ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

210618 故、作家田辺聖子さん、昭和20年、「18歳の日の記録」読む!

2021年06月18日 | わが青春の日々

2019年6月なくなった91歳の女流作家,田辺聖子さんの昭和20年4月から昭和21年12月までの18歳当時の日記が伊丹市の実家から発見された旨の新聞記事が先日でた。早速、文芸春秋7月特別号に掲載、購入して読んだ。

私は昭和20年5月の誕生。6月には大阪大空襲があり田辺聖子さんの父親が経営する立派な写真館が焼失したいきさつが詳細劇的に記述されている。私の幼少期の記憶、記録が極めて少ないものだから当時の状況を知りたくて購入したのだが。

 いままで氏の著書は読んだことはなかったが700冊もの著作があり小説界のほとんどの賞を受賞し文化勲章ももらっているようだ。終戦の年は大阪の桐蔭女子大の国文科の学生で首席で卒業。裕福な家庭で育ったようだが6月2日空襲で米軍の焼夷弾絨毯爆撃で生まれ育った家も大事にしていた書物や書き物すべて焼失、ゼロになってしまった。茫然自失の中それでも小説家になるんだという意思が強固だったのは驚嘆に値する。

日本が無条件降伏したその日は墨書で日記がつづられ、いままで神国ニッポンは負けるはずがないと思わされ続けていたことに憤慨、無為に死んでいった若人たちやサイパンや沖縄など女性のの死は一体なんであったのかと憤慨するさまは軍国女子として意気盛んである。天皇の御心、アメリカの民主主義など知り、心機一転、頑張ろうとする心意気はすごい。

 肝腎要の時に父親は病気、ひとり白米を食っており家族はロクなものしかくえない。いざという時の母親の凄さに感嘆するなどおもしろい。昭和21年12月で日記は終わっているから以後のことはわからないが700冊の著作の中には戦争、戦後体験をふまえたものがあるようだ。ないないづくしの焼け野原からの出発で日本人は結構意気盛んだったようだね。ただそれぞれの日本人が何を発想しどう取り組んだか、その才覚により将来がおおきく変わったのだろう。田辺聖子さんは小説一筋という信念を持てたのは幸せなことであったようだ。

 6月2日の大阪大空襲の時、私の生まれた城東区の被害はどうだったのか、ずっと住んでいた長屋があったということは空襲で焼けなかったのだろうね。医療器械関係の技術者だった父親はもてる製作技術でなんやかや作って生計を立てたようだ。18歳の時、戦後創業した鉄工所が倒産、私が大学を卒業する2月末のことだった。米軍の焼夷弾攻撃で無一文になってしまったような状況。しかしその時は私の就職先は決まっていたので田辺聖子さんとは状況が違った。違っていたのは強固な意志だったのかもしれないね。メーカーに6年務めた後、経営コンサルティングファームに転職、会社はつぶしてはならないの理念の元、35年間仕事をやった。わが人生に悔いはなし?!!一度、田辺聖子さんの著作を読んでみよう・・・

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