2012年2月26日(日)
「健康ウォーキングの会」の仲間からお誘いが掛かり、曽我丘陵から富士山・梅林を愛でる
ハイキングに参加した。
当初は1週間前に予定されていたのだが、曽我梅林の梅は全く咲いていない状態のため、
この日に延期されたものである。
日曜日となったのは、”少しでも負担を軽く”という提案者の心配り。
ホリデーパスを利用すれば、半額以下で行けるので、これはありがたい。
(停車しているのは特急スーパーひたちでこれはパス)
荒川沖駅06:16発の電車に乗り込んだ。
土浦から乗車した有志5名と合せて計11名の参加者になった。
毎週金曜日の例会のいつものメンバーである。
日曜日のため、この車両に乗っているのは我々一行の他数人のみ。
早速曽我梅林の話に花が咲き、その賑やかなこと。
山の手線、東海道線と乗り継いで国府津駅で御殿場線に乗り換える。
9時11分発沼津行きの御殿場線は3両編成だ。
御殿場線車内
本数が少ない割には空いている。
観梅目当ての人の出足はやや鈍いようだ。まだ梅の見頃ではないということ?
この日のスタート、国府津から2つ目の上大井駅に到着。
ホームが濡れている、ということは少し前まで雨が降っていた?
少し不安になってきたが、予報(曇り時々晴れ)を信じるしかない。
上大井駅前
普通であれば、駅前で準備体操、ということになるのだが、
ついつい気持ちが焦るのか、直ぐに出発となった。
9時20分、時間はたっぷりある。
この日のコースを推奨した二人が先頭を歩く。
『2年前に来た時は満開だったのよねぇ』
『富士山もきれいに見えたのよね~』
ハイキングコースに差し掛かる。
コースの案内が分岐点や角には必ずと言っていいほど立てられており、道に迷うことはない。
昨年喜寿を迎えますます元気なTさんも参加している。
力強く颯爽と歩く姿は格好良い。
実は女性陣に一番人気があるのである。
『決まってル~!』
のどかな田園風景の中を進む。
ひんやりした空気の中を歩くのは気持ちが良い。
9時45分、了義寺に到着。
案内板によると、
了義寺は、貞治六年(1367)八月、足柄地頭和田宗時が飛龍山了義寺と号し、
鎌倉から古先印元禅師を招いて開山した寺である。
と記されている。
臨済宗建長寺派の寺である。
皆さんが一休みしている間に本堂へお参りして行くことにし、石段を上る。
真新しい鐘楼
木の香りがするようだ。
飛龍山了義寺の本堂
本堂内部は凛とした空気が伝わってくる。
案内板にはまた、本堂には十二枚の杉の板戸絵があり、竜虎、竹林図など見事な墨絵で、
寛政六年(1794)秋、穐山桜氏雪保「秋山桂月」という女性が四十歳の頃、了義寺に
招かれて才筆をったと伝えられ雪舟派の流れをくむ近世漢画の貴重な資料である。と記されていたが、格子の隙間から撮ったため、周りはよく見えなかった。
了義寺を後にして「いこいの村あしがら」を目指して進んでいると、
道端にふきのとうが芽を出していた。
春を感じさせるひとコマである。
平地は畑、斜面はみかん畑というのどかな風景が広がる。
少しばかり坂道になってきた。
次第に身体が温まり、首筋・額に汗が滲んできた。
一休みして水分補給していくことに。
『お茶が美味しいわねっ』
またしばらく坂道を上って行く。
水仙の花が咲いていた。
「いこいの村あしがら」横の大井町農村公園で体調を整える。
「おおいゆめの里」から富士山方面を望むが全く見えない。
果たしてこの方角が合っているのかも分からない。
俳句会の大御所、野村浜生の俳句の碑があった。
春の雨 一村やわらかに 沈む
CALFORNIAナンバーを付けたトレーラータイプのキャンピングカーが
何故こんなところにあるのだろう?
このタイプのキャンピングカーは日本では殆ど見ることはない。
「いこいの村あしがら」
「いこいの村あしがら」の向かい側に”お山のひなまつり”の看板が。
中にはおひなさまが飾られていた。
お地蔵さん前を右に曲がり、浅間山電波塔を目指す。
なかなか見晴しが良い。
曽我丘陵は殆どが舗装されている、また急な坂道はないので歩き易い。
皆さん、元気いっぱいである。
曇っているので時折視界が開けても、方角が分からない。
こちらは相模湾方面?
あちこちに梅林があるが、丘陵の梅はご覧のとおり。
まだ1分咲き程度か?
『この辺りはまだちょっと早過ぎたわねぇ』
『今年は異常なのよっ』
浅間山の無線鉄塔を通過。
曽我丘陵の尾根に沿って進む。
NHKの新しく出来たばかりの無線鉄塔前で一休み。
不動山頂上への入口の標識があったが、頂上は視界が全く効かないため、素通りだ。
見事な杉の林だ。
曽我丘陵一帯はアオキの木がたくさん自生している。
アオキは日陰でもよく育つのが特徴だ。
雌雄異種で、冬に真っ赤な実がつくのは、雌株である。
不動山を過ぎると、ずっと下りが続く。
そろそろお腹が空く頃だが、弁当に適した場所が見つからない。
『梅林までお昼は我慢しようねっ』
まだまだ元気である。
曽我丘陵中腹の南に面した一帯は早咲きの梅が5分咲きの状態といったところ。
まもなく満開を迎えそうだ。
山を下ると眺めが良くなってきた。
『素晴らしい景色ねぇ』
相模湾が望める。
梅林を縫うように下る。
もう少し晴れて富士山が望めれば申し分ない眺めなのだが・・・
六本松跡の碑
ここは5本の道の分岐になっている、とのこと。
どちらへ行けば良いのか分からなくなったので、一本松を目指すことにした。
国府津方面と書いてあるし、次々と人が上ってくるので、こちらへ行けば何とかなるだろう。
お腹が空いているのに、元気いっぱいの笑顔が良い。
ほどなく一本松に到着。
六本松の代替わりだが、随分と若い木である。
”別所梅林への近道”と記されているので一安心。
急な坂道が続く。
こちらは小田原方面
真ん中を走っているのは「小田原厚木道路」である。
曽我丘陵を下りきると一段と梅の花が咲いている状態になってきた。
満開の梅の花はやはり美しい。
二宮尊徳像と遺髪塚
尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。
当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、
分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
天保十一年(1840)尊徳は川久保家の再興をはかるることになり、市太郎、
民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。
その結果もっとも優れた成果をあげた民次郎が川久保家を継ぐことになった。
この民次郎は下野国桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、長らく尊徳に従者として
仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。
この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで
建てたものである。
別所梅林
出店が並んで賑やかだ。
見事な梅の盆栽
買って帰るのも大変なので、写真で我慢することにした。
12時35分、梅の木の下で弁当を広げる。
殆どの梅はまだ蕾の段階だが、花より団子である。
別所梅林・梅まつりは3月6日まで延長することになったそうだ。
梅まつり期間中は梅の木の下への出這入りは自由だが、農家の方々が農作業に入るため、
出這入りはできなくなる。観梅は自由である。
日曜日ということもあって、大勢の人で賑わっていた。
郷土芸能が始まるそうで、特設舞台前には既に大勢の見物客が
陣取って開演を待っていた。
寿獅子舞の様子
笛・太鼓・鐘の拍子に合わせて獅子が舞うところ。
小田原市の無形文化財に指定されている。
ひょっとこ? が出てきた。
二人のひょっとこのパントマイムのような軽妙なやり取りが面白い。
案内板前の紅梅は見頃になっている。
案内板には、曽我の梅林は、曽我別所梅林、曽我原梅林、中河原梅林からなり、
その規模は90ヘクタール、約30,000本の白梅が植えられており、小田原梅の産地で・・・
毎年600~650トンの生梅が収穫される・・・と記されている。
神奈川県の景勝50選に選ばれている。
下曽我駅に向かう。
これは蝋梅、既に満開は過ぎて終期を迎えているが、まだ独特の香りを漂わせている。
20分ほどでこの日のゴール、下曽我駅に到着。
次の電車まで40分ほどある。
駅前で、みかんや梅干しが売られていた。
みかんはどれでも1袋100円ということで、上々の売れ行きだ。
自分は土産に梅干しを買っていくことにした。
1時間に1本の電車のため、ホームは人で溢れた。
このような状態になるのは梅まつりの期間だけかもしれない。
国府津で東海道線に乗り換え、帰路に就いた。
早くも次はどこにしようか話し合ってる?
この日は、予報に反して曇りだったことから、”梅の背景に富士山”という絶景を
楽しむことはできなかったのは残念ではあった。
曽我梅林の満開はもう少しの状態だったが、早咲きの白梅十郎梅は見頃を迎えていたので、
1週間遅らせた効果はあったというもの。
提案した二人も何とか面目を保って一安心といったところだろう。
いろんな場所に出かけているお二人の新たな提案に期待したい。
”気ままなウォーキングの目次”へ
「健康ウォーキングの会」の仲間からお誘いが掛かり、曽我丘陵から富士山・梅林を愛でる
ハイキングに参加した。
当初は1週間前に予定されていたのだが、曽我梅林の梅は全く咲いていない状態のため、
この日に延期されたものである。
日曜日となったのは、”少しでも負担を軽く”という提案者の心配り。
ホリデーパスを利用すれば、半額以下で行けるので、これはありがたい。
(停車しているのは特急スーパーひたちでこれはパス)
荒川沖駅06:16発の電車に乗り込んだ。
土浦から乗車した有志5名と合せて計11名の参加者になった。
毎週金曜日の例会のいつものメンバーである。
日曜日のため、この車両に乗っているのは我々一行の他数人のみ。
早速曽我梅林の話に花が咲き、その賑やかなこと。
山の手線、東海道線と乗り継いで国府津駅で御殿場線に乗り換える。
9時11分発沼津行きの御殿場線は3両編成だ。
御殿場線車内
本数が少ない割には空いている。
観梅目当ての人の出足はやや鈍いようだ。まだ梅の見頃ではないということ?
この日のスタート、国府津から2つ目の上大井駅に到着。
ホームが濡れている、ということは少し前まで雨が降っていた?
少し不安になってきたが、予報(曇り時々晴れ)を信じるしかない。
上大井駅前
普通であれば、駅前で準備体操、ということになるのだが、
ついつい気持ちが焦るのか、直ぐに出発となった。
9時20分、時間はたっぷりある。
この日のコースを推奨した二人が先頭を歩く。
『2年前に来た時は満開だったのよねぇ』
『富士山もきれいに見えたのよね~』
ハイキングコースに差し掛かる。
コースの案内が分岐点や角には必ずと言っていいほど立てられており、道に迷うことはない。
昨年喜寿を迎えますます元気なTさんも参加している。
力強く颯爽と歩く姿は格好良い。
実は女性陣に一番人気があるのである。
『決まってル~!』
のどかな田園風景の中を進む。
ひんやりした空気の中を歩くのは気持ちが良い。
9時45分、了義寺に到着。
案内板によると、
了義寺は、貞治六年(1367)八月、足柄地頭和田宗時が飛龍山了義寺と号し、
鎌倉から古先印元禅師を招いて開山した寺である。
と記されている。
臨済宗建長寺派の寺である。
皆さんが一休みしている間に本堂へお参りして行くことにし、石段を上る。
真新しい鐘楼
木の香りがするようだ。
飛龍山了義寺の本堂
本堂内部は凛とした空気が伝わってくる。
案内板にはまた、本堂には十二枚の杉の板戸絵があり、竜虎、竹林図など見事な墨絵で、
寛政六年(1794)秋、穐山桜氏雪保「秋山桂月」という女性が四十歳の頃、了義寺に
招かれて才筆をったと伝えられ雪舟派の流れをくむ近世漢画の貴重な資料である。と記されていたが、格子の隙間から撮ったため、周りはよく見えなかった。
了義寺を後にして「いこいの村あしがら」を目指して進んでいると、
道端にふきのとうが芽を出していた。
春を感じさせるひとコマである。
平地は畑、斜面はみかん畑というのどかな風景が広がる。
少しばかり坂道になってきた。
次第に身体が温まり、首筋・額に汗が滲んできた。
一休みして水分補給していくことに。
『お茶が美味しいわねっ』
またしばらく坂道を上って行く。
水仙の花が咲いていた。
「いこいの村あしがら」横の大井町農村公園で体調を整える。
「おおいゆめの里」から富士山方面を望むが全く見えない。
果たしてこの方角が合っているのかも分からない。
俳句会の大御所、野村浜生の俳句の碑があった。
春の雨 一村やわらかに 沈む
CALFORNIAナンバーを付けたトレーラータイプのキャンピングカーが
何故こんなところにあるのだろう?
このタイプのキャンピングカーは日本では殆ど見ることはない。
「いこいの村あしがら」
「いこいの村あしがら」の向かい側に”お山のひなまつり”の看板が。
中にはおひなさまが飾られていた。
お地蔵さん前を右に曲がり、浅間山電波塔を目指す。
なかなか見晴しが良い。
曽我丘陵は殆どが舗装されている、また急な坂道はないので歩き易い。
皆さん、元気いっぱいである。
曇っているので時折視界が開けても、方角が分からない。
こちらは相模湾方面?
あちこちに梅林があるが、丘陵の梅はご覧のとおり。
まだ1分咲き程度か?
『この辺りはまだちょっと早過ぎたわねぇ』
『今年は異常なのよっ』
浅間山の無線鉄塔を通過。
曽我丘陵の尾根に沿って進む。
NHKの新しく出来たばかりの無線鉄塔前で一休み。
不動山頂上への入口の標識があったが、頂上は視界が全く効かないため、素通りだ。
見事な杉の林だ。
曽我丘陵一帯はアオキの木がたくさん自生している。
アオキは日陰でもよく育つのが特徴だ。
雌雄異種で、冬に真っ赤な実がつくのは、雌株である。
不動山を過ぎると、ずっと下りが続く。
そろそろお腹が空く頃だが、弁当に適した場所が見つからない。
『梅林までお昼は我慢しようねっ』
まだまだ元気である。
曽我丘陵中腹の南に面した一帯は早咲きの梅が5分咲きの状態といったところ。
まもなく満開を迎えそうだ。
山を下ると眺めが良くなってきた。
『素晴らしい景色ねぇ』
相模湾が望める。
梅林を縫うように下る。
もう少し晴れて富士山が望めれば申し分ない眺めなのだが・・・
六本松跡の碑
ここは5本の道の分岐になっている、とのこと。
どちらへ行けば良いのか分からなくなったので、一本松を目指すことにした。
国府津方面と書いてあるし、次々と人が上ってくるので、こちらへ行けば何とかなるだろう。
お腹が空いているのに、元気いっぱいの笑顔が良い。
ほどなく一本松に到着。
六本松の代替わりだが、随分と若い木である。
”別所梅林への近道”と記されているので一安心。
急な坂道が続く。
こちらは小田原方面
真ん中を走っているのは「小田原厚木道路」である。
曽我丘陵を下りきると一段と梅の花が咲いている状態になってきた。
満開の梅の花はやはり美しい。
二宮尊徳像と遺髪塚
尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。
当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、
分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
天保十一年(1840)尊徳は川久保家の再興をはかるることになり、市太郎、
民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。
その結果もっとも優れた成果をあげた民次郎が川久保家を継ぐことになった。
この民次郎は下野国桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、長らく尊徳に従者として
仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。
この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで
建てたものである。
別所梅林
出店が並んで賑やかだ。
見事な梅の盆栽
買って帰るのも大変なので、写真で我慢することにした。
12時35分、梅の木の下で弁当を広げる。
殆どの梅はまだ蕾の段階だが、花より団子である。
別所梅林・梅まつりは3月6日まで延長することになったそうだ。
梅まつり期間中は梅の木の下への出這入りは自由だが、農家の方々が農作業に入るため、
出這入りはできなくなる。観梅は自由である。
日曜日ということもあって、大勢の人で賑わっていた。
郷土芸能が始まるそうで、特設舞台前には既に大勢の見物客が
陣取って開演を待っていた。
寿獅子舞の様子
笛・太鼓・鐘の拍子に合わせて獅子が舞うところ。
小田原市の無形文化財に指定されている。
ひょっとこ? が出てきた。
二人のひょっとこのパントマイムのような軽妙なやり取りが面白い。
案内板前の紅梅は見頃になっている。
案内板には、曽我の梅林は、曽我別所梅林、曽我原梅林、中河原梅林からなり、
その規模は90ヘクタール、約30,000本の白梅が植えられており、小田原梅の産地で・・・
毎年600~650トンの生梅が収穫される・・・と記されている。
神奈川県の景勝50選に選ばれている。
下曽我駅に向かう。
これは蝋梅、既に満開は過ぎて終期を迎えているが、まだ独特の香りを漂わせている。
20分ほどでこの日のゴール、下曽我駅に到着。
次の電車まで40分ほどある。
駅前で、みかんや梅干しが売られていた。
みかんはどれでも1袋100円ということで、上々の売れ行きだ。
自分は土産に梅干しを買っていくことにした。
1時間に1本の電車のため、ホームは人で溢れた。
このような状態になるのは梅まつりの期間だけかもしれない。
国府津で東海道線に乗り換え、帰路に就いた。
早くも次はどこにしようか話し合ってる?
この日は、予報に反して曇りだったことから、”梅の背景に富士山”という絶景を
楽しむことはできなかったのは残念ではあった。
曽我梅林の満開はもう少しの状態だったが、早咲きの白梅十郎梅は見頃を迎えていたので、
1週間遅らせた効果はあったというもの。
提案した二人も何とか面目を保って一安心といったところだろう。
いろんな場所に出かけているお二人の新たな提案に期待したい。
”気ままなウォーキングの目次”へ