ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

富士山はどこ? 曽我丘陵ハイキング

2012年02月26日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2012年2月26日(日)


「健康ウォーキングの会」の仲間からお誘いが掛かり、曽我丘陵から富士山・梅林を愛でる
ハイキングに参加した。
当初は1週間前に予定されていたのだが、曽我梅林の梅は全く咲いていない状態のため、
この日に延期されたものである。

日曜日となったのは、”少しでも負担を軽く”という提案者の心配り。
ホリデーパスを利用すれば、半額以下で行けるので、これはありがたい。
(停車しているのは特急スーパーひたちでこれはパス)


荒川沖駅06:16発の電車に乗り込んだ。
土浦から乗車した有志5名と合せて計11名の参加者になった。
毎週金曜日の例会のいつものメンバーである。


日曜日のため、この車両に乗っているのは我々一行の他数人のみ。
早速曽我梅林の話に花が咲き、その賑やかなこと。


山の手線、東海道線と乗り継いで国府津駅で御殿場線に乗り換える。


9時11分発沼津行きの御殿場線は3両編成だ。


御殿場線車内
本数が少ない割には空いている。
観梅目当ての人の出足はやや鈍いようだ。まだ梅の見頃ではないということ?


この日のスタート、国府津から2つ目の上大井駅に到着。
ホームが濡れている、ということは少し前まで雨が降っていた?
少し不安になってきたが、予報(曇り時々晴れ)を信じるしかない。


上大井駅前
普通であれば、駅前で準備体操、ということになるのだが、
ついつい気持ちが焦るのか、直ぐに出発となった。
9時20分、時間はたっぷりある。


この日のコースを推奨した二人が先頭を歩く。
『2年前に来た時は満開だったのよねぇ』
『富士山もきれいに見えたのよね~』


ハイキングコースに差し掛かる。


コースの案内が分岐点や角には必ずと言っていいほど立てられており、道に迷うことはない。


昨年喜寿を迎えますます元気なTさんも参加している。


力強く颯爽と歩く姿は格好良い。
実は女性陣に一番人気があるのである。
『決まってル~!』


のどかな田園風景の中を進む。
ひんやりした空気の中を歩くのは気持ちが良い。


9時45分、了義寺に到着。
案内板によると、
了義寺は、貞治六年(1367)八月、足柄地頭和田宗時が飛龍山了義寺と号し、
鎌倉から古先印元禅師を招いて開山した寺である。

と記されている。
臨済宗建長寺派の寺である。


皆さんが一休みしている間に本堂へお参りして行くことにし、石段を上る。


真新しい鐘楼
木の香りがするようだ。


飛龍山了義寺の本堂


本堂内部は凛とした空気が伝わってくる。
案内板にはまた、本堂には十二枚の杉の板戸絵があり、竜虎、竹林図など見事な墨絵で、
寛政六年(1794)秋、穐山桜氏雪保「秋山桂月」という女性が四十歳の頃、了義寺に
招かれて才筆をったと伝えられ雪舟派の流れをくむ近世漢画の貴重な資料である。
と記されていたが、格子の隙間から撮ったため、周りはよく見えなかった。


了義寺を後にして「いこいの村あしがら」を目指して進んでいると、


道端にふきのとうが芽を出していた。
春を感じさせるひとコマである。


平地は畑、斜面はみかん畑というのどかな風景が広がる。


少しばかり坂道になってきた。
次第に身体が温まり、首筋・額に汗が滲んできた。


一休みして水分補給していくことに。
『お茶が美味しいわねっ』


またしばらく坂道を上って行く。
水仙の花が咲いていた。


いこいの村あしがら」横の大井町農村公園で体調を整える。


おおいゆめの里」から富士山方面を望むが全く見えない。
果たしてこの方角が合っているのかも分からない。


俳句会の大御所、野村浜生の俳句の碑があった。
春の雨 一村やわらかに 沈む


CALFORNIAナンバーを付けたトレーラータイプのキャンピングカーが
何故こんなところにあるのだろう?
このタイプのキャンピングカーは日本では殆ど見ることはない。


いこいの村あしがら


「いこいの村あしがら」の向かい側に”お山のひなまつり”の看板が。
中にはおひなさまが飾られていた。


お地蔵さん前を右に曲がり、浅間山電波塔を目指す。


なかなか見晴しが良い。


曽我丘陵は殆どが舗装されている、また急な坂道はないので歩き易い。
皆さん、元気いっぱいである。


曇っているので時折視界が開けても、方角が分からない。
こちらは相模湾方面?


あちこちに梅林があるが、丘陵の梅はご覧のとおり。


まだ1分咲き程度か?


『この辺りはまだちょっと早過ぎたわねぇ』
『今年は異常なのよっ』


浅間山の無線鉄塔を通過。


曽我丘陵の尾根に沿って進む。


NHKの新しく出来たばかりの無線鉄塔前で一休み。


不動山頂上への入口の標識があったが、頂上は視界が全く効かないため、素通りだ。


見事な杉の林だ。


曽我丘陵一帯はアオキの木がたくさん自生している。
アオキは日陰でもよく育つのが特徴だ。
雌雄異種で、冬に真っ赤な実がつくのは、雌株である。


不動山を過ぎると、ずっと下りが続く。
そろそろお腹が空く頃だが、弁当に適した場所が見つからない。
『梅林までお昼は我慢しようねっ』
まだまだ元気である。


曽我丘陵中腹の南に面した一帯は早咲きの梅が5分咲きの状態といったところ。
まもなく満開を迎えそうだ。


山を下ると眺めが良くなってきた。
『素晴らしい景色ねぇ』


相模湾が望める。


梅林を縫うように下る。


もう少し晴れて富士山が望めれば申し分ない眺めなのだが・・・


六本松跡の碑
ここは5本の道の分岐になっている、とのこと。


どちらへ行けば良いのか分からなくなったので、一本松を目指すことにした。
国府津方面と書いてあるし、次々と人が上ってくるので、こちらへ行けば何とかなるだろう。


お腹が空いているのに、元気いっぱいの笑顔が良い。


ほどなく一本松に到着。
六本松の代替わりだが、随分と若い木である。
”別所梅林への近道”と記されているので一安心。


急な坂道が続く。


こちらは小田原方面
真ん中を走っているのは「小田原厚木道路」である。


曽我丘陵を下りきると一段と梅の花が咲いている状態になってきた。
満開の梅の花はやはり美しい。


二宮尊徳像と遺髪塚
尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。
当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、
分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
天保十一年(1840)尊徳は川久保家の再興をはかるることになり、市太郎、
民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。
その結果もっとも優れた成果をあげた民次郎が川久保家を継ぐことになった。
この民次郎は下野国桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、長らく尊徳に従者として
仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。
この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで
建てたものである。



別所梅林
出店が並んで賑やかだ。


見事な梅の盆栽
買って帰るのも大変なので、写真で我慢することにした。


12時35分、梅の木の下で弁当を広げる。
殆どの梅はまだ蕾の段階だが、花より団子である。
別所梅林・梅まつりは3月6日まで延長することになったそうだ。
梅まつり期間中は梅の木の下への出這入りは自由だが、農家の方々が農作業に入るため、
出這入りはできなくなる。観梅は自由である。


日曜日ということもあって、大勢の人で賑わっていた。


郷土芸能が始まるそうで、特設舞台前には既に大勢の見物客が
陣取って開演を待っていた。


寿獅子舞の様子
笛・太鼓・鐘の拍子に合わせて獅子が舞うところ。
小田原市の無形文化財に指定されている。


ひょっとこ? が出てきた。


二人のひょっとこのパントマイムのような軽妙なやり取りが面白い。


案内板前の紅梅は見頃になっている。
案内板には、曽我の梅林は、曽我別所梅林、曽我原梅林、中河原梅林からなり、
その規模は90ヘクタール、約30,000本の白梅が植えられており、小田原梅の産地で・・・
毎年600~650トンの生梅が収穫される・・・
と記されている。
神奈川県の景勝50選に選ばれている。


下曽我駅に向かう。


これは蝋梅、既に満開は過ぎて終期を迎えているが、まだ独特の香りを漂わせている。


20分ほどでこの日のゴール、下曽我駅に到着。
次の電車まで40分ほどある。


駅前で、みかんや梅干しが売られていた。
みかんはどれでも1袋100円ということで、上々の売れ行きだ。
自分は土産に梅干しを買っていくことにした。


1時間に1本の電車のため、ホームは人で溢れた。
このような状態になるのは梅まつりの期間だけかもしれない。


国府津で東海道線に乗り換え、帰路に就いた。
早くも次はどこにしようか話し合ってる?


この日は、予報に反して曇りだったことから、”梅の背景に富士山”という絶景を
楽しむことはできなかったのは残念ではあった。
曽我梅林の満開はもう少しの状態だったが、早咲きの白梅十郎梅は見頃を迎えていたので、
1週間遅らせた効果はあったというもの。
提案した二人も何とか面目を保って一安心といったところだろう。
いろんな場所に出かけているお二人の新たな提案に期待したい。


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霞ヶ浦環境科学センターと霞ヶ浦湖岸

2012年02月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年2月24日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
2012年第8回「霞ヶ浦環境科学センターと霞ヶ浦湖岸」を巡るウォーキングに参加した。

第一集合場所、土浦市民会館には9名が集まった。
この日の予報は申し分のない天気なのに、参加者がいつもより少ないのが気になりつつ・・・


車3台で、第二集合場所の霞ヶ浦環境科学センターへ向かった。


参加者の少ないことが気になっていたが、そんな心配は無用だった。
結局直行した12名と合せて21名の参加者になった。
事前に配布する地図に集合場所の住所を記入するようにしたので、
カーナビにセットして直接来る人が増えたのかも。


早速、準備体操だ。
『ぐ~っと、身体を回して~っ!』


青空の下での準備体操は気分が爽快になる。


9時35分、出発!!


のどかな田園風景の中を歩く。
しんがりは会長が務める。


梨の木畑
きれいに選定されている。


予報ではこの日は3月下旬の気温になるとのこと。
(結果は、土浦市の最高気温は昨日より4℃高い13℃)
15分も歩くと汗ばんできた。堪らずに上着を脱いで調節タイムだ。


先頭を務めるのはOさん。
1か月前に下見に訪れたとのこと。頼りになる人である。


何か気になるものでも??


目の前には荒涼とした谷津田が広がっていた。
『人手が入らないとこんなになっちゃうんだよねぇ』


木立の間に神社らしき建物が見えてきた


沖宿鹿島神社である。


この日の安全を祈願して行こう。
立派な社殿造りの拝殿である。
10月体育の日前の土・日曜日に屋台の巡行が行われる、そうだ。


野焼きの畑仕事風景。
草木を焼いた時の匂いと煙が堪らなく良い、と感じるが、
近頃このような風景が少なくなったのは寂しい。
後方に霞ヶ浦が見える。


眩しいほどの日差しを受けて進む。
女性陣は話しに夢中である。


海蔵寺かいぞうじ)の入口


寶珠山の扁額が見える海蔵寺の山門。
四脚門の造りとなっている。


海蔵寺本堂
案内板によると、
海蔵寺は応永年間(1394~1427)の創建で、開基は小田城九代目城主の
小田治朝(はるとも)で、初期の宗派は明らかではない。
もとは背後の台地にあったが、文禄年間(1592~95)現在の地に移転した。
元和元年(1615)に神龍寺六代目の明堂慶聡(めいどうけいそう)が開山となり、
現在の宗派は曹洞宗、山号は宝珠山。と記されている。
土浦市指定の文化財である小田治朝の墓は、さきほど訪れた鹿島神社の近くにある。


本殿の左側に仲睦まじそうな夫婦の像があった。
住職によると、近くの実業家夫婦が自分たちをモデルにして造ったそうで、
形見にこの像を寺に預けたものらしい。


海蔵寺から10分ほど歩くと霞ヶ浦湖岸に到着した。


『いやぁ、波が静かで気持ちが良いねぇ』
『素晴らしい景色だわ~』
春の陽気を漂わせる霞ヶ浦に思わず歓声が上がる。
後方に土浦市街地の高層ビルが見える。


湖岸に沿って進む。話も弾む。


堤防の内側は一面蓮根畑になっている。


胸まで浸かり、泥だらけになりながらの蓮根の収穫に、
『大変な作業だなぁ~』


採れたばかりの蓮根の泥を高圧の水で洗い流している。


にこやかな女性陣はいつも元気である。
『このまま春になって欲しいわねぇ』


湖面には、たくさんの鴨たちが浮かんでいた。


左に曲がり、蓮根畑の中を陸を目指す。


仕事の邪魔にならないように。


形の整った蓮根、美味しそうだ。


さらに左に折れて蓮根畑の中を進み・・・


県道118号を横切って坂道を上ると・・・


広大な蓮根畑が一望できる。
『いやぁ 広いなぁ』


さらに坂道を上ると・・・
目の前に沖宿八坂神社が現れた。


拝殿は普通の造りだが・・・


本殿は、一間社流造(ながれづくり)となっている。
2週間前に阿見町の散策で訪れた「若栗八坂神社」と同じ造りである。


ここで、一休み。
女性陣は腰を降ろしてすっかり休憩モードである。


再出発して直ぐに、霞ヶ浦環境科学センターが見えて来た。
『あれっ、こんなに近くだったのか?』


11時25分、ゴールの霞ヶ浦環境科学センターに到着。
直ぐに整理体操だ。


『はいっ今日も御苦労さまでしたっ!』


霞が浦環境科学センターに来たついでに、館内を観て帰ることにした。
見学料は無料となっている。


湖沼とともに生きる」をテーマに、霞ヶ浦の歴史・暮らし・生き物たち・水質・
地球環境など様々な視点から構成された展示品が陳列されている。
展示室の様子その1


展示室の様子その2


展示室の様子その3


30分ほど霞ヶ浦環境科学センターを観て回り、帰路についた。


昨日の冷たい雨が嘘のように晴れ上がり、気温は3月下旬の温かさ。
霞ヶ浦湖畔は実に気持ちの良いウォーキング日和となった。
駆け足で霞ヶ浦の生い立ちから地球環境までを見て、少しばかり知識が向上した気分になった。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次

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常陸国分寺と常陸国総社宮巡り

2012年02月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年2月17日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキング同好会」が主催する、
2012年第7回「常陸国分寺と常陸国総社宮」を巡るウォーキングに参加した。

朝起きてみて一面真っ白な雪化粧にびっくりしたが、会長からの中止連絡はない。
この日の予報は晴れのち曇り、それを信じて出かけた。
第一集合場所、土浦市民会館には9名が集まった。


車2台で、第二集合場所の石岡市の柏原池公園へ向かった。
直行した5名と合せて14名の参加者になった。
朝方の寒さと真っ白な雪のことを考慮すると、上出来の人数だ。


柏原池公園も真っ白である。


池には黒鳥が羽を休めていた。
黒鳥は千波湖ではよく見かけるが、この辺りでは珍しいのではないか。


雪の上でやる準備体操は、新鮮な気分になる。


入念に身体を解して・・・


9時50分、元気良く出発!
目指すのは、先ずは「常陸国分尼寺」


この日先頭を務めるのは、会長だ。
過去に何度も歩いたことがあるそうで、コースを知り尽くしている。


真っ白な田んぼの後方に見えるのは、龍神山。
二つに分かれているが、元々は繋がっていた?


常磐高速道を跨ぐ。


土浦方面を望む。
流れは順調である。


住宅街を進む。
この頃から日が差し始め、温かくなってきた。


ほどなく、「常陸国分尼寺跡」と書かれた石碑に従って左折。


常陸国分尼寺」の説明板に見入る。
説明板には、
国分寺・国分尼寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅願により、
鎮護国家(ちんごこっか)を祈るため国ごとに置かれた寺院である。
国分尼寺は、法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、常住の尼僧10名を置き、
寺院の財政は水田10町によって賄われた。
一般に国分尼寺は、国分寺より早く衰退したらしく、今日ではその遺跡すら
どこにあるのか不明なものが多い。


常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石群が
基檀上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である

と記されている。
国の特別史跡に指定されている。
写真は金堂跡


1,200年以上も前の昔を偲びつつ、「常陸国分尼寺跡」を後にした。


またしばらく住宅地を進む。


『たしかこっちの方向だと思ったんだが・・・』
地図にも載っていないほどの細い路地を通り抜けると・・・


「常陸国分寺」の本堂裏手に出ることが出来てひと安心。
本堂の銅葺き屋根が雪が降ったように白く見える。


都々一坊扇歌堂どどいつぼうせんかどう
都々一坊扇歌は、文化元年(1804)医者岡玄策の子として、久慈郡磯部村(常陸太田市磯部)
に生まれ、幼名を子之松、のちに福次郎と改めた。
幼少の折、病により失明同様となったが、芸の道を志し、20歳のとき江戸に出て、船遊亭扇橋
の弟子となった。その後、寄席芸人としての修行が続き、天保九年(1838)一枚看板を許され、
当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して、新しく「都々逸節」を作り,
都々一坊扇歌と名のった。

(石岡市教育委員会)
堂は市指定有形文化財になっている。


現在の「常陸国分寺」本堂
説明板には、
国分寺は、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)といい、
金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)一部を安置した七重塔を設け、
常住の僧二十名と、最勝王経十部を置いた。
寺院の財政は、封戸五十戸、水田十町によってまかなわれた。

と記されている。
『いやぁ、立派なもんだなゃ!』


旧千住院山門
千住院は府中における大寺のひとつで、末寺2ケ寺、門徒21ケ寺など多くの寺が
主に府中の町中にあったが、明治の初めにはほとんどが廃寺となってしまった。
また千住院も大正八年(1919)に国分寺と合併して廃寺となった。
現在はこの山門のみが残されている。常陸国分寺の山門でもある。
市指定有形文化財


国分寺薬師堂
毎年4月3日にはお釈迦様の誕生を祝う”花祭り”が行われ、たくさんの人出で賑わうそうだ。
もちろん甘茶も振舞われる。


弘法太子堂
『南無大師遍照金剛』


参道には大きな銀杏の木がそびえる。
推定樹齢300年以上は経っているように見える。


常陸国分寺を後にし、旧水戸街道を「常陸総社宮」へ向かった。
旧い造りの蔵の前を進む。


通りの店先には、雛人形が飾られている。
石岡のひな巡り”は駅前の御幸通りや中町通りの約100店舗の店先に、多彩なお雛様が飾られる。
今年は3月4日(日)まで開催される。


酒屋の店先には、町名を貼った酒が並べられていた。
随分とたくさんの町名があるものだ。


あちこちで旧い蔵の修理が行われていた。


東日本大震災での損傷が大きかったのだろう。
大変だろうが、しっかりと修理して、後世に繋げて欲しい。


市内の小学生たちが、店を”調査”して回っていた。


石岡の金刀比羅さま」はかつては「笠間の稲荷か、石岡の金刀比羅さまか」
と謳われたほどの賑わいを極めた神社だそうである。


江戸時代には、石岡藩主松平頼繩候が厚く金比羅さまを信仰されていた、とのこと。
社殿は昭和四年(1929)の”石岡の大火”で焼失し、昭和十一年(1936)再建されたが、
平成十二年(2000)に再度焼失、平成十九年(2007)に現在の社殿が再建された。


11時ちょうど、ここで、一休みだ。


次は、「常陸総社宮」を目指す。


ちょっと周り道になったが、金比羅さまから10分ほどで、「常陸総社宮」に到着。


杉木立で薄暗い参道を進む。
年番の各町が奉納した灯篭が並べられている。


神門前に、土俵があった。
相撲が盛んなのだろう。


雪に覆われた萱葺き屋根の神門をくぐって境内に入ると・・・


神楽殿に飾られた雛人形がひと際目を引く。


七段飾りのなかなか豪華な雛人形である。
これも”石岡のひな巡り”の一環のようだ。


本殿に参拝していこう。
説明板によると、
常陸国総社宮は、大宝令に制定された神祇官に相当するもので、神祇の祭祀を掌り、
国内の諸社を総管した神社である。
古くは国衙の近くに設けられ、国府の宮と称されていたが、延喜年間(901~922)に
天神地祇の六柱の神が祀られ、六所の宮と呼ばれるに至り、さらにその後、総社の名が
使用され、今日に至った。
社伝によると、始め国家鎮護の社として、全国のうち、常陸・武蔵・甲斐・駿河・長門・対馬の
国府が選ばれ、常陸国府に第一創建あるべし、の勅命により建てられたとある。

と記されている。
本殿は、石岡市指定の文化財になっている。
常陸國總社宮大祭(石岡のおまつり)は、毎年9月の敬老の日を含む土・日・月に
開催される祭事であり、川越氷川祭・佐原の大祭とともに関東三大祭りの一つである。


拝殿前の楠の大木は、落雷により、半分が焦げた状態になっているが、
元気に成長を続けている。


何故か境内には、大和武尊の腰掛石がある。


境内には色んな神様が祀られている。
手前から水の神・厳島神社、火防の神・愛宕神社、食物の神・香丸稲荷神社、星の神・星宮神社、
染物縁起の神・愛染神社、酒造の神・松尾神社
と並んでいる。


時計は11時30分になろうとしていた。
今日は弁当なしだ、陸国総社宮を後にし、ゴールの柏原池公園を目指そう。


石岡市民会館前を通る際に、”石岡の陣屋門跡”の碑があった。
石岡の陣屋は、元禄十三年(1700)、初代水戸藩主徳川頼房の五男松平頼隆が
府中藩主となったことによって設けられた。
明治初期に建物は取り払われたが、陣屋門だけは残され、現在は石岡小学校敷地内
に移設されている。



若宮八幡神社
社伝によれば、
聖武天皇の時代、神亀五年(728)に建立されたとされている。
その後、永保二年(1082)には八幡太郎義家が奥州征伐の折に参詣し、
応永二年(1395)には太田道灌が参詣したと伝えられている。
また、天正十八年(1590)には佐竹氏の侵攻により焼失したが、
寛永四年(1627)に皆川山城守により再建された
、とのこと。


県道5号線を進む足取りは軽い。


常磐高速道を渡るとゴールは近い。


朝方田んぼを覆っていた真っ白な雪は跡かたもなく融けてしまっていた。
天気予報は大当たりだ。


12時10分、ゴールの柏原池に到着。
2時間20分、ちょうど良い散歩コースと言ったところだ。


いつもの整理体操をして、


『はいっ 今日もお疲れさんでしたっ!!』


第一集合場所の土浦市民会館に到着した頃には、お腹も空いてきた。
市民会館裏にある、魚魚料理「仙華」で昼食をしていくことにした。
この店に立寄るのは初めてである。


日替わりランチは、目鯛の焼き物。


『美味しいわねっ』
食後にコーヒーが付いて840円はリーズナブルである。
これからもちょくちょく立寄ることになるだろう。


朝起きて雪で一面真白になっていたのには正直言ってびっくりした。
数年前に”石岡のおまつり”で一度常陸総社宮を訪れたことはあるが、
常陸国分尼寺、常陸国分寺は初めてだ。
石岡市内は、神社や寺院が多く、歴史を感じさせる町で見所も多い、と聞く。
市内の歴史や文化を巡る”常陸大掾氏(だいじょうし)歴史コース”や”健康ウォーキングコース”も用意されているので、
機会があればまた歩いてみたい。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次


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春はまだかな? 阿見総合運動公園コース

2012年02月10日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年2月10日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキング同好会」が主催する、
2012年第6回「阿見総合運動公園コース」を歩くウォーキングに参加した。

この日の第一集合場所、乙戸沼公園には12名が集まり、


車3台に分乗して、第二集合場所の阿見中央公民館へ向かった。
直行した人と合せて、23名となり、久しぶりに20名を越える参加者だ。


挨拶もそこそこに、いつもの準備体操・・・
真ん中を車が通る。


9時35分、元気良く出発だ!
目指すは、阿見総合運動公園。


出発して数分ほどした頃に一人が遅れて合流。これで総勢24名だ。
『あらぁ お久しぶり~っ』
やはりいつもと比べて賑やかである。


乙戸川の支流に沿った農道を進む。
日差しを正面から浴びると心持ち温かい。


横断歩道が見当たらない。車が途切れたのを見計らって横断だ。


風が遮られる場所は小春日和のよう。
身体も温まってきた。


『もうすぐ春になるのよねぇ』
今年は寒い日が続いたせいか、春が待ち遠しく感じられる。


堪らずに上着を脱いでしまった人も。
『厚着して来たら、暑くなっちゃった』


10時10分、阿見総合運動公園に到着。


ここで一休みだ。


お茶菓子タイム、めいめい持ち寄ったお菓子の交換が始まる。


『あらぁ 美味しそうねぇ ご馳走さまぁ』
いつもの光景である。


運動公園内の調整池を一回り。


調整池の後ろに見えるのは、フットサルコート。


阿見総合運動公園は広い。
野球場は3面もある。


野球場に沿って歩く。


右手のフットサルコートは照明設備付きである。


今は水は枯れているが、水辺の中央を通れるようになっている。


水生植物が花を咲かせる頃に訪れてみたい。


日本陸上連盟3種公認を受けた本格的陸上競技場。


林を抜けると、運動公園を一回りしたことになる。
前述の設備の他にも、100名収容可能な炊事場付きのキャンプ場まで設置されている、
というから羨ましい限りだ。


運動公園向かい側の阿見ゴルフクラブ脇を通って若栗方面へ進む。


この辺りのかなり広い一帯が”若栗”という地名。
ここは若栗2476、番号がそのまま住所になっているようなものだ。


どこか懐かしい感じのする風景である。


大きくて立派な木だが、何という木なのだろう?


善照寺に寄って行くことにした。


善照寺の入口近くに鳥居があり、その奥に小さな社があった。
鳥居の額束には天満宮と書かれている。


天樹山光明院善照寺の本殿。
明徳元年(1390)十三世明快大僧都の法孫、良諄法印の創設と伝えられている、そうだ。


天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来座像。
宗派はあまり気にしない。とりあえずお参りだけはして行こう。


こちらは不動堂


鐘楼があったので一撞きしてみた。
お腹にまで響き渡るなかなか良い音色であった。


鐘楼前の仏堂にはいろいろな仏像(お地蔵様?)が並べられていた。


四脚門造りの山門は、阿見町指定有形文化財に指定されている。


何かに見惚れているようだが???


中央にゴルフボールが、そして左側にはゴルフバッグが据えられている。
相当ゴルフが好きだったのだろうと、想像できる。
No.19コースが描かれているのは、天国でもゴルフが出来るように、との願い?


若栗八坂神社
祭神は健速須佐男命となっているが、古くは除疫の神である牛頭天王(ごづてんのう)を祀り、
元亀元年(1570)の創建、と伝わる。


拝殿は今は鉄板葺きだが、かつては萱葺き屋根であった。
前から見ると一見平凡な造りに見えるが・・・


拝殿の後ろの本殿は、一間社流造(ながれづくり)で正徳三年(1713)の建立。
絵様繰形(えようくりがた)などは江戸時代中期の特色を示しているとのこと。
阿見町指定の有形文化財となっている。


阿見町中央公民館が見えて来た。


11時45分、中央公民館に到着。
2時間10分、ちょうど良い散歩コースといったところだ。


整理体操をして・・・

『お疲れ様でしたっ!』

連日平年以下の寒い気温が続いている中、阿見総合運動公園周辺を歩いた。
久しぶりに20名を越える参加者が集まり、賑やかな行軍となった。
この日は微風だったため、歩いていると汗ばむくらいの陽気に感じられたが、
”春が待ち遠しい”この頃である。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次

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雨もまた楽し? 房総高宕山ハイキング

2012年02月06日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2012年2月6日(月)


「まゆみの会」事務局を務めている方から、貸切バスに空きが出たから、と誘いがかかり、
特に予定はなかったので、参加させてもらうことにした。

今回の行く先は、「房総半島・高宕山」ということである。

「まゆみの会」は朝が早いことは、前回にも触れた。
集合時刻より15分前に荒川沖国道6号つくば銀行前でバスを待つ。
この日は前日に比べて少し暖かいとの予報だが、やはり寒い。


6時30分、予定どおりにバスが到着。
28人乗りの小型バスは石岡・土浦と回って来て、既に満席に近い。
おなじみの顔が温かく迎えてくれた。


この後、牛久駅から常南交通本社と回って、定員いっぱいの27名が乗り込んだバスは、
圏央道稲敷ICから国道408号を通り、成田ICから東関東道・館山道と走り、
館山道市原SAで小休止。
予報では昼過ぎから雨だったが、早くも小雨がパラつき出した。
『予報とは違うんじゃないの?』


高宕山登山口に近い「植畑上郷バス停」へ到着したのは既に9時50分。
道端で早速雨具の準備に取り掛かる。


約10分で、準備が整った。


10時5分、高宕山目指して出発!!


「石射太郎山コース」(いしいたろうやま)の案内標識に従って進む。
この日のコースは、千葉県「関東ふれあいの道」(ニホンザルと出会うみち)にも指定されている。


しばらくはアスファルトの平坦な道が続く。


田園風景が広がる。
雨のため、遠くの山々は余計に霞んで見える。
なかなか風情のある風景だ。


”パンッ””パンッ”と弾ける音がしたので、猟でもしてるのかと思ったら、竹を燃やしていた。
熱が道路脇まで伝わってくる。
暖をとるにはちょうど良い火加減だが、先を急ごう。


道路脇の崖には、つららが下がっていた。
房総半島とは言っても結構寒いのだ。


頭上注意の看板が。
コンクリートを吹き付けた崖の途中が崩れ落ちている。


車は全く通らない田舎道を進む。
『登山口はまだ遠いの?』


バス停から40分ほど歩くと前方にトンネルが見えて来た。
トンネルの右側が石射太郎山・高宕山への登山口になっている。


トンネルは通行止めになっている。車が通らない理由だ。
このトンネルは怒田沢へ通じているが、怒田沢から先は行き止まりになっているため、
車は通らないのだ。


山登りに備えて、準備を整えて・・・


いよいよ山登り開始である。
有難いことに、雨は殆ど止んでくれている。
しかし、この天気もいつまで持ってくれるやら。


薄暗い杉林の中を色鮮やかな一団が進む。


薄暗い林を抜けると明るい場所に出た。


あいにくの雨で、眺望は全く望めない。


登山口から20分ほど登ると「石射太郎山」の伝説が書かれたパネルに到着。
昔、台田久保という巨人が高宕山北方の高い山の上にある大きな石に向かって、
鹿野山から強引に矢を射った。
すると石は遥か南方半里の谷間まで射飛ばされた。
その時台田久保は鹿野山で「石射たろう」と言ったそうな。
その時の言葉をとってこの山を「石射太郎山」というようになった
そうだ。


石射太郎山の前には柵がしてあって、その先は入れないため、横目で見ながら先へ進む。


石射太郎山から目指す高宕山までは約2.2Km。
しばらくは尾根沿いの上り下りの道を進む。


杉林の中を進む。


高宕山の登山道は泥岩で出来ており、軟らかい。
雨で濡れると滑り易いので下りは特に注意が必要だ。


『注意してっ滑り易いよっ!』


『おっと 危ないっ!』
(別に狙って撮ったわけではないのでご理解を)


山道は細いので一列縦隊で進む。


高宕観音の参道入口に烏帽子の形をした石があった。
何かを祀ったものであろうか? 単なる石がそこにあるとは思えない。


両側に狛犬に続き、石の仁王像が建てられている。
顔や頭の部分は一部崩れかけていたり、また、腕や片手が壊れている。
相当旧い造りなのだろう。歴史を感じる。
ここから150段ほどの石段が続く。


参道横に石の塔があった。
「宝暦八年つちのえとら」と刻まれている、そうだ。
(宝暦八年=1758年)


石段を上りきると、観音堂があった。
12時を少し回ったところである。


先ずは観音様へお参りしよう。


金色の観音様は観音堂の小さな祠に祀られていた。


辺りは乳白色の霧に包まれてきた。
『まるで墨絵の世界だねぇ』
雨に煙る高宕観音も捨てたものではない?


12時を過ぎてお腹も空いてきたので、雨宿りも兼ねて観音堂で昼食を摂ることに。
『観音様、前で失礼しますっ』


観音様の前では恐れ多い、ということなのか、岩屋で弁当を広げる組も。


昼食後は、いよいよ高宕山を目指す。


高宕観音堂の先の岩のドンネル潜る。


高宕観音から高宕山までは、険しい上りが続く。


『ロープにしっかり掴まって~』


梯子もある。
雨で滑り易い。思ったより厳しい道のりだ。


『たかが330mと聞いたけど、甘く見ちゃだめだねぇ』
同感である。


頂上への最後の階段を上ると・・・


頂上は狭い。
全員が登れる広さはないため、交代で登頂だ。


高宕山頂上(330m)を記す標識


山頂からの眺望は全くきかない。
本来なら遠く富士山・筑波山が望めるとのことだったが・・・残念!!


登頂も大変だが、下りはさらに厳しい。


『気を付けてっ!!』
何人かが転倒した模様である。
木の根っこや石が雨に濡れて滑り易くなっているのだ。


20分ほど下ると、いくらか平坦な道に出た。


雨の影響で、薄暗くなってきた。


1時間ほど下ったところで、小休止。


さらに5分ほど下ると、八良塚(はちろうづか)コースと国道410号の分岐点に差し掛かった。


この雨では、八良塚コース往復を望む声はなく、国道410号バス停を目指すことに。


『こっちの方向だね』


林の中は夕暮れ時のように暗い。


最新の注意を払いながら下る。


分岐点から30分で、急に視界が開けた。


林の中ではさほど感じなかったが、雨はかなり強く降っていた。


「関東ふれあいの道」のゴール「下の台バス停」まではまだ1.3Kmの表示だが・・・


貸切バスは目の前に既に到着しており、我々の到着を今や遅しと待っていた。
『ありがたいねぇ、これだからバスハイクは止められないんだょ』
毎回満席に近い理由が分かった気がした。


『雨の中、大変お疲れ様でしたっ!』
労いの声が飛び交う中、高宕山を後にし、帰路に就いた。
雨中のハイキングということで期待した富士山の眺望は望むべくもなかったが、
変化に富んだ房総半島高宕山の自然を堪能した一日であった。
主催者から、墨絵の世界に浸れたことに大満足しているとのコメントがあった。
雨のハイキングでも「墨絵」を楽しむという違った楽しみ方がある、ということであろうか。
「関東ふれあいの道」ということもあり、また歩く機会があるかもしれない。


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