ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧水戸街道を歩く 第10回 奥谷から水戸城中へ

2011年12月22日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年12月22日(木)

「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。

第10回の最終回のこの日、奥谷から水戸城中までの約13.5Kmを歩いた。

集合場所の石岡駅舎前。通学の学生さん達で混雑している。
突然、携帯電話が鳴った。T子さんからである。
朝になって愛猫の体調が悪くなったとのことで、残念ながら不参加にしたい、と。
今日参加することを楽しみにしていただけに、本当に残念なことである。
これで参加者は11名になる・・・
しかし、D子さんがまだ到着していない。


奥谷経由水戸行き8時40分発のバスを待つが、D子さんが気がかりである。
近くまで来ているようだが、駐車場に入れたりするので、果たしてバスに間に合うかどうか?


水戸行きバスが来て、止むなく乗り込む。これに乗らないと次のバスは12時過ぎになる。
D子さんには悪いが、奥谷まで来て貰い、そこで合流することにした。


バスは我々一行の他に数人が乗り合わせただけで空いていた。
途中の乗り降りも数回あったが、国道6号は空いており、バスの速度は結構速い。


奥谷には、ほぼ定刻通りに到着、暫しD子さんを待つ。
15分ほど遅れてD子さんが到着した。
『ごめんなさいっ 遅くなっちゃって』『いや~よく来たねぇ』
ちょっとしたハプニングだったが、”めでたし”である。。


予定より15分遅れて9時30分、水戸城を目指して出発だ。


涸沼川に架かる高橋を渡る。
涸沼川の流れ、はいったん涸沼に入り、そこから那珂川に出て、那珂湊へと通じている。
途中には堰などないため、昔から水運が発達していたそうである。


この日は”南からの風で気温も上昇する”との予報だったが、寒いっ!
数日前は”傘”マークが出ており、この日の実施が危ぶまれたが、どうやら雨は心配なさそうだ。


高橋を過ぎて間もなく道は二つに分かれる。
左を進むと、小鶴集落になる。


佐久間米穀店 
御殿のような主屋の隣に亀甲形の海鼠壁の蔵が建てられている。


蔵の正面二階の窓は社殿造りとなっている。
中には今年の新米が収納してあるのだろうか。


よいこのよい おもちゃ”の看板が印象的な、「こどもや
昭和3年に建造されたというから結構古い。
駄菓子や文房具・雑貨類を売っている。


小鶴集落の町並み。
この辺りは、昔の面影は感じられない。


町並みを過ぎると、村社諏訪神社が。
村の鎮守様のようなものである。
歩き始めて間もないので、お参りして行くことにした。
(この写真は戻る時に撮ったもの)


石段を上って行くと・・・


小さいながらも立派な社殿があった。
この日の安全を祈願して・・・賽銭を弾んでおこう!


諏訪神社の直ぐ先に如意輪寺があった。
山門は高麗門の造りとなっている。


如意輪堂。本尊は、如意輪観音で徳川光圀公の寄進と言われている。
後ろに見えるのは本堂


徳川光圀公の寄進と云われるだけあって、立派な本堂である。
水戸十ヶ寺の一つとされる天台宗の古刹だそうだ。


涸沼前川に架かる「長岡橋」を渡る。


長岡橋の先で、道は二手に分かれている。


今度は右側を進む。
直ぐに右手に”みそまんじゅう”の藤屋製菓があった。


長岡名物”の”みそまんじゅう
出来たては温かくて軟らかい。甘味が押さえられていて美味しかった。
『ご馳走さまっ!』


高岡神社
平安朝一条天皇の御代、長徳元年(995)に創建された、とのこと。
古い神社である。


長岡宿の家並み。
立派な塀の家が続く。


その中でもひと際大きくて目立つ塀がある。
かつて脇本陣を務めた木村家の住宅だ。
人や荷輸送などの問屋も兼ねていた庄屋である。


茨城町の指定文化財として管理されているそうだ。
時間が早かったのか、あいにく中には入れなかったため、塀の隙間から一枚。
建物は安政四年(1857)の大火で焼失し、その直後に建てられたそうだが、萱葺き屋根の堂々たる構えだ。
塀の中は時間が止ってしまっているように感じられた。


こちらは、柏屋肥料店
建物、塀は黒で統一した重厚な建物である。
現在も商売を営んでいる。肥料の他農薬や種籾も取り扱っているようだ。


長岡十字路を過ぎてしばらく進むと・・・


旧水戸街道は、国道6号に合流する。


歩道橋で国道6号の反対側へ。


北関東道の茨城町東ICを通って水戸方面へ行くための歩道橋を上る。


前方に見えるのが、北関東道である。


出発して1時間30分、ここらで小休止。
この日の距離と速度を考えると、水戸駅で昼食を摂るのはかなり遅くなりそうだ。
Mさん差し入れのお菓子で小腹を満たす。『いただきまぁすっ』
これでしばらくは持ち堪えられそうだ。


いよいよ水戸市に入った。
『やっと水戸まで来たねぇ』皆さん、感慨深げである。


自動車学校を通り過ぎ・・・


今度は、旧水戸街道は、右手に進路を取ることになる。


吉田の家並み。ところどころに古い民家や蔵が見られる。


熱田神社
旧吉沢村の江戸方入口に鎮座する神社だ。


村社天神社


村社天神社の隣にちょうどコンビニがあったので、女性陣は体調を整えることに。
男性陣はまだ我慢できるようだ。


遠目には、セブンイレブンそっくりの看板。
先ほどのコンビニから150mほど先に見えたので、男性の一人はこちらに向かったのだが・・・
たまたまこちらもコンビニであった。紛らわしい看板である。


木沢新田(元吉田)の一里塚


江戸日本橋から二十九番目の水戸街道最後の一里塚である。


国道50号線との交差点


国道50号線を渡ると直ぐ左に金山稲荷神社が鎮座していた。
(道路は車がいっぱいで渡るのに大変だったので、反対側から写真だけ撮ったもの)


道の分岐点に建てられた馬牛頭観世音の碑
ここに碑があるということは、この辺りで息を引き取ったというのだろうか?


吉田小学校跡地に建つ伊藤家
庭に旧吉田村立吉田小学校跡碑があった。
明治6年創立の小学校跡地、と書かれている。


薬王院の参道に到着。


参道を進むと朱色の仁王門がある。
寄棟造り萱葺きの八脚門で、仁王像が安置されている。
県指定の重要文化財になっている。
正面は柵がしてあって入れないので、入口は右手を回ることになる。


右手に回ると、五輪塔があった。
水戸初代藩主 徳川頼房公の二男 松平亀千代丸(四歳)を供養するために建立された。
市指定重要文化財になっている。


大同二年(870)、桓武天皇の勅願により開山したと伝えられている。


本堂前の銀杏の大木
推定樹齢500年、幹回り4.7m、樹高22mで水戸市の保存樹になっている。


薬王院本堂
”水戸藩主 江戸但馬守 藤原通泰公により、享禄二年(1529)に建立されたもので、
室町期の建造物としての規模は、正に関東随一”と紹介されていた。
国の重要文化財に指定されている。


水戸藩御用 神楽屋敷跡の碑
水戸大神楽発祥の地と刻まれている。
水戸大神楽は日本三大神楽の一つと云われている、そうだ。


右が男坂、左が女坂
真ん中の道路は昭和十五年(1940)に開設された陸軍航空通信学校の軍用道路で、新道と呼ばれている。


吉田神社を目指し、左の女坂を進む。


吉田神社山門


吉田神社
神社の古文書に『正安四年(1301)は創建以来800余年』と記されているそうだから、西暦500年頃の話である。
日本武尊が東国平定の折り、この吉田神社が建っている朝日山に兵を留めて一休みしたので、
ここに神社を建てて日本武尊を祀ったのが由来となっているそうだ。
これまでの安全にお礼の意を込めて参拝した。


吉田神社からの展望は、「茨城百景」に選ばれている?


『あっちが水戸城の方かな?』


本町方面を望む。
右側の少し高く見える赤い建物は水戸本町のイオンのようだ。


吉田神社の参道脇には大きくて立派なけやきがある。
推定樹齢300年、幹回り6,1m、樹高13mで水戸市の保存樹になっている。
樹高は、数値よりも大きく見える。


備前堀だ。
慶長十五年(1610)に徳川頼房公が、関東郡代の伊那備前守忠次に命じ、千波湖の水を引いて用水とし、
合わせて千波湖の氾濫対策として築かせたもので、今も現役で使われている。
全長は約3里とのことだ。
堀に架かる橋が銷魂橋(たまげばし)である。


銷魂橋たまげばし)だ。
『とうとう着いたわねぇ』
元々は七軒町橋と呼ばれていたが、元禄三年(1690)”水戸を去る人々が別れ泣き悲しみ魂を消す”という意味から、
水戸光圀公が銷魂橋に改めたという。
今はコンクリート造りで昔の面影を偲ぶものはないが、
やはり記念の地に立つと、感慨深いものがある。


橋を渡ると高札が立てられていた場所を示す碑が。


道路の反対側に、江戸街道起点の碑があった。
『ここから江戸街道が始まるんだ』


本来であれば旧水戸街道はここで終わりだが、やはり水戸城(本丸跡)へ登城して終わりにしたい。
ということで、「陸前浜街道起点」を経由して、水戸城を目指すことにした。

本町通り
今は”ハミングロード”と名称を変えている。


皆さん、水戸街道を歩き終わって一つの目的を達したからか、何となく足取りが軽くなったようだ。


水戸(江戸)街道宿場跡
かつてこの水戸宿は、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠のほか様々な商家が軒を連ね賑わった。
当時水戸城下の下町でもっとも賑やかな繁華街であった。


本町通(ハミングロード)を200mほど進むと、国道51号線との交差点に陸前浜街道起点の碑があった。
ここから更に北の奥州岩沼宿へ至る”岩城相馬街道”が延び、仙台に通じることになる。


いったん本町通りに並行して51号線を柳町1丁目交差点まで戻り、水戸城本丸を目指して桜川を渡る。


常磐線の踏み切りがあった。
ちょうど、”フレッシュひたち”が通過するところだった。


国道51号線の一高下付近。
この左手の崖の上に水戸第一高等学校がある。


水郡線を跨ぎ・・・


本城橋を渡ると・・・・


14時ちょっと過ぎ、水戸城本丸の表門と云われる薬医門に到着だ。
この薬医門は、水戸城唯一残る建造物である。


水戸城登城を記念して全員で記念撮影。
たまたま居合わせた人に頼んで、撮影してもらった。
全員揃って撮影するのは、初めてである。


14時20分、水戸駅北口に到着。
水戸黄門様一行が出迎えてくれてるようだ。


この後、駅ビルのレストランで祝杯をあげ、水戸街道踏破を讃え合った。
これまでの道中が懐かしく想い出され、話しは大いに盛り上がったことは言うまでもない。
D子さんは、盛り上がりの最中だったが、車を取りに奥谷へ向かった。『ビール飲みたかったわっ』
『お疲れ様でしたっ!!』


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