ちえなかったことが容易に想像できる。
高齢化が進展、老々介護の大変さが巷で話される昨今、まことに他人ごとではなく身につまされる思い。できるだけ外部支援も活用しないと介護するほうがまいってしまう。とはいえ夜中までは外部に依存できない。自分なりの睡眠管理をするしかなさそう。
Tさんは膝の手術もうまくいき、歩幅も倍以上広がったとか。毎朝の散歩が日課でたのしみとか。しばらくは奥様不在の心の空洞感は続くだろうが元気にお過ごしいただきたいものだ。
人生は生老病死、四苦八苦と釈迦の言葉だが、人それぞれになにがしかの重荷を背負っているものだ。クリスチャンで作家の曽野綾子さんが「心に迫るパウロの言葉」の中で、重荷は神の与えしもの、謙虚さ、やさしさ、隣人愛などヒトをよりよき存在にかえていってくれるのかもしれないと書いておられる。すべからく自分の思うようにはならないのであり、自分の思いを相手に押し付けてはいけないと自分の気持ちを整理するしかないのではないか。
10年ほど前、Tさんと初めてお会いしたのは陶芸の趣味の会でその時会長しておられた。思えばこの頃、奥様のご病気が進行しはじめていたのではなかろうか・・
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