2012年5月10日(木)
「成田街道を歩く」の第3回目となるこの日は、大和田宿から佐倉宿までを歩いた。
先人の情報によると約13.2Kmとのことだが、実際には京成大和田駅から京成佐倉駅までなので、
実質的に歩いた距離はもう少し長いと思われる。
先ずは常磐線で柏へ向かい、東武船橋線に乗り換える。
この日は風邪のため参加を断念せざるを得なくなった一人を除き、いつもの10名が集まった。
通勤・通学時間帯ではあったが、始発のためか車内は比較的空いており、全員座ることができた。
東武船橋駅で体調を整え、京成船橋駅に向かう。
9時5分、京成大和田駅に到着。
念入りに準備体操をする人も。
9時10分、佐倉宿を目指して、出発!
この日は午後3時頃から雨の予報が出ている。
それまでには何とかゴールの京成佐倉駅には到着したい。
国道296号線の大和橋を渡ると・・・
直ぐ左手に皇産霊神社(みむすびじんじゃ)があった。
皇産霊神社の鳥居
拝殿・本殿などはなく、小さな祠が祀ってあるだけだ。
皇産霊神社は、各地に鎮座し、日本の古典・古事記・日本書記等の伝える天地造化の大神、
高皇産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の二神大神を主祭神として
皇産霊大神と尊称して奉祀する神社である。
鳥居脇の榎は、保存樹木に指定されている。
皇産霊神社から少し行ったところに八坂神社があった。
牛頭天王社とも言い、吉橋霊場第78番札所になっている。
しかし道路の反対側にあり、車の交通量が激しく横断が難しいため、写真だけにしておいた。
成田街道(旧佐倉街道)には、見所はそれほど多くない。
国道296号線をひたすらに歩くだけである。
国道296号線は交通量も多く、歩道がやや狭いのが歩行者にとっては難である。
道不案内のため、道路沿いに適当な休憩場所を見つけることは難しい。
京成大和田駅を出発して約1時間、志津駅を過ぎた辺りに小さな公園があったので、
そこで休憩して行くことにした。入口に「のびのび公園」と書かれていた。
この日は気温が高く、汗ばむほどの陽気。
お茶で喉を潤す。
めいめいがお菓子やチョコなどを配り合う。
『どうぞどうぞっ!』『ご馳走さまっ!』
一度に全部は食べられないので、リュックに仕舞っておいて、後でいただくことに。
前方に高層マンションが見えてきた。
ユーカリが丘のマンション群だ。
左からウエストタワー、イーストタワー、サウスタワーと呼ぶらしい。
京成ユーカリが丘駅
こちらは山万ユーカリが丘線
不動産会社の「山万」が開発を行っているユーカリが丘ニュータウン内の交通の便を良くする目的で建設され、
同社の鉄道事業部が直接運営している、全国でも珍しい路線、ということである。
そろそろお腹が空いてきた。
ファストフード店や開店寿司店などが目に付き始めたが、この日は弁当持参である。
臼井城址公園まで我慢しよう!
佐倉市臼井台の町並みが見えてきた。
近くに「雷電の碑」があると聞いていたので、通りかかった古老に道を訪ねると、
親切に道順を教えてくれた。
国道を離れて住宅地を進む。
しかし、言われたような道が幾つもあり、微妙に曲がっていたりして、案内などもないため住宅街をうろつくことしばし。
どうやら道に迷ったらしい。
何人目かの通行人に訊ねて、ようやく雷電為右衛門碑に辿り着いた。
説明によると、
雷電為右衛門は、明和四年(1767)信州小県郡大石村に生まれ、石尊の辻に入門し学問・相撲を修行。
23歳で初土俵、28歳から16年間27場所大関を張った。
相撲成績は、21年間で254勝10敗、引き分け他21、勝率96.2%という驚異的な成績を残している。
等身大(身長197Cm、体重168.7Kg)の姿が刻まれている。
江戸時代最強の力士であった雷電は、相撲巡業で成田街道の臼井宿へ何度も訪れていた。
雷電は、妙覚寺の檀家である飯田家の甘酒茶屋「天狗」の看板娘おはんと結婚。
引退後も臼井で過ごしたと言われている。
石碑の前には妙覚寺がある。
妙覚寺の隣はすみれ保育園だ。
住宅地を通り抜けて臼井城址公園へ向う。
臼井城址の片隅にひっそりと佇む大田道灌の弟太田図書助資忠の墓碑。
空堀を見ながら、土橋を進むと、臼井城址公園に到着した。
二の丸跡は、芝生の公園になっている。
11時35分、お腹も空いていたし、ちょうど東屋があったので、ここで昼食だ。
昼食の弁当が美味しい。
昼食も終わり、元気になったところで再出発だ。
臼井城址の本丸跡辺りから印旛沼を望むことが出来た。
『いや~ぁ なかなか良い眺めだねぇ~』
『けっこう広いねぇ』
臼井城址公園を後にして、国道296号線の中宿交差点に、臼井町道路元標があった。
臼井町道路元標
この元標は、道路新設のため、約7mほど離れた場所からここに移設したとのこと。
明治天皇臼井行在所の碑も建てられていた。
国道296号線を少し進み、京成本線の踏切を渡った先は三差路になっている。
三差路に道標が建てられていた。
東成田道、西江戸道、南飯重生ケ谷道と刻まれている。
当然のことながら、東成田道(成田街道 旧佐倉街道)を進む。
光勝寺
宗祖は、証誠(しょうじょう)大師 一遍上人。
印旛沼を臨む丘陵の中腹にあり、風光明媚なので、臼井八景のひとつになっている、とのことだが、
林に囲まれて印旛沼見ることはできなかった。
本堂前には一遍上人の像がある。
本尊は阿弥陀如来だが、阿弥陀様を信じても信じなくても、
「南無阿弥陀佛」の念仏さえ唱えれば往生できると一遍上人は説いている。
京成本線に沿って進む。
ここも歩道が狭く、車の交通量が多い。
車には気を付けたい。
八幡宮神社
これも道路の反対側から写真を撮っただけである。
鹿島川の先に佐倉城址の森が見えてきた。
佐倉城の外堀
本丸へ通じる門
この門は昔は城内にあったが、市内の酒造家土井家に下賜され、長くその表門として使用された。
昭和三十七年に城主堀田家の菩提寺である甚大寺がこれを譲り受けて保管していたが、
昭和五十八年市に寄付し、この地に復元された、との案内がある。
帯曲輪へ通じる坂道
帯曲輪は、帯状に細長く城の回りを囲む曲輪で、幅4~5m、総延長260mもある。
その用途は敵が攻撃して帯曲輪までよじ登って来たときに、
武者走りにあらかじめ用意しておいた石や木材を投げ落とし、
反撃するために設けたもの。
本丸跡
本丸跡は佐倉連隊があったところで、その一角には兵士が文字を彫り込んだモッコクの木がある。
「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られているそうだが、ちょっと読めない。
千葉県指定の天然記念物になっている。
佐倉城には石垣はなく、土塁を築いて城を防御した。
第5代佐倉藩主堀田正睦公の像が建てられている。
堀田正睦公は、天保十二年(1841)幕府老中に就き、安政二年(1855)には老中首座となり、外国事務取扱に任じられた。
「攘夷」が叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが必要であるとして開国を唱え、
アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。
上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしたが、攘夷論者の天皇により、残念ながら却下されている。
タウンゼント・ハリス像
安政三年(1856)7月、米大統領の親書を携え、日本と修好通商条約を結び、開国を実現させるために来日。
堀田正睦公と幾度にもわたる直接交渉を重ねた。
安政五年(1858)6月、堀田正睦公の指揮下で交渉に当ってきた、井上清直、岩瀬忠震の両名が
アメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、「日米修好通商条約」に調印。
隊約を果たしたハリスは、5年9カ月を日本で過ごし、文久二年(1862)4月、南北戦争只中にある母国に帰国した。
馬出し
説明板によると、
馬出しは、城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られぬようにした土手のこと。
明治初期より連隊造営のため埋め立てられていたが、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、
長辺121m、短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認された、そうである。
復元にあたっては、長辺・短辺はそのままとし、深さを約3mにしてある、とのこと。
歴史民俗博物館で一休み。
歴史民俗博物館を後にし、京成佐倉駅を目指す。
この頃から空が次第に暗くなり、風が冷たく感じられるようになってきた。
竜巻注意報も出されていたようだ。
竜巻なんぞに巻き込まれたりしたら大変だ。
『こりゃ急がなきゃっ!』
京成佐倉駅
ここまで来れば一安心だが、何故か階段を駆け上がる。
ちょうど高砂行きの電車が停まっていた。
発車は14時45分、あと数分で発車するところで、何ともグッドタイミングである。
発車して直ぐに空が急に暗くなり、大粒の雨が降り出した。
次第に雨は土砂降りに変わり、直径1Cmほどの雹が電車の屋根を激しく叩きつける。
船橋に付く頃には雨も小降りになり、”一安心”といったところである。
次の第4回目(最終回)は2週間後の5月24日、佐倉宿~成田山新勝寺を歩くことになる。
皆さんとまた楽しく歩き、成田山新勝寺で祝杯を上げることにしたい。
”ウマさんの「成田街道を歩く」の目次”に戻る。
「成田街道を歩く」の第3回目となるこの日は、大和田宿から佐倉宿までを歩いた。
先人の情報によると約13.2Kmとのことだが、実際には京成大和田駅から京成佐倉駅までなので、
実質的に歩いた距離はもう少し長いと思われる。
先ずは常磐線で柏へ向かい、東武船橋線に乗り換える。
この日は風邪のため参加を断念せざるを得なくなった一人を除き、いつもの10名が集まった。
通勤・通学時間帯ではあったが、始発のためか車内は比較的空いており、全員座ることができた。
東武船橋駅で体調を整え、京成船橋駅に向かう。
9時5分、京成大和田駅に到着。
念入りに準備体操をする人も。
9時10分、佐倉宿を目指して、出発!
この日は午後3時頃から雨の予報が出ている。
それまでには何とかゴールの京成佐倉駅には到着したい。
国道296号線の大和橋を渡ると・・・
直ぐ左手に皇産霊神社(みむすびじんじゃ)があった。
皇産霊神社の鳥居
拝殿・本殿などはなく、小さな祠が祀ってあるだけだ。
皇産霊神社は、各地に鎮座し、日本の古典・古事記・日本書記等の伝える天地造化の大神、
高皇産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の二神大神を主祭神として
皇産霊大神と尊称して奉祀する神社である。
鳥居脇の榎は、保存樹木に指定されている。
皇産霊神社から少し行ったところに八坂神社があった。
牛頭天王社とも言い、吉橋霊場第78番札所になっている。
しかし道路の反対側にあり、車の交通量が激しく横断が難しいため、写真だけにしておいた。
成田街道(旧佐倉街道)には、見所はそれほど多くない。
国道296号線をひたすらに歩くだけである。
国道296号線は交通量も多く、歩道がやや狭いのが歩行者にとっては難である。
道不案内のため、道路沿いに適当な休憩場所を見つけることは難しい。
京成大和田駅を出発して約1時間、志津駅を過ぎた辺りに小さな公園があったので、
そこで休憩して行くことにした。入口に「のびのび公園」と書かれていた。
この日は気温が高く、汗ばむほどの陽気。
お茶で喉を潤す。
めいめいがお菓子やチョコなどを配り合う。
『どうぞどうぞっ!』『ご馳走さまっ!』
一度に全部は食べられないので、リュックに仕舞っておいて、後でいただくことに。
前方に高層マンションが見えてきた。
ユーカリが丘のマンション群だ。
左からウエストタワー、イーストタワー、サウスタワーと呼ぶらしい。
京成ユーカリが丘駅
こちらは山万ユーカリが丘線
不動産会社の「山万」が開発を行っているユーカリが丘ニュータウン内の交通の便を良くする目的で建設され、
同社の鉄道事業部が直接運営している、全国でも珍しい路線、ということである。
そろそろお腹が空いてきた。
ファストフード店や開店寿司店などが目に付き始めたが、この日は弁当持参である。
臼井城址公園まで我慢しよう!
佐倉市臼井台の町並みが見えてきた。
近くに「雷電の碑」があると聞いていたので、通りかかった古老に道を訪ねると、
親切に道順を教えてくれた。
国道を離れて住宅地を進む。
しかし、言われたような道が幾つもあり、微妙に曲がっていたりして、案内などもないため住宅街をうろつくことしばし。
どうやら道に迷ったらしい。
何人目かの通行人に訊ねて、ようやく雷電為右衛門碑に辿り着いた。
説明によると、
雷電為右衛門は、明和四年(1767)信州小県郡大石村に生まれ、石尊の辻に入門し学問・相撲を修行。
23歳で初土俵、28歳から16年間27場所大関を張った。
相撲成績は、21年間で254勝10敗、引き分け他21、勝率96.2%という驚異的な成績を残している。
等身大(身長197Cm、体重168.7Kg)の姿が刻まれている。
江戸時代最強の力士であった雷電は、相撲巡業で成田街道の臼井宿へ何度も訪れていた。
雷電は、妙覚寺の檀家である飯田家の甘酒茶屋「天狗」の看板娘おはんと結婚。
引退後も臼井で過ごしたと言われている。
石碑の前には妙覚寺がある。
妙覚寺の隣はすみれ保育園だ。
住宅地を通り抜けて臼井城址公園へ向う。
臼井城址の片隅にひっそりと佇む大田道灌の弟太田図書助資忠の墓碑。
空堀を見ながら、土橋を進むと、臼井城址公園に到着した。
二の丸跡は、芝生の公園になっている。
11時35分、お腹も空いていたし、ちょうど東屋があったので、ここで昼食だ。
昼食の弁当が美味しい。
昼食も終わり、元気になったところで再出発だ。
臼井城址の本丸跡辺りから印旛沼を望むことが出来た。
『いや~ぁ なかなか良い眺めだねぇ~』
『けっこう広いねぇ』
臼井城址公園を後にして、国道296号線の中宿交差点に、臼井町道路元標があった。
臼井町道路元標
この元標は、道路新設のため、約7mほど離れた場所からここに移設したとのこと。
明治天皇臼井行在所の碑も建てられていた。
国道296号線を少し進み、京成本線の踏切を渡った先は三差路になっている。
三差路に道標が建てられていた。
東成田道、西江戸道、南飯重生ケ谷道と刻まれている。
当然のことながら、東成田道(成田街道 旧佐倉街道)を進む。
光勝寺
宗祖は、証誠(しょうじょう)大師 一遍上人。
印旛沼を臨む丘陵の中腹にあり、風光明媚なので、臼井八景のひとつになっている、とのことだが、
林に囲まれて印旛沼見ることはできなかった。
本堂前には一遍上人の像がある。
本尊は阿弥陀如来だが、阿弥陀様を信じても信じなくても、
「南無阿弥陀佛」の念仏さえ唱えれば往生できると一遍上人は説いている。
京成本線に沿って進む。
ここも歩道が狭く、車の交通量が多い。
車には気を付けたい。
八幡宮神社
これも道路の反対側から写真を撮っただけである。
鹿島川の先に佐倉城址の森が見えてきた。
佐倉城の外堀
本丸へ通じる門
この門は昔は城内にあったが、市内の酒造家土井家に下賜され、長くその表門として使用された。
昭和三十七年に城主堀田家の菩提寺である甚大寺がこれを譲り受けて保管していたが、
昭和五十八年市に寄付し、この地に復元された、との案内がある。
帯曲輪へ通じる坂道
帯曲輪は、帯状に細長く城の回りを囲む曲輪で、幅4~5m、総延長260mもある。
その用途は敵が攻撃して帯曲輪までよじ登って来たときに、
武者走りにあらかじめ用意しておいた石や木材を投げ落とし、
反撃するために設けたもの。
本丸跡
本丸跡は佐倉連隊があったところで、その一角には兵士が文字を彫り込んだモッコクの木がある。
「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られているそうだが、ちょっと読めない。
千葉県指定の天然記念物になっている。
佐倉城には石垣はなく、土塁を築いて城を防御した。
第5代佐倉藩主堀田正睦公の像が建てられている。
堀田正睦公は、天保十二年(1841)幕府老中に就き、安政二年(1855)には老中首座となり、外国事務取扱に任じられた。
「攘夷」が叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが必要であるとして開国を唱え、
アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。
上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしたが、攘夷論者の天皇により、残念ながら却下されている。
タウンゼント・ハリス像
安政三年(1856)7月、米大統領の親書を携え、日本と修好通商条約を結び、開国を実現させるために来日。
堀田正睦公と幾度にもわたる直接交渉を重ねた。
安政五年(1858)6月、堀田正睦公の指揮下で交渉に当ってきた、井上清直、岩瀬忠震の両名が
アメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、「日米修好通商条約」に調印。
隊約を果たしたハリスは、5年9カ月を日本で過ごし、文久二年(1862)4月、南北戦争只中にある母国に帰国した。
馬出し
説明板によると、
馬出しは、城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られぬようにした土手のこと。
明治初期より連隊造営のため埋め立てられていたが、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、
長辺121m、短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認された、そうである。
復元にあたっては、長辺・短辺はそのままとし、深さを約3mにしてある、とのこと。
歴史民俗博物館で一休み。
歴史民俗博物館を後にし、京成佐倉駅を目指す。
この頃から空が次第に暗くなり、風が冷たく感じられるようになってきた。
竜巻注意報も出されていたようだ。
竜巻なんぞに巻き込まれたりしたら大変だ。
『こりゃ急がなきゃっ!』
京成佐倉駅
ここまで来れば一安心だが、何故か階段を駆け上がる。
ちょうど高砂行きの電車が停まっていた。
発車は14時45分、あと数分で発車するところで、何ともグッドタイミングである。
発車して直ぐに空が急に暗くなり、大粒の雨が降り出した。
次第に雨は土砂降りに変わり、直径1Cmほどの雹が電車の屋根を激しく叩きつける。
船橋に付く頃には雨も小降りになり、”一安心”といったところである。
次の第4回目(最終回)は2週間後の5月24日、佐倉宿~成田山新勝寺を歩くことになる。
皆さんとまた楽しく歩き、成田山新勝寺で祝杯を上げることにしたい。
”ウマさんの「成田街道を歩く」の目次”に戻る。
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